本と植物と日常

本を読んだり、訳したり、植物に水をやったりの日々…。

フォークナー『死の床に横たわりて』を読む

 

フォークナー(1897年~1962年)の『死の床に横たわりて』(佐伯彰一訳、筑摩書房<世界文学全集所収>)を読んだ。フォークナーが『響きと怒り』に続いて、1930年に発表した小説だ。

物語は、アメリカ、ミシシッピー州の架空の土地ヨクナパトーファ郡に住む貧しい白人一家バンドレン家の母親アディが亡くなり、その夫アンスが生前アディにした約束にしたがい、一家全員で近郊の都市ジェファソンに遺骸を運ぶ話。ただし、突然の大雨による増水でジェファソンに行くための橋がほとんど流され、難儀しながら棺をのせた馬車ごと川を渡ったりして、災厄に見舞われる。

ただし小説の眼目はその移動にはない。

フォークナーは、前作『響きと怒り』と同様、物語の展開をバンドレン一族をはじめとする様々な人々のナレーションに委ねるという手法をとっており、読みながら視点が混乱させられる。4人の男と1人の女からなるバンドレン家の兄弟構成一つをとってみても、読み終わってみれば彼らが兄弟だと分かるのだが、読んでいる最中は登場人物の人間関係がよく分からず、作品世界のなかに没入しにくい。またその兄弟も、次男ダールの独白はたびたび登場するのに対し、三男ジュエルの独白はほとんどなく、複雑な行動をするジュエルの心理状態は、ダールをはじめとする人々の内面をとおして想像するしかない。要するに、様々な人々のジュエル観が描かれているのにたいし、肝心のジュエルの独白はほとんどないので、結局、ジュエルの心の動きはよく分からないということになる。このジュエルのことはほんの一例だが、それ以外にも、父親をはじめ一家の行動はどこかちぐはぐで、登場人物たちの心理を追うことは不可能に近い。登場人物それぞれが自分の内面をさらけ出しているにも関わらず、結果としては各人それぞれに未解決の部分が残るという感じだ。よく言えば、彼らの心理に正解などなく、さまざまな読み手に、さまざまな解釈を可能にすると言ってもいい。

結局、『死の床に横たわりて』という作品が優れた小説かどうか、私はまたしても判断保留せざるを得ないのだが、独特の象徴主義的な作品だとは言える。つまり、前作『響きと怒り』と同様、作品全体をとおしてまだ語られていないなにかが作品のなかに秘められているのではないかという印象を受けるのだ。