本と植物と日常

本を読んだり、訳したり、植物に水をやったりの日々…。

フォークナー『アブサロム、アブサロム!』を読む

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アブサロム、アブサロム!』(岩波文庫)


フォークナー(1897年~1962年)の長編小説『アブサロム、アブサロム!』(藤平育子訳<岩波文庫>)を読んだ。ミシシッピー州の架空の土地ヨクナパトーファ郡を舞台とするする長編小説としては第6作で、1936年に発表された。

物語のテーマは、ウエスト・ヴァージニア州の貧しい白人一家に生まれたトマス・サトペンが、その境遇から抜け出し新たな一族をつくり上げようとして行った努力とその崩壊を、サトペン自身ではなく、その周辺にいてサトペンの行動を見たり聞いたりした人間の証言から組み立てていくというもの。これに、サトペンがハイチで結婚して生まれた子供チャールズ・ボン、ジェファソンに移住して再婚したから生まれた子どもヘンリー・サトペンとジュディス・サトペンらの思惑や行動がからむが、それらも、チャールズやヘンリー本人ではなく、周囲の人間の報告や推測で構成される。南北戦争の時代で、南部の伝統の崩壊が通奏低音のように作品全体に響いている。

アブサロム、アブサロム!』の叙述の特徴は、訳者・藤平育子によれば、「幾重にも連なる語りの波紋こそ、語りの芸術とも呼びうる『アブサロム』の離れ技」(岩波文庫上巻、345頁<訳者解説>)ということになるが、私からすると、その「語り」が、読者が内容(テーマ)の深みを探求することを妨げているのではないかという気がしないでもない。

たとえば作品の後半は、クウェンティン・コンプソン(『響きと怒り』の登場人物)とその友人シュリーヴによるトマス・サトペンやチャールズの行動の謎解きだが、それがまるでコナン・ドイルの探偵小説のように進んでいく。さしずめ、いろいろな関係者の証言をききながら全体の物語を組み立てることができなかったコンプソンはワトソンで、関係者を誰一人知らないのにコンプソンの話から物語の全貌を組み立てていくシュリーヴはシャーロック・ホームズだ。だからこれをドイル作品のように「語りの芸術」と呼んでもいいのだが、その分、登場人物たちはカリカチュアのように一面的な行動しか行わず、作品を読みながら登場人物の思考を自分で組み立てて同化していくというおもしろさは少ない。

要するに、フォークナーは、さまざまな登場人物について、あらかじめ細かな見取り図を作成し、状況に応じてそれを小出しにしながら作品をまとめていったようにおもわれるのだが、執筆しながら登場人物のキャラクターが膨らんでいくということは少ないようにおもわれる。

フォークナーの作品を読めば読むほど、私が理想とする小説作法からはほど遠い作家という気がしてくる。