本と植物と日常

本を読んだり、訳したり、植物に水をやったりの日々…。

ドライサー『アメリカの悲劇』を読む

アメリカの小説家セオドア・ドライサー(1871年~1945年)の『アメリカの悲劇』(1925年、大久保康雄訳、新潮文庫)を読んだ。ドライサーの代表作であると同時にアメリ自然主義文学の傑作とされる作品だ。

この作品、ともかく叙述があまりにも平坦でだらだらした感じで、読むのにとても難儀した。1月に読み始めて、途中で読むのが面倒になって翻訳作業に逃げ、それが終わったので読みを再開し、ようやく読み終えたというのが実情だ。

話は三部構成で、第一部では主人公であるクライド・グリフィスという若者の生い立ちが描かれる。続いてクライドは、同じ会社に勤めるロバータという女性と恋愛関係になるものの、上流階級のソンドラに心変わりし、その後、ロバータが妊娠していることが分かったために、それが重荷となって殺害を決心する。しかし、思いがけない展開でロバータは湖で溺れ死んでしまう。第三部はその死をめぐる裁判の描写で、クライドは殺人罪に問われ、不道徳な生き方があらわにされて陪審員の顰蹙をかい、死刑となる

当初私は、この作品は恋愛小説なのかなとおもって読んでいたのだが、クライドとロバータの恋愛心理はほとんど描写されず、作者の視点から二人の恋愛が説明されていく。これが最初にも書いたこの作品の叙述方法に対する私の大きな不満の原因で、二人は作者の意のままに出会い、あいびきを重ねてセックスをするだけなので、読みながら、二人の感情のなかに入っていくことができない。ちなみに、二人が結婚の約束を交わしていないということはこの作品の大きなポイントなのだが、普通に考えれば、肉体関係を結ぶときに暗々裏に将来の結婚について思いめぐらすのではないだろうか。そのあたりの微妙な心理については、作者のつごうで省かれているとしかいえない。クライドの心変わりの描写も、あまりにも機械的だ。

で結局これは、裁判の進行を描くことが主眼の小説なのかと考えざるをえないのだが、それにしては、事件までの描写があまりにも長すぎる。

読みながら気づいた点を一つだけあげておくと、作品の主要舞台はリカーガス(Lycurgus)という架空の都市なのだが、この地名はそのまま古代スパルタの伝説的な立法者の名前であり、そのことが厳正な裁きの問題を暗示しているのかもしれない。

去年私はウィリアム・フォークナー(1897年~1962年)の作品を集中的に読んだのだが、フォークナーが独自の叙述スタイルを確立し、それによって『響きと怒り』を書き上げるのが1929年だ。うがった見方をすれば、フォークナーの手法は、この『アメリカの悲劇』のような叙述スタイルに対するアンチテーゼとして出てきたのではないかという気もする。

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20世紀初頭のアメリ自然主義文学の代表作『アメリカの悲劇