亡くなったY君のことも書いておこう。彼のために。そして自分のために…。
Y君は1982年生まれで、九州南端のK県出身。私が彼と知り合ったのは、彼が古都の美大に通っていたころのことなので、知り合ってから約18年経つ。いろいろ好奇心旺盛で、コミケに興味があるということで、冬と夏、たびたび一緒にコミケに行ったりして交友を深めた。あれはちょうど東浩紀が『存在論的、郵便的』でデビューした数年後の頃で、私もコミケに関心をもっていた。
大学を出て東京の会社に就職したのだが、1年ほどたってから体調不良を訴え、東京では生活できないということで会社を辞め、実家に戻った。それが2005年で、その時私は、たまたまある発表を控えており、東京を去る前に、その資料作成や読み合わせなどでヘルプしてくれたことをよく覚えている。
その後も体調は回復せず、簡単なアルバイトをしながら実家で生活していたが、通院の関係でK県を離れるのが難しいということで、2005年以降は、2度くらいしか会っていない。最後に会ったのも、もう5年以上前になる。しかし、メールと電話では、私の良い相談相手で、15年間ほとんど会っていないということが、自分でも信じられないくらいだ。それでも、あるいはそれだけに、いつも会っている人たち以上に濃厚な時間を共有できたような気がする。
最近は、自分のこれまでの生き方を振り返って、それから抜け出すためにも、それを小説にまとめるとがんばっていた。去年の11月には、彼からこんなメールを受け取っている。
「先程は急にお電話して失礼しました。電話の中でお話できなかったことを、メールでお伝えします。ここのところ体もメンタルも調子が悪く、かなり人生について捨て鉢な気分になっていたのですが、10月に『37歳になってニートみたいな生活して、全然お前は自分の書くものを正面から見ていない』と、ある方からこってり叱られて、前を向いて、先に進む事を考え始めています。ずっと温めていた書きたい話もあり、しっかりとした資料、取材をしたい話もあるので、行動を始めるだけです。今、僕はようやく前を見る勇気が持てています。普通の会社勤めが自分にはできないことがわかっているので、今年は大変気が滅入って居たのですが、何か、前に進みたいと今思って、このメールを書いています。考えをお聞かせください。よろしくお願い致します。」
それで、ともかく前に進むようにと返事をすると、しばらくして次のようなメールがきた。
「僕はどうしても、普通の人と違う部分があり、それはどうやら遺伝性の物だと知り、この10年、かなりふてくされて生きていました。10年という長い時間を、それで棒に振りました。あまりいい文章が書ける人間ではないですが、僕だけにしか書けないものを誰にでもわかる文章にしていく作業は、好きな作業です。それが、なにか、この先に続いて行かないか、と、今必死に文字を書き始めています。」
6月中旬に届いたメールは次のとおりで、元気に小説を書き続けているのが分かる。
「僕は、初稿を上げるために校正中です。ちょっとした言葉遣いで空気が全然変わっちゃうので、慎重に作業を進めています。また、全体の構成をちょっと変えたら、とも言われているので、お話を分解してリライトしてるところもあります。お互いがんばりましょう!!」
それが、7月に入り突然の死ということになる。実は数日前にお母さんからお手紙が届いたが、それにも
「新しいことへの挑戦がはじまり、はり切って執筆に取り組んでいるとばかり思っていました。なぜ? なぜ? という疑問ばかりが頭の中をめぐって、いまだに、受け止めることができずにおります。」
とあり、ご家族にとってもあまりにも突然だったことが分かる。最後の最後で、作品の完成に行き詰ってしまったのだろうか。コロナのせいで葬式にも行けず、遠くから死を受け止めるしかないのだが、それにしてもあまりにもあっけなくて、ただ茫然自失している。