本と植物と日常

本を読んだり、訳したり、植物に水をやったりの日々…。

宿命論的でダイナミックさに欠けるフォークナー

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独自手法でアメリカ南部の深層を掘り下げたフォークナー作品


7月から9月にかけて、アメリカの文学者ウィリアム・フォークナー(1897年~1962年)の中編・長編小説を集中的に7冊読んだので、その感想をまとめておく。

まず読んだ作品は次のとおり(発表年代順)。

『サートリス』(1929年)

響きと怒り』(1929年)

死の床に横たわりて』(1930年)

サンクチュアリ』(1931年)

八月の光』(1932年)

アブサロム、アブサロム!』(1936年)

『自動車泥棒』(1962年)

以上の7作に共通するのは、まずすべてがミシシッピー州のヨクナパトーファ郡という架空の土地を舞台にしており、登場人物たちも幾つかの作品で重なっているということ。この手法によって、南北戦争以降のアメリカ南部が抱えていた文化的・経済的問題点が多角的・重層的に掘り下げられる。

次に大半の作品が、複数の登場人物の意識(視点)から語られるということ。これも、フォークナー作品の重層性を増している。

ただし、作品の語り手を特定の人物に固定しないというフォークナーの手法に関しては、個人的には賛同できない部分がある。というのも、フォークナー作品は、さまざまな視点を統合しながら一つの事実に迫るという、一種の謎解きになってしまうきらいがあるようにおもわれるからだ。まあ、この点をしてフォークナーの語りの見事さとする評があることは認めるが、私からすると、物語の落としどころ(結末)があらかじめ決まっていて、その手のうちを明かさないために、叙述を意図的に混乱させているように感じられる。さしずめ、最後の作品『自動車泥棒』などはその典型といえるだろう。だから、結末でびっくりすると言えば言えるが、作品の最初に提示された問題点からの発展があまり感じられないのだ。『死の床に横たわりて』の結末にも、それは言えるだろう。

登場人物そのものも、大半は一定のパターンに添って動くだけで、作品のなかで何か、あるいは誰かの影響を受けて行動を変えるということがほとんどない。

八月の光』のリーナやジョー・クリスマスがその典型的な例だとおもうが、リーナは自分を妊娠させ棄てたルーカス・バーチの実像や献身的なバイロン・バンチに触れてもバーチを追うことをやめないし、クリスマスは幼児体験に縛られて自律的な行動をすることができない。『アブサロム、アブサロム!』のトマス・サトペンも、貧乏白人として生まれて差別され、その境遇から抜け出すためにさまざまな行動をとるが、それらはすべて若い頃に描いた富裕になり(白人の)立派な子孫を残すという憧憬から一歩も出ない。(ついでに言えば、『響きと怒り』の冒頭部分の語り手ベンジャミンは白痴で、自律的な行動をとることはできない。)

結局、フォークナー作品を支配しているのは、宿命論、あるいは一種の決定論とおもわれ、異なった背景・性格をもった人物が作品のなかでぶつかりあり、互いに影響をおよぼし合ったり変わったりしていくという意味でのドラマ性はほとんどない。

これはこれで小説の一つの手法なのかもしれないが、私にはフォークナー作品はあまりにも図式的で、ダイナミックさにかけるという気がしてならない。