本と植物と日常

本を読んだり、訳したり、植物に水をやったりの日々…。

はじめて地元の内科医に行く

今日は、尿酸値を下げる薬をもらいに地元の内科医院に行ってきた。

地元の内科医院で、はじめて薬を処方してもらった

私に初めて痛風の症状が出たのは22年9月。それ以来3年以上経過し、もう症状は出ないが薬だけは毎日飲んでいる(たまに忘れるときもありますが<笑>)。初めに足指の関節が急に痛くなるという痛風の症状がでて、何がなんだか分からず駆け込んだのが地元の総合病院だったので、それ以来ずっとその病院に通い、薬がなくなると処方してもらっていたのだが、前回行ったときに、担当医から「もう症状は出ていないので、これからは当病院に来院する必要はありません。今後は一般の内科医院に行って薬をもらってください」と宣告された。とはいえ地元にかかりつけの医院はなく、どこに行ったらいいか悩んでネットで検索して、ここならいいだろうとおもわれる医院に行ってみた。ネットでは治療の良し悪しを判断できないので、選んだ条件は、駅近で大勢の人がとりあえず駆け込むような医院やビルの一画にテナントとして入っている医院を避けるということ。ほぼ立地と外観で選んだといっていい。そんなわけで、適当に選んだ医院だったので、どんな対応をされるか若干不安だったのだが、行ってみたらわりと親切に対応してくれたので安心した。

ところで私は、もう症状も安定し血液検査をしても尿酸値が下がっているのにいつまで薬を飲み続けなくてはならないか、通院するたびに疑問におもっていたのだが、今日訪問した医者に率直にたずねたところ、「尿酸値が普通の値になっているといっても安心できないので、それが通常値よりもかなり下がるまで薬を飲んだ方がいいんです。最低でも5年は薬を続けた方がいいですね」ということだった。

当面、薬をもらうためにこの医院に通うことになりそうだ。

一筋縄では片づけられないプロレタリア作家・葉山嘉樹

先日、林芙美子(1903<明治36>年~1951<昭和26>年)の『放浪記』を読んだが、それをきっかけに大正から昭和初期にかけてのプロレタリア文学に興味が湧いてきた。ということで、とりあえず葉山嘉樹(1892<明治27>年~1945<昭和20>年)の短編集(岩波文庫、2021年)を読んでみた。

プロレタリア文学からの逸脱に焦点をおいて編集された『葉山嘉樹短編集』

葉山は日本の初期プロレタリア文学を代表する作家の一人とされる人物で、代表作は『海に生くる人々』(1926年)。実は、まずこの作品について何か書きたかったのだが、どうも書きにくく、かつ葉山という作家のことがよく分からなかったので、こちらの短編集も読んでみた。合わせて原健一の『葉山嘉樹への旅』(2009年、かもがわ出版)というエッセーも読んだので、それを踏まえて、『葉山嘉樹短編集』と葉山について少し書いてみよう。

まず葉山自身についてだが、彼は福岡県の比較的裕福な家に生まれたものの、放蕩のあげく早稲田大学を中退し、その後、船員、医者の玄関番、鉄道管理局の臨時雇いなどの職を転々とした。この間、数々の労働運動にかかわり、治安警察法違反で、1922年、23年と連続して検挙され、服役している。獄中でこの短編集にも収載されている『淫売婦』を書き上げ、また『海に生くる人々』を起稿した。出獄後は左翼系の文芸誌『文芸戦線』の同人となり、同誌を中心に作品を発表している。その一方、生活は苦しく、妻の実家に寄食したり、工事現場で働いたりしている。しかし1930年代になると、労働運動やプロレタリア文学に対する弾圧が厳しくなり、1932年には『文芸戦線』が廃刊に追い込まれた。この頃の葉山の思想的な揺れと作品の関係がどうもはっきりしないのだが、Wikiのデータでは、葉山は転向して国策に同調していったとされ、終戦間近の頃、数度満州にわたり、敗戦後の混乱のなかで、1945年10月に満州で病死している。

葉山嘉樹の晩年を探った『葉山嘉樹への旅』

原健一の『葉山嘉樹への旅』は主に長野県の葉山ゆかりの地を訪問したり、葉山の未亡人と会ったエピソードなどを交えながら、『文芸戦線』廃刊から死までの葉山がどのような生活をしていたか、何を考えていたか、なぜ満州にわたったかなどを追いかけたエッセーだ。

本書の冒頭で原は、葉山嘉樹を読み直すことの意義について次のように書いている。

「プロレタリア作家葉山嘉樹は、初期の『淫売婦』『海に生くる人々』そして『セメント樽の中の手紙』などの作品で文学史の上にその名を留めているが、後期の文学活動や晩年については知られていないことが多い。従って名作を残しながら現在に読み継がれていない作家の一人と言って差し支えないだろう。その理由の第一に、『淫売婦』が『文芸戦線』(大正14年)に発表されたのに続いて『海に生くる人々』が出版されるやプロレタリア文学の騎手的な作家として脚光を浴びた葉山が、晩年は当時の国策であった『満蒙開拓』に協力したことが挙げられるだろう。(中略)そういったマイナス要因を一切払拭して、葉山嘉樹という作家の作品に迫ってみることは、今日の社会的状況からみて有意義なことにちがいない。」(本書8頁)

一方、岩波版の『葉山嘉樹短編集』は、「葉山は、マルクス主義を政治的・思想的な軸としながら、終始『文戦派』にとどまり続け、文学的にはなお『大正労働文学』的なアナーキーな傾向を引きずり続けていた。彼の作品はしたがって、『戦旗派』の政治主導的な社会主義リアリズムまがいの文学とは一味も二味も異なっており、ややもすると『プロレタリア文学』なるものを逸脱したようなところさえ見受けられる。本短編集は、そうした葉山の逸脱をあらためて確認しようとして編まれたものである」(同書解説、道籏泰三)とされる。道籏の解説に示唆されながら短編集に収載されている初期作品『セメント樽の中の手紙』や『淫売婦』を読むと、たしかに葉山は、実体験にもとづいて社会の底辺の労働者(や淫売婦)をリアルに描いてはいるものの、そこから社会変革を導き出そうとするよりも、社会の底辺の人々のグロテスクな生態の描写そのものにこだわっているような印象を受ける。

と、ここまで考えて反射的に思い浮かんできたのは、映画監督ルイス・ブニュエルの作風だ。ブニュエルは作品のなかでブルジョワ社会の欺瞞を好んでとりあげているが、同時に社会のグロテスクな一面もリアルに描き出す。そうした点は、彼の作品を左翼的とされるルキノ・ヴィスコンティの作品と比較すると明らかだが、ブニュエル作品は、プロレタリアとブルジョワの対立を糾弾するといった点には収まりきれない要素をもっている。ブニュエル映画は、シュルレアリスムの手法・思想にもとづいているとされるが、葉山の作品も、シュルレアリスムとまではいかないものの、そうした要素を多面にはらんでいるのではないだろうか。『葉山嘉樹短編集』に収載されている作品では、『労働者の居ない船』(1926年)や『人間の値段』(1935年)などに、そうした傾向が強いようにおもわれる。

ここでもう一度この短編集の編者・道籏の言葉を借りれば次のようになる。

「葉山の言葉は、意味作用を旨とする階級闘争の用語とは違った、いわば肉体から発する言葉だということだ。それは極論すれば、アナーキーなダダにも通じる言葉である。第一次大戦後のヨーロッパは革命の時代であるばかりでなく、絶望の上に廃墟のごとく立ち竦むダダの時代であった。(中略)葉山にもその精神のいくぶんかが流れ込んでいるのだ。ダダの言葉とは、論理でつながる言葉ではなく、意味を破壊し、そのつどの偶然の中で動いてゆく言葉だ。意味は受け手の側の自由に委ねられる。葉山が好む奇妙な比喩もその一端だ。」(337~8頁)

これを具体的に検証するため、『労働者の居ない船』から葉山の文章を引用してみる。

「金持ちの淫乱な婆さんが、特に勝れて強壮な若い男を必要とするように、第三金時丸も、特に勝れて強い、労働者を必要とした。そして、そのどちらも、それを獲ることが能きた。だが、第三金時丸なり、または淫乱婆としては、それは必要欠くべからざる事では、あっただろうが、何だってそれに雇われねばならないんだろう。

いくら資本主義の統治下にあって、鰹節のような役目を勤める、プロレタリアであったにしても、職業を選択する権利だけは与えられているじゃないか。

待ってくれ! お前は、『そりゃ表面のこった、そんなもんじゃないや、坊ちゃん奴』と云おうとしている。分った。

職業を選択している間に『機会』は去ってしまうんだ」(44~5頁)

三人称で語りだしながら、突然自問自答が始まる人称の揺れもさることながら、第三金時丸という船と淫乱婆の対比は、気持ちは分からないでもないが、あまりにも唐突だ。

結局、左翼的な匂いを強烈に放ちながら、行儀のよい教科書的な表現から逸脱しているこうした強引な文章が、作品を捨象して得られるテーマなどよりも強烈に、葉山の思想を表現しているようにおもわれる。一筋縄では片づけられない作家だ。

天南星と夏

本日の南関東は梅雨の中休みで、やや蒸し暑いものの好天だ。庭を見回ったところ、天南星(Arisaema)に新しい動きがみられた。

さて、Arisaemaはサトイモ科の植物で、多湿なモンスーン気候の東アジアがおもな自生地。天南星(テンナンショウ)はその中国名で、中国では塊根が漢方の生薬に用いられる。また日本にも各地にさまざまな種類のArisaemaが自生しており、マムシグサなどの名前で呼ばれている。

寓居では日本に自生している数種類の天南星を庭に地植えしているが、すでに花期は終わっている(だいたい早春に開花)。それ以外に、国外の天南星を数種鉢植えで育てているが、それらが発芽し始めた。

室生天南星に種ができた

こちらは関西地方の林などに自生しているArisaema yamatense(室生天南星)。3月くらいに開花し、現在はトウモロコシのように固まった種子がふくらみはじめている。この種子はもう少し大きくなり、秋に赤く熟す。それを鳥が食べて新しい土地に種を落とし、落ちた種は、生育に適した土地であればそこで発芽し、数年かけて親株になる。Arisaemaは全般的に生育サイクルが長く、世代交代に時間がかかる。

中国の天南星が発芽

こちらは、Arisaema fargesii(アリサエマ・ファーゲシイ)。チベットや雲南、ヒマラヤ地方に自生している。この地域はどのような季節に雨が降るのか、そもそも雨がどのくらい降るのかといった状況がよく分からず、水やりの判断が難しい。とりあえず、地上部が枯れたあとは水を与えずに乾燥した鉢植えの状態で保管し、5月末くらいから水やりを再開したところ、今日見たら新芽が伸びていた。とりあえずこの状態で適度に潅水し生育を見守ろうとおもう。

黄花天南星の若い株

こちらはArisaeme flavum(アリサエマ・フラブム)。Flavumという言葉は<黄色の>というラテン語の形容詞で、花のように見える仏炎苞が黄色いのが学名の由来。日本では黄花天南星と呼ばれることが多い。この天南星は、他の天南星と自生地がまったく異なり、エチオピア高原、アラビア半島、シルクロードなどの乾燥地帯に自生している。このため、これまた生育環境がよく分からず、栽培・管理は手探り状態。とりあえず、Arisaema fargesiiと同じように冬季は完全に乾燥させ、5月末くらいから水やりを再開したところ、新芽が伸びてきた。ただしこちらは若い株なので、3枚に割れた葉が1茎見えているだけで花茎らしいものは見えない。伸びたり枯れたりを繰り返しながら数年かけて成株になり黄色い花をつける。それまで辛抱強く育てていくしかない。

全シーンを主人公の視点から撮影した『湖中の女』

昨日はDVDでアメリカ映画『湖中の女』(1947年)を観た。レイモンド・チャンドラー原作の探偵映画で、ロバート・モンゴメリーが監督し、主人公の私立探偵フィリップ・マーロウもモンゴメリー自身が演じている。

ほとんど全シーンをマーロウの視点から撮影した『湖中の女』

物語は、マーロウが探偵小説『生きる前に死ぬべきか』を書き上げ、出版社に送ったところ、その出版社から連絡が入ったという場面から始まる。推理小説等の出版社キングズビー出版に赴くと、応対に出てきたのは社長の第一秘書であるエイドリアンという女性。彼女の用件は、実はマーロウの小説を出版しようというのではなく、「小説に描かれているような探偵がいれば紹介して欲しい」と切り出される。マーロウが、この小説は自分自身を描いたのだと説明すると、あらためて、「社長夫人が行方不明になっており、社長に秘密で夫人の行方を探して欲しい」と依頼される。依頼を受けてマーロウは社長夫人が付き合っていたレイヴァリーという男を訪ねるが、ちょっとした隙に殴られて気絶し、飲酒運転をしたように偽装されて逮捕される。この経緯に不審を感じたマーロウが釈放後にレイヴァリーを再訪すると、家には鍵がかかっておらず、彼は殺されている。

マーロウが自己紹介する冒頭のプロローグ的シーン

とまあ、こんな感じで物語が始まるが、この映画の最大の見どころは、マーロウ自身のナレーション・シーン以外は、カメラがすべてのシーンをマーロウの視点から撮影しており、部屋の中の鏡に写るちょっとしたカットを除いては、主人公マーロウの姿が画面に映らないことだ。つまり、原作の一人称の語りをそのまま映画撮影の手法に置き換え、観客が、マーロウと同じ視点から事件の謎を追うというスタイルになっている。ということで、この作品は本質的には娯楽映画なのだが、大胆な実験映画でもある。

マーロウに社長夫人の捜索を依頼するエイドリアン。当然ながらカメラ目線。

問題は、マーロウが第三者と対話するシーンは、基本的にカメラ目線の相手を正面から写すので画面が単調になることと、なれない撮影方法のためか、出演者たちがみなカメラを意識して、演技がややぎこちない感じになっていることだ。ユニークなアイデアだけに残念だった。

なお、事件はクリスマス・シーズンに起こったという設定になっており、クリスマスを意識したタイトルはしゃれていた。

長谷川四郎の静かな反戦文学作品『鶴』

長谷川四郎(1909<明治42>年~1987<昭和62>年)の短編集『鶴』を読んだ(講談社文芸文庫)。表題作の他「張徳義」「ガラ・ブルセンツォワ」「脱走兵」「可小農園主人」「選択の自由」「赤い岩」を収めている。

静かな反戦文学『鶴』

長谷川四郎という小説家はあまりポピュラーとは言えず、私も先日までその存在を知らなかった。函館生まれで、大学卒業後南満州鉄道に就職して1937<昭和12>年に中国大陸にわたり、1944<昭和19>年に満州で招集され、終戦後シベリアに抑留されて1950<昭和25>年に帰還、その後小説を書き始めたという経歴の作家だ。最初の作品であり代表作でもある『シベリア物語』が書かれたのは1952<昭和27>年、『鶴』はその翌年に書かれた。『シベリア物語』と『鶴』に書かれているのは、シベリア抑留とそれ以前の満州での生活や軍隊生活での見聞にもとづく実話に近い世界だ。

『シベリア物語』を私はまだ読んでいないが、『鶴』に収められている作品は、著者の戦争体験を反映しているといっても暗さや悲惨さに満ちたものではなく、あえて言えば静謐な感じの作品で、軽いユーモアさえ感じられる。

表題作であり最も感銘の深い『鶴』でいうと、終戦間もない頃、兵士不足のため、主人公はやや高齢で招集され国境警備隊に配属される。そしてそこで矢野という親しい仲間ができる。矢野は、「おれは天皇なんか、なんとも思っちゃいないんだ」と主人公に語り、主人公はそれに共感を覚える。そうしたことが彼らをますます親しくさせる。敗戦が濃厚になった頃、彼らは自爆用のダイナマイトをわたされる。そうした緊張のなかで敵陣監視の任務についたとき、主人公は望遠鏡の先に一羽の鶴を発見する。そこは沢山の葦が映えた沼沢地で、「鶴はこれらの自然物を背景にして直立し、まるで陶器の置物のようにじっと動かなかったが、時々首を垂れて、餌をあさっており生きていることがわかった。それは非常に静かで、純潔で、美しかった」(67~8頁)。

鶴を見た日からしばらくして、矢野は軍隊から逃亡する。そして矢野がいなくなって一週間が過ぎたとき、警備隊はソ連軍の攻撃を受ける。撤退前に将校から望遠鏡を取って来るよう命じられた主人公は哨舎に引き返し、望遠鏡でかつて鶴が飛ぶのを見かけた空虚な葦原を観察する。しかしそのとき、ソ連軍の撃った砲弾が主人公に命中する。作品は、「私の傷口は新たに開いて、血がこんこんと湧き出て来た。それは私自身の中にある海だった。海が私の周囲に涯しもなくひろがり、私はその無限の深みへ、ゆっくりと沈んでいった」(78頁)という自己省察で結ばれる。

ここには、戦争を告発する直接的な言葉は何もない。しかし、満州とシベリアで数々の死を目撃してきた作者による深みのある表現だとおもった。

鶴、戦争、死の対比が見事だ。

犯罪捜査をとおしてニューヨークを描いた『裸の町』

昨晩は夕食後、DVDでジュールス・ダッシン監督のアメリカ映画『裸の町』(1948年)を観た。ニューヨークを舞台とする犯罪映画だ。

犯罪捜査をとおしてニューヨークを描いた『裸の町』

この作品は、ジーン・デクスターという若い女性の殺害からはじまって、その犯人を追うニューヨーク市警察の活動を描いたものだが、物語そのものは比較的単純で、刑事たちの地道な聞き込み調査で、犯人はわりと簡単に特定されていく。ダッシンは、事件そのものよりも、いろいろな人たちが集まって来て容易に犯罪が起こるニューヨークという都市の特異性を描きたかったのだろう。ともかく、映画の主眼は殺人の謎解きよりも、刑事や犯人たちが動き回るニューヨークの街そのものを映し出すことにあるというような感じで、冒頭のニューヨーク上空の俯瞰からはじまり、当時としてはめずらしく、ほとんどすべてのシーンがロケで撮影されている。出演者も、スターは使わず無名の俳優を多く起用している。

作品はニューヨークの俯瞰からはじまる

また全編に制作者マーク・ヘリンジャー(映画完成後に心臓病で急死)のナレーションが入り、作品にドキュメンタリーのような印象を与えている。タイトルの<裸の町>とは、もちろんニューヨークのこと。

ラストの橋の上のシーンは大迫力

ドラマとしては、ガーザというデクスターを殺した犯人が判明してからの逃亡シーン、とりわけマンハッタンとブルックリンを結ぶ長いつり橋ウィリアムズバーグ橋の上での追跡が迫力があった。

ということで、作品は米アカデミー賞で撮影賞と編集賞を受賞している(キネマ旬報ベストテン5位)。

ジュールス・ダッシンは1950年代にアメリカの赤狩りを逃れてヨーロッパに移住し、そこで『日曜はダメよ』などを監督している。

作家を目指す女性の内面を赤裸に描いた林芙美子の『放浪記』

先日尾道旅行をして以来気になっていた林芙美子(1903<明治36>年~1951<昭和26>年)の自伝『放浪記』(新潮文庫)を読んだ。独特のリズムがある文体で、19歳で東京に出てから数年間の行動を赤裸々に綴った作品だ。これまで林芙美子には関心がなく、その生涯についてもほとんど知らなかったので、こんなに苦労した人なのだと、正直驚いた。

昭和初期の大ベストセラー『放浪記』

さて大正11年に19歳で尾道時代の恋人を追って東京に出た林芙美子は、詩人・童話作家を目指すが、名もない女性の詩や文章は金にならず、今でいうフリーターとしてさまざまなアルバイトを転々とする。そのアルバイトはほとんど長続きせず、食べるに困ることもしばしば。その間、さまざまな男性とつきあい同棲したりするが、それもうまくいかない。そんな八方ふさがりの日々だが、文筆で生きるという意志は固く、そのためアルバイトのわずかな合間にいろいろな本を読み続け、作家になるという夢を捨てない。そうしたなかでつづった日記をもとにしてまとめられたのが、この『放浪記』だ。

『放浪記』の原形は、昭和3年から翌年にかけて雑誌に連載され、昭和五年に『放浪記』と『続放浪記』として出版された。それが新潮文庫に収載されている『放浪記』の第一部と第二部だ。この第一部と第二部は日記から抜き出した記録をランダムにまとめているため、もともと年代順ではないのだが、第一部で掲載しなかった記事を拾い集めて第二部として発表したため、微妙に重複していると思われる内容がある。また林芙美子は東京から尾道や四国に行ったり、また東京に戻ったりを繰り返しているのだが、作品を読んでいてもその前後関係がさっぱり分からず、かなり戸惑った。このためはじめは非常にとっつきにくい作品だったが、途中から年代を考えながら読むことをやめると、作家を目指す女性の内面を描いた告白としてとてもおもしろく読めた。

なお林芙美子の日記には、皇族のあり方を批判しているため昭和初期には発表がはばかられた部分があり、それらが再度日記から抜き出されて昭和22年に発表された。その戦後に発表された部分が新潮文庫版の第三部だ。この記述も、年代的には第一部、第二部と重なっている。

『放浪記』の成立事情をいろいろ書いたのは、それが作品の冒頭に書かれていれば、もっと読みやすく、作品にすっと入れたのではないかと思われるからだ。

『放浪記』を読んだので、また尾道に行ってみたくなった(作品のなかに尾道の描写はほとんどないが)。