1572年8月にフランスで起こったプロテスタント の大量殺害事件<聖バルテルミーの虐殺>を詳解した歴史書 、『聖バルテルミーの大虐殺』(フィリップ・エルランジェ 著、1960年、日本版編訳・磯見辰典、白水社 、1985年)を読んだ。
複雑な16世紀フランス宮廷の動きを追った『聖バルテルミーの大虐殺』
聖バルテルミーの虐殺は、16世紀にヨーロッパ全体を揺り動かした宗教改革 、宗教戦争 のさなかにフランスで起こった事件で、8月24日の聖バルテルミーの日の早朝の教会の鐘の音を皮切りに、パリに集まったカルヴァン派 のプロテスタント (フランスではユグノー と呼ばれる)が、老若男女を問わず大量に殺害され、また虐殺は地方にも波及した。この虐殺による死者の数は不明で、フランス全体で10万人から6千人までさまざまな説があるが、殺されたのはプロテスタント だけではなく、日ごろ利害関係などで対立していたカトリック 同士も弾圧の混乱にかこつけて殺し合った。
事件の背景は複雑で、その複雑な背景を解き明かすことを目的としたのが本書だが、宗教問題だけでなく、宮廷内の勢力争い、対外関係などがからんでいるので、簡単には要約できない。
基本的には、16世紀はじめのフランソワ1世(在位1515年 ~47年)の時代から、フランスは、ハプスブルク家 を君主として戴く神聖ローマ帝国 とスペインに東西から包囲されるかたちとなり、ハプスブルク家 の勢力を弱めるため、カトリック 国でありながらドイツ(神聖ローマ帝国 )やオランダ(ネーデルラント )のプロテスタント を支持していた。このためフランスの宗教政策は、協調・寛容と弾圧を繰り返す複雑なものにならざるをえなかった。またフランソワ1世没後は、国王の早世が続き、政策が一貫しなかった。
フランソワ1世の子アンリ2世(在位1547年~59年)の急死後、フランスの政治的混乱に拍車がかった。15歳で即位したその長男フランソワ2世(在位1559年~60年)の時代には外戚 で強硬なカトリック のギーズ家が宮廷を牛耳るものの、フランソワ2世も急死し、弟のシャルル9世 (在位1561年~74年)が10歳で即位すると、シャルル9世 は、ギーズ家と敵対するプロテスタント の軍人コリニー提督を父のように慕い、その意見を重んじた。
これに、アンリ2世の王妃でフィレンツェ のメディチ家 から嫁いだカトリーヌ・ド・メディシス の思わくがからむ。
結局、カトリック とプロテスタント の融和を図るためにプロテスタント の統領であるブルボン家 のアンリ(後のアンリ4世 )とシャルル9世 の妹マルグリットの婚礼が行われるが、この婚礼は誰も満足させることができなかった。そしてこの婚礼を祝うためにプロテスタント の貴族たちがパリに集まったとき、虐殺が行われた。虐殺は、プロテスタント の主要人物を殺害するというギーズ家、カトリーヌ・ド・メディシス 、そして彼らに説き伏せられたシャルル9世 の当初の意図を超えて瞬く間に拡大し、パリは大混乱に陥って収拾がつかなくなる。宮廷の上層部は、権力争いの観点から敵対するプロテスタント の殺害を命じたのだが、それを機に、保守的なパリ市民の多くが日ごろ嫌悪感を抱いていたプロテスタント の隣人たちの一掃に動き出し、歯止めを失ってしまう。この事件は、異質なものを社会から排除しようとする民衆心理の恐ろしさを示す事例でもある。
「ずっと以前から、『怒りの日』を待ちながら市当局の狂信者たちは、ユグノー 教徒を秘密に調査する仕事にかかっていた。当時のパリは16の区に分かれていた。それらの区の責任者である16人の『地区警備長』は、それぞれ税割当名簿の抜粋を所持していた。そこには彼の区に住む異端者の名が書きつらねてあった。もし宮廷が虐殺を突然行なったとしても、それは市が長い間考えていたことであったし、また説教家たちも信者たちの精神をそれにむけて準備しておいたのである。そう考えれば、民衆の中から起こった推進力がなければそうなり得ないようなこの殺戮の激しさ、組織的な性格を理解することができる。それはまぎれもない、まさに爆発だったからである」(本書167頁)。
統制を失って殺された人たちの死体は次々にセーヌ川 に投げ込まれた。生きたままセーヌ川 に放り出され、殺された人たちもいたという。パリ市内に住むプロテスタント のなかには裕福な商人も多く、彼らの家は掠奪された。また殺されたのはプロテスタント だけではなく、日ごろ利害関係などで対立していたカトリック 同士も弾圧の混乱にかこつけて殺し合った。これが、歴史上あまり例を見ない大量虐殺だったことは間違いない。
この大虐殺のニュースは、瞬く間にヨーロッパ中に広まったが、シャルル9世 を非難する声は起こらなかった。しかし、寛容と弾圧のあいだを何度も揺れ動いたシャルル9世 の母后カトリーヌ・ド・メディシス にとって、虐殺は成功とは言えなかった。
「長い間平和の化身となっていたカトリーヌは、見通しのつかない、従って、最初から自分には統制のとれないような戦争を避けようとして失敗したのである」(本書205~6頁)。
虐殺の直後、しばらくの間は、プロテスタント 勢力は弱まったかのように見えたが、しばらくたつと、虐殺に対する怒りから、以前にもまして強くカトリック に敵対するようになる。フランスの混乱は、1589年のアンリ4世 の即位まで続くが、そのアンリ4世 も、最後は狂信的なカトリック 教徒に暗殺されてしまう。
著者エルランジェは、次のように聖バルテルミーの虐殺をまとめている。
「聖バルテルミー事件は、その時代の中心にすえてみない限り理解できない。その事件には、ユマニスト的で狂信的で、英雄的で獰猛なこの16世紀、寛容というものが裏切りと受け取られるこの世紀の刻印を刻まれているのである。しかしそれは何よりも、人間の狂気の恐るべき照明をみせてくれたのである。」(本書240頁)。
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複雑な事件を扱った本書は、残念ながら読みやすいとは言えない。特に分かりにくいのは、次々に登場する人名とそれぞれの人物同士の関係で、簡単な系図 や主要人物の略伝が添えられていたら、もっと読みやすかったかもしれない。また宮廷の内部事情は詳しく述べられているものの、史料の制約のせいか、虐殺に参加し騒動を拡大した民衆の心性についてほとんど触れられていないのは残念だった。