本と植物と日常

本を読んだり、訳したり、植物に水をやったりの日々…。

シチリアとウクライナのワインで夕食

昨日は日曜日だったので、シチリアとウクライナの白ワインを飲みながらゆっくり夕食をとった。ウクライナのワインを飲むのはこれがはじめて。

シチリアとウクライナのワインで夕食

最初は、先日開けたシチリアのワイナリー<ドンナフガータ Donnafugata>のワインがまだ残っていたのでそれを飲んだ。使っている葡萄は<カタラットCatarratto>というシチリアの土着品種で、けっこうインパクトが強い。ちなみにドンナ・フガータというのはイタリア語で<逃げ去る女>という意味で、ラベルにも女性の絵が描いてある。

https://www.qualite.co.jp/wineryintroduction/203/

同じ白といってもまったく違う味わいだった

それがすぐに空いたので、次はウクライナの<フルムシカ・ノヴァ Frumushika nova>というワイナリーがつくった白ワインにした。葡萄の品種は<シトロニー・マガラッチャ>。聞いたことのない品種だが、クリミア半島の研究所で近年生み出されたという。グレープフルーツをおもわせる柑橘系のほどよい酸味とほのかな甘さが調和していて、とても飲みやすいワインだった。

フルムシカ・ノヴァはオデーサの近くにあるワイナリーで、2006年に、1946年にソビエト軍によって破壊された古い集落の跡地でワインづくりを始めたという。

https://frumushika.com/vynorobstvo.html

ローズマリーで香りづけしたポークソテー

メインの料理はポークソテーで、焼くときに、庭で育てているローズマリーの小枝で香りづけした。焼けてからチーズを載せ、トマトソースをかけた。

ポークソテーには赤ワインを合わせた

飲み物は、ここから赤ワイン。赤ワインは酸化するのが早いので、ふだん家で飲むときはいつもハーフボトルにしている。それだと2回くらいで飲めるので、味もそんなに変わらない。ただハーフは種類が少なくてあまり選べないのが難点。この<カッシェロ・デル・ディアブロ Casillero del Diablo>はチリ原産だが、樽熟成タイプで味がしっかりしており、わが家の夕食にはしばしば登場する。葡萄の品種は<カベルネ・ソーヴィニョン Cabernet sauvignon>。メルシャンが輸入しているのでスーパーで簡単に手に入る。

締めはチーズ盛り合わせ

締めはチーズ盛り合わせ。

コンパクトなイクシアが開花。

イクシア・フレクスオーサ(Ixia flexuosa)が開花した。西ケープ地方に自生しているアヤメ科イクシア属(日本の園芸では一般的に「イキシア」と表記される)の球根植物だ。

イクシア・フレクシオーサ

イクシア属のなかには草丈80cmくらいに伸びる種もあるというが、このフレクスオーサは草丈は20cmほどでコンパクト。細長い葉は半分枯れかかっているが、その間から花茎が数本伸びて、先端にピンクのかわいらしい花をつけた。

ピンクの花でかわいらしい。

花弁は6枚で花の形は星型。花の直径は2cmほど。

辞書で調べてみると「flexuosa」は「曲がりくねった」という意味。葉か花茎がどこか曲がっていることに由来した命名とおもわれるが、寓居のフレクスオーサにはとりたてて曲がったところはない。

イクシア属はトリトニア(Tritonia)属と近縁。

京マチ子の力演が光る『偽れる盛装』

DVDで大映映画『偽れる盛装』(吉村公三郎監督、1951年)を鑑賞した。数年前に亡くなった知人が「好きな映画だ」とよく言っていたので、どんな映画か観てみたかったのだ。

京マチ子の力演が光る『偽れる盛装』

舞台は京都の祇園。君蝶(京マチ子)は、置屋「島乃家」の看板芸者だ。しかし島乃家は大きな借金を抱えて家そのものを失う危機にさらされており、腕一本でそれをなんとかしなくてはならない。また京蝶には京都市観光課で事務員をしている妹・妙子(藤田泰子)がいるが、彼女は島乃家のライバル店・菊亭の跡取り息子・孝次(小林桂樹)と恋仲だ。物語は、借金返済のため京蝶が色仕掛でかせぐ話に島乃家と菊亭のさや当てがからんでいく。

映画は早いテンポで進められ、テーマが金と色だけに、全体はとても明るいトーンになっている。それにダンスホールや流しの歌が挿入され、サービスで女湯の入浴シーンまである。いわゆる芸術的な映画というより、京マチ子の魅力を最大限に引き出すことを狙った娯楽映画で、京マチ子自身、力演でそれにこたえている。それらが総合的に評価されたためか、この作品は1951年のキネマ旬報ベストテンで邦画の第三位に選ばれている。

個人的な感想としては、よくできた佳作といった感じで、ベストテンに選ばれるような作品ではないとおもう。

音楽は伊福部昭だが、可もなく不可もない感じだった。

細かなところまでは分からないが、現在地下鉄になっている京阪電車が地上を走るなど撮影当時の京都の町の雰囲気がそのままカメラに写し取られているのは、現代からみたこの映画の予期せぬおもしろさといえるだろう。

ただし音声の保存状態がとても悪く、全体の流れは雰囲気で分かるものの、セリフがかなり聞き取りにくかった。

庭で3種類の天南星が開花

暖かくなって、裏庭でいろいろな植物の芽が伸びてきたが、そのなかにまじって、地植えしているサトイモ科の天南星(Arisaema)属の植物が3種開花した。

暖かさにひかれて、裏庭で天南星が咲き出した

天南星(テンナンショウ)は、雌雄異株の植物で、若い頃は雄株で、成長すると性転換して雌株となることで有名。昆虫によって受粉する虫媒花だが、花のように見える苞(天南星属の苞は、形が仏像の光背に似ているので、特に仏炎苞と呼ばれる)の上部は、匂いにひかれてやってきた昆虫を閉じ込めるような形状になっており、雄花には苞の基部に小さな出口がある。ようやくここから苞の外に抜け出した昆虫が次に雌花にひかれて中に飛び込むと、苞の内部に閉じ込められ、そこで雌花に受粉させるという仕組みだ。

種子が発芽して雄花を咲かせるまで数年かかり、雄花が受粉機能をもった雌花になるまでまた数年かかる。このため世代交代が遅く、絶滅危惧種に指定されている種も多い。自生地域は、アジア大陸と北アメリカの一部が中心。日本は、風土に応じて少しずつ異なった天南星属の植物が数多く自生している。

すらっと伸びて咲く室生天南星

さて草丈が約80cmと高くて目立つのは室生天南星(Arisaema yamatense)。近畿地方と中国・中部地方に自生している。学名の<yamatense>は、大和国(奈良県)にちなむ。

室生天南星の苞

こちらは苞の近接画像で、苞につつまれて中央に顔を出している細長いものが花序付属体。いわゆる「花」は、付属体の下方にあり、外側からはまったく見えない。

独特の形をした苞をつける武蔵鐙

こちらは群生している武蔵鐙(Arisaema ringens)。和名は、苞が武蔵国の名産である馬具の鐙(アブミ)のような形をしていることに由来する。近畿地方以西の西日本、四国、九州から東南アジアにかけて広く分布しているが、武蔵国(埼玉、東京)は自生地からはずれている(笑)。室生天南星と異なり、3枚に分かれた葉が地面から直接伸び、また苞は葉よりも下につく。 

ひっくり返すと武蔵鐙の苞は馬具の鐙のように見える

鐙のような形の苞の先が内側に向けて湾曲しているため、外側からは付属体が見えない。

小型の姫浦島草

この小さい株は姫浦島草(Arisaema kiushianum)。浦島草(Arisaema thunbergii)と姫浦島草の付属体の先端は、苞の外に細長く伸びるのが特徴。九州の山地と山口県に自生しており、学名の<kiushuianum>は、<九州の>という意味。

いずれも日本やアジアに特有の植物たちなので、生育を大切に見守りたい。

アップテンポのサスペンス映画『マルタの鷹』

DVDでアメリカのフィルム・ノワールの傑作『マルタの鷹』(監督ジョン・ヒューストン、1941年)を鑑賞した。ダシール・ハメットの傑作小説の映画化作品だ。

フィルム・ノワールの傑作『マルタの鷹』

映画の冒頭で、まず<マルタの鷹>とは何かが紹介される。それは、地中海のマルタ騎士団がスペイン国王(=神聖ローマ帝国皇帝)カルロス1世に贈った黄金と宝石でできた鷹の像で、長い間行方不明になっていたが、19世紀末に見つかったとされる。

さて映画の主人公は私立探偵サム・スペード(ハンフリー・ボガート)。サンフランシスコにある彼と同僚アーチャーの共同事務所に、ある日、美人の客ワンダリー(メアリー・アスター)が訪れ、「妹を探して欲しい」と依頼する。用件は単純だがなにかうさんくさい雰囲気だ。アーチャーがその依頼を満たすためにホテルに赴くが、そこで拳銃の一撃で殺されてしまう。そこから次々に正体不明の人物が登場し、スペードはその事件と<マルタの鷹>探しに巻き込まれていく。

ジョン・ヒューストンにとっては、これが初の監督作品というが、ともかくアップテンポで、息をつぐ隙も与えずに、観客を謎のなかに巻き込んでいく。

スペードはどちらかといえば寡黙で、現場から現場にひたすら動き回っているのだが、少ないセリフはとてもキレ味がよく印象に残る。ハンフリー・ボガートにとっては、『カサブランカ』のリックより、こちらが本役だろう。

またマルタの鷹を狙う一味の首領で、スペードとたびたびやり合うガットマン役のシドニー・グリーンストリートは、これが映画デビューだが、この役でアカデミー助演男優賞にノミネートされた。ボガートの演技がいいので、腹に一物をもったガットマンの演技もよくみえる(彼はその後『カサブランカ』で、リックの店を買い取るフェラーリの役で出演している)。

作品は、1942年のアカデミー賞で、助演男優賞のほかに作品賞、脚色賞にノミネートされた(すべて受賞は逸した)。ちなみにこの年のアカデミー作品賞受賞作は『わが谷は緑なりき』(J・フォード監督)。また『市民ケーン』(O・ウェルズ監督)もこの年の作品。当たり年だ。

「聞かせてよ、愛の言葉を」と映画『カサブランカ』

DVDでアメリカ映画『カサブランカ』(M・カーティス監督)を観た。言わずと知れた、ハンフリー・ボガート、イングリッド・バーグマン主演の恋愛映画の古典だ。

恋愛映画の古典『カサブランカ』

この作品、かつてTVで<ながら視聴>した記憶はあるのだが、きちっと観ていなかったので、細部に関してはかなり記憶が曖昧だった。有名な「あの曲をもう一度弾いて、サム(Play it once again, Sam)」というセリフも、ずっとボガートのセリフだと思いこんでいたのだが、実はバーグマンのセリフだった。そうしたことを含めて、今回この作品きちっと観て、「なるほど、これは恋愛映画の古典的傑作だ」と納得した。主演の二人もさることながら、脚本(H・コッチ、J・エプスタイン、P・エプスタイン)がうまいと思う。

しかしWikipediaで調べたところ、この脚本、撮影開始の時には完成してなくて、撮影しながら書いていったという。でもそこが、ある意味即興的でよかったのではないだろうか。主人公のリック(ボガート)がカサブランカに残る結末も印象的だが、これも最後の最後までどう終わらせるか結論がでず、二つの結末を撮影して、最後に現在の結末に落ち着いたという。そういう意味では、奇跡的な脚本でもある。

ただ即興ゆえの弱さもあると思う。それは、リックとイルザ(バーグマン)の恋のなれそめが描かれておらず、パリで二人が劇的に別れた(そして、リックはそのトラウマを引きづっている)ということしか描かれていないということだ。バーグマンはこの作品にずっと不満だったというが、たしかに、これでは女優として演じようがないと思う。

『聞かせてよ、愛の言葉を』弾きながら、イルザの来店に驚くサム

ところでこの作品では、『時の過ゆくまま』という曲がテーマ曲としてうまく使われているのだが、音楽に関して、それ以外に気がついたことがある。それは、イルザがカサブランカのリックの店に初めてやってくるシーンの音楽だ。その時従業員のサム(ドーリー・ウィルソン)がたまたま弾いている曲は、シャンソンの名曲『聞かせてよ、愛の言葉を(Parlez-moi d’amour)』で、これはとても意味深だ。そしてこの選曲は偶然ではなく、映画スタッフが意図的に選んだのだと思う。

有名な映画なのに、こんなまだあまり触れられていないところを発見すると嬉しくなってしまう。

アダム・スミス『国富論』(山岡洋一訳)を読む

アダム・スミス『国富論(国の豊かさの本質と原因についての研究)』(山岡洋一訳、日本経済新聞社、2007年)を読み終えた。初版の刊行は1776年なので、本年は刊行250年となる。言わずと知れた経済学の古典的名著だが、私がこの作品を読んだのはこれが初めて。実は私は、これまでスミス研究の大家と親しくさせて頂いていたのだが、かんじんのスミスの作品を読んでおらず、なんとしてもこの作品を読まねばと思いながら、内容と分量(邦訳で約980頁)に負けてこれまで後回しになっていた。有名な作品だけに翻訳はたくさんあるが、この日経版は翻訳の専門家による初めての訳ということだったので、読みやすさを考えてこの翻訳を選んだ。今回は、Cというフランスの著者の経済関係の作品を翻訳中ということもあり、自分のなかで18世紀の経済思想全般への関心が強くなっていたので、なんとかこの大作を読み終えることができた。

翻訳の専門家による『国富論』

内容はあらためて紹介するまでもないが、当訳の解説者・根岸隆氏によって紹介すれば次のようになる。

「第一編『労働の生産性の向上をもたらす要因と、各階層への生産物の分配にみられる自然の秩序』は、現代経済学的に言えばスミスの『ミクロ経済学』である。そして、続く第二編『資本の性格、蓄積、利用』は、いわば『マクロ経済学』ないし『経済発展論』であろう。第一編、第二編がいわばスミスの経済理論であるのにたいして、第三編『国による豊かさへの道筋の違い』はスミスによる諸国民の『経済史』である。続く第四編『経済政策の考え方』は、ある意味ではスミスの経済学からみたスミス以前の『経済学説史ないし経済思想史』であり、またスミス自身の『経済政策論』でもある。そして、最後の第五編『主権者または国の収入』はいわばスミスの『財政学』にほかならない」(下巻550~1頁)。

分業による生産性の向上やそれのもたらす社会的影響の議論、モノの価値の判断基準は何におくべきかといった議論は、なるほどスミスの主張はこういう事だったのかと納得させられた。

モノの価値は、いったんは通貨を媒介とする「価格」というかたちで示されるが、インフレによって通貨の価値そのものが下がれば、通貨(価格)はモノの絶対的価値を示すことができない。たとえば、17世紀に新大陸の金銀が大量にスペインにもたらされたが、それはスペインの富を増やしたのではなく、金銀の価値を減らしただけだった。金貨銀貨の改鋳も同じような結果をもたらす。したがってモノの価値は、その生産や流通に費やした労働力によって評価されるしかないというのがスミスの考えと思われた。

また門外漢の私にはスミス経済学の(現代からみた)妥当性について語る資格がないが、彼の主張する関税撤廃と自由貿易主義が実現可能かは疑問に思ったし、昨今の世界情勢を考えると、それはむしろ実現不可能なのではないだろうか。そうした意味では、この作品はあくまでも18世紀の社会情勢をふまえた作品であると思う。

そうしたなかで個人的におもしろかったのは、第四編と第五編だ。それは第四編にはフランスの重農学説(フィジオクラートの学説)の紹介と批判があり、第五編では18世紀当時の徴税システムにたいする批判的な紹介があるからだ。

翻訳そのものはなめらかでとても読みやすかった。今後、私も範の一つとしたい。

それだけに、固有名詞の表記や文章に若干の校正もれが見うけられたのは残念だった。またこの翻訳は、経済学の専門家以外でも手に取って読めることを意識したものと考えられ註がほとんどついていないのだが、古い時代の作品なので、最低限の註はあっても良かったのではないかと思った。

なお山岡氏は、当翻訳を刊行して4年後に亡くなっている。執念の翻訳だったのではないだろうか。