本と植物と日常

本を読んだり、訳したり、植物に水をやったりの日々…。

20世紀の思想界を分かりやすく解き明かした『実存主義者のカフェにて』

先日、新宿紀伊國屋書店哲学書関係のコーナーで『実存主義者のカフェにて 自由と存在とアプリコットカクテルを』(サラ・ベイクウェル、2016年、向井和美訳、紀伊國屋書店、2024年) という本を見つけたので、タイトルに惹かれてさっそく購入して読んでみた。内容は、サルトルボーヴォワールメルロ=ポンティカミュといったフランスの思想家、作家たちに、彼らに強い影響を与えたフッサールハイデッガーヤスパースといったドイツの思想家、哲学者たちをからめ、第二次世界大戦をはさんだ仏独の時代状況、それをふまえたうえでの各人の思想、そして彼らの具体的な交友関係や絡み合いを、あたかもほつれた毛糸玉の糸を解きほぐすように、丁寧かつ分かりやすく描いた評伝だ。

『室損主義者のカフェにて』

話は、1932年から33年にかけて、パリのモンパルナス地区にあるベック・ド・ガーズというカフェバー(今もあるらしい)で、若いサルトルボーヴォワールサルトルの古くからの学友レイモン・アロンが顔を合わせ、アプリコット・カクテルを飲みながら哲学談義をしていたシーンから始まる。そのときアロンは次のように言った。

「いいかい、わがいとしの友よ。もし君が現象学者だったら、このカクテルを語ってそれを哲学にすることができるんだ!」(本書10頁)

この言葉に刺激されたサルトルは、続く33年の夏、哲学(現象学)の勉強のためにナチス政権下のベルリンに旅立つ。この行動、そしてこの政治状況が、その後のサルトルの思想を決定し、また戦後のヨーロッパの思想界の動向を方向付けていく。

カバーをめくると、本書で紹介されている思想家のイラストが出てくる

フランスの思想界に関する叙述では、その中心となり派手な動きが多かったサルトルボーヴォワールもさることながら、これまであまり知らなかったメルロ=ポンティの人柄や日常生活に関する記述がおもしろかった。彼の人柄をベイクウェルは、まずボーヴォワールの日記から紹介している。それによればメルロ=ポンティは、「透明感のある美しい顔立ち、濃くて黒い睫毛、学生らしい快活で朗らかな笑い方」(本書162頁)をした青年だった。社交的でダンスもうまく、「メルロ=ポンティに会った人はだれもが、彼から発せられた健全な光のようなものを感じた。ボーヴォワールも最初はその光に温かみを感じたという。尊敬できる人物があらわれるのを待っていた彼女にとって、メルロ=ポンティこそその相手だと思い、すぐにボーイフレンド候補とみなした。ところが彼の穏やかな物腰は、ボーヴォワールのように好戦的な女性から見ればもどかしく感じられた」(本書163~4頁)。動のサルトルボーヴォワールとはまさに対照的な人物であり、その人物像はそのまま彼の思想にも反映しているようだ(ちなみにメルロ=ポンティのエピソードを記すにあたって、著者のベイクウェルはメルロ=ポンティの娘マリアンヌにも取材している)。

フッサールハイデッガーに関しては、利用できた資料が限られているためか、フランス思想界の人物たちのような生々しい描写は少ないのだが、ナチスに協力したとして批判された戦後の行動および思想に関する描写は読みごたえがあった。

ハイデッガーナチスの関係については、1933年にフライブルク大学の総長に就任し、その際、ナチスの新しい法律遵守を受けいれ、またナチスの党員にもなったことが、端的な事実として指摘されている。「ハイデッガーは党員になり、学生や教職員の前でナチス支持の演説を何度も行っている。その間、プライベートでは哲学的思想に織り交ぜる形で、ナチ党員らしい反ユダヤ主義的な言葉をノートに書き込んでいた」(本書117頁)。このため戦後厳しく糾弾されて活動の場を狭められ、そうしたなかで<ハイデッガー後期>と呼ばれる思想を新たに形成していく。ベイクウェルによるその後期の思想の解説もおもしろいのだが、やはりひっかかるのは、ナチスに協力したことへの批判に、ハイデッガーが沈黙を貫いたことだ。彼は、この沈黙ゆえにさらなる批判にさらされるのだが、マルクス主義の哲学者マルクーゼへの質問に応える形で、次のように述べている。

「『1933年からドイツを離れていた人と意見を交わすのがいかに難しいか、あなたの手紙を読んでよく分かりました』。そして、否定の言葉を軽々しく口にしたくないのは、ナチ党の中枢にいた者の多くが1945年にこぞって謝罪し、『胸の悪くなるようなやりかた』で宗旨変えを宣言しながら、その実、なんの中身も伴っていなかったからだ、と弁明している。」(本書275頁)

続いてベイクウェルは、この態度に対するデリダの解釈を紹介する。

「もしハイデッガーがひとこと『アウシュヴィッツは途方もない悪だった。わたしはこれを強く糾弾する』というようなことを口にしていたら、どうなっただろう。人々はその言葉だけで満足し、ハイデッガーに関してはそれで一件落着となっていたに違いない。そして、それ以上は議論する機会がなくなる。そうなれば、われわれはその問題をとことん考える『義務から解放された』と感じ、謝罪を拒否したことがハイデッガー哲学にとってどんな意味を持つのかと問うのもやめてしまうだろう。(中略)ハイデッガーは沈黙を守ることで、『彼自身が考えなかったことを考える使命』をわれわれに残してくれたのだ。デリダにしてみれば、そのほうが生産的なのである。」(本書275~6頁)

ハイデッガーの真意がどこにあったかはもちろん大きな問題であるが、デリダの解釈を紹介するとき、ベイクウェルは哲学者の言葉がもつ意味を深く洞察している。

そしてベイクウェルは、次のように本書を結んでいる。

「わたし自身、実存主義者が現代社会に魔法のような解決策を与えてくれるとは思っていない。ひとりの人間としても哲学者としても、彼らは欠点だらけだ。どの哲学者の考えにも、わたしたちを不安にさせる要素が含まれている。それは、わたしたちと同じように彼らも複雑で厄介な存在だからであり、もうひとつは彼らの思想や生涯が、モラルのあいまいな暗い時代に根ざしていたからである。(中略)しかし、だからこそ、実存主義者たちの本が再読さるべきなのだ。人間という存在は難解で、愚かなふるまいもすると彼らは教えてくれるが、大きな可能性を持っていることも教えてくれる。わたしたちが忘れかけている自由や存在の問題を、彼らはたえず突きつけてくる。こちらとしては、実存主義者たちの考えを探求していけばいいのであって、彼らを立派な人物、立派な思想家として見る必要はない。彼らはおもしろい思想家であり、だからこそわたしたちにとって価値があるのだ。」(本書456~7頁)

最近読んだ本の中でも、とてもおもしろかった一冊だった。なんだかハイデッガーが読みたくなってきた。

新宿の画廊で、男性を描いたグループ展を鑑賞

8月30日から新宿眼科画廊で男性を題材にした作品を描いている6人の作家によるグループ展『益荒男戯画』が始まった。

新宿で男性を描いたグループ展が始まった

出展者は、TORAJIRO、成瀬ノンノウ、shinji horimura、亀井徹、六原龍、SIN5の各氏。共通項は男性が題材というだけで、作風はそれぞれみんな違っていて個性的。私が訪問したときは出展者も在廊していて、作品の説明などを伺うことができた。

伊勢丹のショウウィンドウでの展覧会告知にはちょっと驚いた

実はこの展覧会、少し前に伊勢丹のショウ・ウィンドウで紹介されていたもので、それを見たときは、「これはなんだ! 伊勢丹も思い切ったことをやるなあ」と驚いたのだが、実際に展覧会が始まったので、アルバイトの帰りに立寄ってみた。

悲しさとユーモアをないまぜにしたようなTORAJIROさんの作品

画廊のエントランスに展示されているのは、TORAJIROさんの作品。悲しさとユーモアをないまぜにしたような独特の雰囲気をただよわせている。

六原龍さんの作品は静かなリアリズムが際立つ

反対側の壁面に提示されている六原龍さんの作品は、静かなリアリズム。

緻密な亀井徹さんの作品

小さな個室に展示された亀井徹さんの作品は緻密な油彩。花輪に囲まれた作品は、実像と虚像を組み合わせたものとのこと。

紅一点、成瀬ノンノウさんの作品

こちらは紅一点、成瀬ノンノウさんの作品。

画廊の一番奥はSIN5さんとshinji horimuraさんの作品の展示室

廊の一番奥はSIN5さんとshinji horimuraさんの作品の展示室だが、こちらは来廊してのお楽しみ(笑)。

画廊の所在地は花園神社の裏側で、展覧会は9月11日(水)まで開催。

https://www.gankagarou.com/show-item/202408masuraogiga/

『ミラノ ヴィスコンティ家の物語』を読む

イタリアの歴史家マリア・ベロンチの『ミラノ ヴィスコンティ家の物語』(1956年、大條成昭訳、新書館、1998年)を読んだ。1261年~1447年の約200年間に、12代にわたってミラノを支配したヴィスコンティ家の人々の生い立ち、性格や権力争いを紹介した年代記だ。<ヴィスコンティ>ときいてまっさきに思い浮かぶ人物は映画監督ルキノ・ヴィスコンティで、彼はミラノ古い貴族の家柄ということは知っていたのだが(彼はヴィスコンティ家の傍流の末裔)、ではその先祖がどのようにしてミラノの支配者になり、また支配権を失ったかという経緯はまったく知らなかったので、その意味ではおもしろかった。ちなみに、ヴィスコンティ家の紋章は蝮とのこと。

ヴィスコンティ家の君主たちの権力闘争を描いている

本書の内容は、「簒奪」「繁栄」「制覇」「抗争」「瓦解」の五部に分けられ、13世紀にオットーネがミラノ大司教として権力を握る時点から、15世紀にフィリッポ・マリアが亡くなり、ヴィスコンティ家の直系が絶えてスフォルツァ家に権力を奪われるまでが描かれている。1353年、6代目当主ジョヴァンニの時代にペトラルカがミラノに移り住んだころがヴィスコンティ家繁栄の頂点だろうか。ヴィスコンティ家直系の断絶は、ルネサンスの始まりとほぼ重なっている。

本書を読むと、ヴィスコンティ家の家督相続者には、君主としての資質を欠いた人物が多かったようだが、それでも12代もミラノに君臨できたというのは、ヴィスコンティ家に力があったというより、時代が家柄を重視していて、ヴィスコンティ家に替わることができる支配者一族が登場しにくかったのではないかという印象をうける。同じ時代の日本の北条氏、足利氏の家督相続を少し思い浮かべてしまった(北条氏、足利氏にも暗愚な当主が多い)。最後に、傭兵出身のフランチェスコスフォルツァに権力が移るのも、日本風に言えば下剋上ということだろうか。このあたりも、なんとなく室町時代末期の日本の状況と似ていなくもない。

ただし全体は、ほとんどが権力争いの話で、文化や社会状況についての説明はほとんどなく、歴史書として考えると、やや物足りない感じがした。

なお、訳者・大條氏は、フランコ・マンニーノにこの本を紹介されたといい、あとがきでマンニーノについても少し触れている。それによれば、マンニーノは監督ルキノ・ヴィスコンティの妹ウベルタの配偶者で、作曲家、指揮者。ヴィスコンティ映画『家族の肖像』の音楽を担当しているが、それにはこういう縁が背景にあったのだと初めて知った。

イタリアの国民的文学、マンゾーニ『いいなづけ』を読む

19世紀イタリアを代表する作家アレッサンドロ・マンゾーニの『いいなづけ』(平川祐弘氏訳、河出文庫、2006年)を読んだ。スペインに支配されていた17世紀のミラノ公国(当翻訳ではミラーノと表記されている)の田舎町レッコに住む若い男女が結婚し家庭を築くまでのさまざまな困難を描いた小説だ。19世紀にイタリア統一運動が高揚するなかでマンゾーニおよび『いいなづけ』の名声は高まり、1860年イタリア王国が成立すると、マンゾーニは上院議員に選ばれている。またその死を悼んで、ヴェルディは有名な『レクィエム』を作曲した。この作品、日本ではあまり知られているように思えないが、イタリアでは、ダンテの『神曲』とならび古典中の古典とされる。

イタリアの国民的文学『いいなづけ』

主人公はレンツォとルチーアというカップルで、1628年11月に結婚を予定していたが、ルチーアに横恋慕していた領主ロドリーゴのさまたげで式を挙げることができず、そればかりか故郷レッコの町を逃れざるをえなくなり、離れ離れになってさまざまな苦労をする。その間、ミラノ公国に大飢饉、傭兵隊の侵入、さらにはペストの流行という災厄が次々に訪れ、国は荒廃する。そうした困難な状況を乗り越え、最後に二人は結ばれ、無事に家庭を築く。

レンツォとルチーアの性格づけは単純で、なかでもルチーアには、主体的な行動や心理を感じとることができなかった。

全体の構造としても、恋愛心理の描写は希薄で、むしろ、飢饉やペストにおそわれた町の様子が事細かく記される。カップルの周囲の敵対的あるいは好意的な人物たちに関しては、行動をとおして性格が説明されていくのではなく、まず長い挿入説明としてそれぞれの過去が語られ、現在の行動がその過去やそれによって形成された性格を裏づけるというかたちの叙述が多い。登場人物同士の絡み合いは少なく、現代感覚からすれば、かなり静的な書き方だ。また、マンゾーニ(匿名の著者の原稿を発見し、自分はそれに手を入れて公刊しただけだと、自己を韜晦している)が作品のところどころに顔を出し、状況を補足説明したり感想を述べていく。単純な三人称の書き方ではない。この語り口を訳者の平川氏は講談風と評しているが、私には人形浄瑠璃風とおもえた。

以上のように、『いいなづけ』は現代小説とかなり異なる書き方だが、独特の骨太の風格をもっているともいえる。

作品は、はじめミラノの言語であるロンバルデイア方言で書かれて1827年に出版され、1840年に現代のイタリア語のもとになったトスカーナ方言にあらためられて発表された。この1840年版には多数の図版が添えられており、この日本語訳でもその図版を再掲しているので、17世紀当時の様子が視覚的にも理解できるのはありがたかった。

なお、アレッサンドロ・マンゾーニは18世紀の啓蒙思想チェーザレ・ベッカリーアの娘ジュリアの長男。戸籍上の父はジュリアより26歳年長のピエトロ・マンゾーニ伯爵だが、実際の父親はベッカリーアと親しかったヴェッリ家の一員ジョヴァンニ・ヴェッリだったらしい。

『ベッカリーアとイタリア啓蒙』を再読

堀田誠三氏のほ(名古屋大学出版会、1996年)を部分的に再読した。今回読んだのは本書の後半で、ピエトロ・ヴェッリ(1728年~97年)、チェーザレ・ベッカリーア(1738年~94年)の思想を紹介した第二部「ミラノにおける啓蒙思想の展開」だ。

フランス思想を受けいれながら、ミラノの思想家たちは独自の理論を構築した

私がこの著作およびミラノの啓蒙思想にこだわっている理由は次の二つ。

まず第一は、ヴェッリ、ベッカリーアらが中心となって形成されたミラノ啓蒙のグループ「拳の会(Accademia dei pugni)」が、1760年代のグループ活動開始直前に刊行されたルソーらフランスの思想家の著作の影響を強く受けていること。

第二は、拳の会のメンバー、ベッカリーアが執筆した『犯罪と刑罰』が、刊行直後の1765年に仏訳され、それをとおして全ヨーロッパに影響を及ぼしていること。

その確認が再読の目的だ。

さて、「拳の会」だが、堀田氏によれば、同時代のフランスの思想界と違って、若い貴族たちが中心となっていたのが大きな特徴といえるだろう。彼らは、古い因習にとらわれた父親たちの世代には反発していたが、政治体制そのものの変革はあまり考えておらず、スペイン継承戦争の結果1714年にミラノ公国の支配者となったオーストリアハプスブルク家君主と結びついて、上からの改革によってミラノ公国の政治・経済状況を変えようとしていた。このため、社会契約論の立場を採るといっても、ルソーのように全階級の平等を主張して身分制社会を覆すことは、考えていなかった。また犯罪の起源に関しては、社会の成立当初から存在する身分・財産の不平等から生じるものとされ、それを死刑や拷問で処罰するのは不当だが、不平等社会から犯罪が生じるのはやむをえざることであり、その処罰を適正化し、軽減することが必要だというのが、基本的な考え方だった。

堀田氏の説明にしたがって、刑罰に関するベッカリーアの考え方を再度確認してみる。

「ベッカリーアによれば、刑罰の起源は社会の起源」(本書172頁)にほかならない。それを『犯罪と刑罰』の記述のなかから確認すると、人間たちは、「かれらの自由の一部を犠牲にして、残りを平穏かつ安全に享受しようとする。各人の利益のために犠牲にされた、自由のこの部分の総和が、一国民の主権を形成し、主権者とは、その合法的な受託者にして管理者である」(本書172頁、ベッカリーア『犯罪と刑罰』第1章からの引用)ということになる。「ベッカリーアはここで、自由の享受を保証するための社会契約の設立を想定しているのだが、理性をもたない民衆は、社会状態への移行を感性的に認識するのみである」(本書172頁)。したがって、「主権者の義務たる秩序維持の手段としては、『感性的契機』=刑罰による直接的規制のみがのこり、社会秩序の形成と維持の論理をさぐろうとすれば、刑罰論となるほかないのである。刑罰論は社会理論の一部ではなく、その基本原理となる」(本書172頁)という。

『犯罪と刑罰』は、アンドレ・モルレ(1727年~1818年)によって仏訳されたことで、全ヨーロッパに広く読まれたのだが、実は、このモルレの<翻訳>は、ベッカリーア自身が目を通したイタリア語版の忠実な翻訳ではなく、自分の考えで、イタリア語版の内容をかなり自由に組み替えている。それは、イタリア語版が社会理論についての作品だったのに対し、「モルレが『犯罪と刑罰』を社会理論書とみなしていなかったという推測を可能にする」(本書203頁)という。

これは、ベッカリーアたちミラノ啓蒙の思想を、ひいては思想を発信した側と受け取った側の思惑の違いを理解するうえで重要な視角だ。つまり、「社会契約論」は拳の会に受け入れられた段階で社会状況の違いから内容にズレが生じており、その代表作『犯罪と刑罰』がフランスに受け入れられる際にもう一度ズレが生じたということだ。

ちなみに、ベッカリーアはモルレらパリの思想家たちに招かれで、1766年10月にパリを訪問しているが2カ月足らずで帰国している。パリの思想界の雰囲気は、彼には合わなかったようだ。

『犯罪と刑罰』の受容や影響を考えるとき、このズレは大きなポイントといえそうだ。

 

※当ブログ内の関連記事

・『ベッカリーアとイタリア啓蒙』を読む

・モルレの『18世紀とフランス革命の回想』を読む

 

 

フーコー『監獄の誕生 監視と処罰』を読む

ミシェル・フーコーの代表作の一つ『監獄の誕生 監視と処罰』(1975年、田村淑氏訳、新潮社、1977年、以下『監視と処罰』と略記)を読んだ。『監視と処罰』を読むのは今回が初めてかとおもっていたら、巻末に1992年読了と自分の書き込みがあった。なので今回が2読目ということになるが、どうも以前読んだ印象が薄い。内容をうまく把握しそこねていたのだろう。

社会による監視と処罰がテーマの『監獄の誕生』

はじめに本書のタイトルについて書いておく。本書の仏語原題は『Surveiller et Punir――Naissance de la prison』で、巻末の覚書で訳者・田村氏は、これを『監視すること、および処罰することーー監獄の誕生』と訳している。経緯は不明だが、邦訳ではそれが逆転して『監獄の誕生――監視と処罰』とされているため、タイトルと作品の内容で齟齬が生じている。つまり本書では、いつどのようにして監獄が誕生したのかといった<監獄の誕生>の経緯にはほとんど触れられていない。あえて忖度すれば、監獄は社会と同時に、あるいは権力と同時に誕生したというのがフーコーの考えではないだろうか。したがって古典主義時代の刑罰から語りおこす本書では、監獄は社会のなかにすでに存在していたものとされ、もっぱら権力による社会の監視の変遷について詳説されて、<監視>こそが権力の本質であると述べられることになる(その代表的な例が、本書によって有名になったベンサム考案の<パノプティコン(一望監視システム)>だ)。

もう少し内容に即してみていこう。

本書は四部に分けられ、順に「身体刑」「処罰」「規律・訓練」「監獄」となる。

前半の「身体刑」と「処罰」の内容は比較的判りやすく、大きくフランス革命以前とナポレオン登場以降に分けて考察されている。つまり、18世紀までの刑罰とは、社会に対する<見せしめ>であり、死刑、追放、入墨、鞭打ちなど、公衆の目の前で犯罪者の身体に直接手を下すものがほとんどだった。また死刑にしても、犯罪者に対する見せしめの意味があったので、罪の種類に応じて車割き、火刑、斬首、絞首など執行方法が細かく規定されていたとされる。

後半の「規律・訓練」と「監獄」では、フーコーは19世紀以降、処罰に対する考え方がどのように変わっていったかを述べるが、身体刑や公開処刑がしだいに消え、それに応じて<閉じ込め>の重要性が増してくる。したがってある意味では、これが<監獄の誕生>ということになるのだろう。

 

「法にとって拘禁は、自由の剝奪となりうるものである。拘禁を確実におこなう投獄は技術上の計画をつねに含んできた」(第四部「監獄」~<違法行為と非行性>、本書257頁)。しかし、「華々しい儀礼で彩られ、苦痛の儀式と混じりあう技法をもつ身体刑から、堂々たる建物の奥に隠された秘密裡の行政監督措置によって守られる監獄刑への移行は、未分化で抽象的で混乱した刑罰制度への移行ではない」(第四部「監獄」~<違法行為と非行性>、本書257頁)と註記される。

 

そうした閉じ込めは、残酷な身体刑に変るものとして犯した罪に応じて犯罪者を幽閉するというだけではなく、監獄に閉じ込めることによって幽閉された者に規律を教え込み、犯罪者を訓練するという性格をもたされるようになる。そしてこの考え方はより広く社会に適用され、犯罪と言えないまでも社会的な規律に反したものを監視施設に収容し、そこで規律を与え、訓練するというというシステムが成立してくる。

 

「閉じ込め、司法上の懲罰、規律・訓練の制度、それらのあいだの境界はすでに古典主義時代には明確でなくなっていたが、今やその境界は消えさって行刑技術を規律・訓練の施設のなかでも最も悪意のない施設にまで普及させる大いなる監禁連続体が組立てられようとし、規律・訓練面の諸規格は刑罰制度の核心に伝えられ、どんなに些細な違法行為でも、どんなに僅かな不正でも、逸脱や異常もが非行性ではないかと恐れられる。精緻だがぼかされた監視網は、緊密に構成された制度施設によってのみならず細分され拡散した方式によって、古典主義時代の、不充分にしか統合されず恣意的で多量な閉じ込めの肩がわりをつとめたわけである」(第四部「監獄」~<監禁的なるもの>、本書297~8頁)

 

そしてそこから、社会もしくは権力の本質は何かというフーコーの分析が始まる。

 

「監禁があまねく存在する骨組となっているこの一望監視的な社会にあっては、非行者は無法者ではなく、すでにことの発端からしても、法の内部に、法の中心そのものに、あるいは少なくとも、規律・訓練から法律へ、逸脱から法律違反へ人々を無自覚に導く例の機構のまんなかに位置している。監獄が非行性を罰するのは真実ではあるが、本質的には非行性は、今度は監獄によって究極的にくりかえされる監禁のなかで、監禁によって作り出される。」(第四部「監獄」~<監禁的なるもの>、本書301頁)

 

現代社会は見世物の社会ではなく監視の社会である。さまざまな形象の表面のかげで、われわれの身体は深部において攻囲される。大規模な抽象作用たる交換の背後では、役に立つ力を求める、精密で具体的な訓育が追及され、精密伝達の経路は、知の累積および集中化の支えであり、記号の働きは、権力の投錨にも等しい固定化を決める。個人の美わしき全体性は、現代の社会秩序が切断手術を加えたり抑圧したり変質させたりはしていないが、その社会秩序において個人は、力と身体にかんする一つの戦術にもとづき注意深く造りあげられている。われわれがそう思うよりもはるかに、われわれはギリシア的ではない。われわれの居場所は、円形劇場の階段座席でも舞台の上でもなく、一望監視の仕掛のなかであり、しかもわれわれがその歯車の一つであるがゆえに、われわれ自身が導くその仕掛の権力効果によって、われわれは攻囲されたままである。」(第三部「規律・訓練」~<一望監視方式>、本書217頁)

 

「刑罰制度の図々しさの背後に何が隠されているかを、多分やはり探求する必要があるにちがいない。われわれはそこに{刑罰制度の}一つの矛盾をよりも一つの結果を見ることはできないか。だとすれば次のように想定する必要があろう、監獄は、しかも一般的には多分、懲罰というものは法律違反を除去する役目ではなく、むしろそれらを区別し配分し活用する役目を与えられていると、しかも法律に違反するおそれのある者を従順にすることをそれほど目標にするわけではなく、服従強制の一般的な戦術のなかに法律への違反を計画的に配置しようと企てているのだと。だとすれば刑罰制度とは、違法行為を管理し、不法行為の黙許の限界を示し、ある者には自由な行動の余地を与え、他の者には圧力をかけ、一部の人間を排除し、他の人間を役立たせ、ある人々を無力にし、別の人々から利益を引出す、そうした方法だといえるだろう」(第四部「監獄」~<違法行為と非行性>、本書270~1頁)

 

社会が異分子を監視し、閉じ込めようとしたシステム、いやそうしたシステムの形でしかみずからを提示できない社会こそが糾弾されなくてはならないのだ。巻末の覚書のなかで田村氏も指摘しているが、そうした異分子の一人として、フーコー1840年の『裁判新報』に掲載されているベアスという若者と裁判長のやり取りを紹介している(本書287頁)。ベアスは、居所が定まらず、家族がなく、放浪罪の嫌疑をかけられ、二年間の懲治矯正を宣告されたという事実以外はいっさい不明の13歳の少年だが、「いつまでも放浪生活をするのかね」と問う(糾弾する)裁判長に対して、「生活を立てるために働いている」とこたえる。このやり取りこそ、本書『監視と処罰』の白眉と言えるだろう。

警察の歴史をコンパクトにまとめた『警察の誕生』

『警察の誕生』(菊池 良生、集英社新書、2010年)を読んだ。日本とヨーロッパの<警察>の歴史をコンパクトにまとめた本だ。

はじめに用語について説明しておくと、日本語の<警察(いわゆるポリス)>は明治以降に生まれた概念(行政組織)で、菊池氏が書いているとおり、それまでの日本で<警察>にあたるものは<奉行所>ということになるだろう。しかし、これまた菊池氏の指摘のとおり、奉行所の機能と警察の機能はかなり異なる。近代の警察は、江戸時代の奉行所が扱っていたかなり広い範囲の行政処置のなかから治安維持等に関する一部の機能だけを抜き出し、その一部の機能を強化したものといえる。

ヨーロッパでは事情はさらに複雑だ。それはつまり、近代以前の治安維持等に関する総合的な行政機構の名称がやはり<police>であり、日本での<奉行所>から<警察>への変化(警察の誕生)にあたるものは、policeという言葉が指し示す内容の歴史的変化ということになるからだ。

(余談ながら、18世紀フランスの作品のなかで、<police>という言葉はとても訳しにくい言葉だ。それはとりもなおさず、この言葉に相当する組織や機能を日本社会のなかで同定するのがとても難しいからだ。)

<警察>の歴史をコンパクトにまとめた『警察の誕生』

そこでまず、菊池氏にしたがってpoliceの語源を確認すると、「(ギリシャの)都市国家、ポリスはこれらの参政権を持つ市民の強固な共同体意識によって運営されていた。市民は、政治、軍事、財政上の義務に忠実で、法を守り、秩序ある理想的な状態、すなわちポリティアを作り出した。ポリスはその理想的社会を保障する強制機関として機能した。だからこそポリスが警察の語源となったのである」(本書26頁)ということになる。

したがって、叙述の方法としては、①ヨーロッパにおいて、policeの包括的な機能が歴史的にどのように変化してきたかを追うというものと、②そうしたpoliceの複雑な歴史的機能のなかから治安維持等に関するものだけを抜き出して、<警察>という行政機能は、それぞれの時代にどのように果たされてきたかを追うというものの二つが考えられる。本書における菊池氏の方法論は、②に近いが、そのなかでpoliceの概念の変化も追っている。

ここでは、話を大幅にはしょって、菊池氏にしたがって17世紀フランスのpoliceをみてみたい。

17世紀フランスは「国内経済の利益のためにあらゆる食料品へ生産から販売まで国家的統制を加える。そしてそうなると食料経済に対する警察の規制が食料不足と困窮を予防するという名目で住民の生活に深く関わるようになり、食料暴動の抑制のために国家はさらに干渉を強めていった。ところで国家の干渉と言えば、この重商主義に基づく経済規制の他に、良風美俗の維持を名目としたモラルに対する干渉もまた警察国家の特徴であった。それは宗教改革による宗教分裂に伴い、従来の一元的な教会中央権力(ローマ・カトリック教会)が崩壊し、本来なら教会が引き受ける課題を国家が担うことになった」(本書146頁)からである。

経済規制を<警察>の機能のなかに含ませるということは、現代からは考えられないが、これも<police>が担っていた<行政>のなかには当然含まれる。要するに、国家がどのような治安政策を求めるかに応じて、policeが意味するものは、変ってきたのだ。

しかし1795年のフランス刑法典は、『警察は公的秩序と個々人の財産を守るために存在する』と規定した(本書155頁)。これによって「警察の活動範囲が犯罪の取り締まりと予防に限定されたのである。そして犯罪者を逮捕、起訴する警察とこれを裁く司法とが分化されたのである。これは警察史の大転換であった」(本書155~6頁)とされる。

こうした流れをまとめると、「近代国家が誕生し、ある程度均質化した市民階級が中核をなす安定した社会が出現したとき、警察は見えない形で機能する。ところが、資本主義が進み、労働者階級とブルジョワ階級の階級分化が進み、社会が騒擾化すると警察ははっきりと目に見える形で登場することになる。警察はいずれの形もとることができるように機能しなければならない。そして近代国家が統一国家として存続しようとする限りは警察もまた中央集権的国家警察にならざるを得ない」(本書158頁)ということになる。

本書は、19世紀にヨーロッパに誕生し、日本にも移入された近代的な警察という制度が必ずしも明確に定義できるものではなく、社会の変化に応じて今後さらに変化していく可能性があることを示唆して結ばれる。