本と植物と日常

本を読んだり、訳したり、植物に水をやったりの日々…。

ネット社会を暗示するマードックの『網のなか』

『鐘』に続いてアイリス・マードックの小説『網のなか(Under the Net)』(1954年、日本語訳・鈴木寧、白水社、1965年)を読んだ。

不思議の国のアリス』を連想させる『網のなか』

『網のなか』は彼女の第一作目の小説だが、書き方、雰囲気は『鐘』とはまったく異なる。

主人公はジェイク・ドナヒューという30歳を過ぎた無名作家・翻訳家。ある日、フランスに滞在して長期不在にしていたロンドンに戻ると、それまで居候していたガール・フレンドの家から追い出しをくらう。このため新たに住む場所(居候できそうな場所)を探して、ロンドンの友人の元を転々とするというのがメインの物語だ。読み始めた時の印象は、主人公の未熟さ・社会からの疎外感の強さが、どこかサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』(1951年)に似ているなという感じだったのだが、部屋探しが延々と続いて、正体不明の人物が次々に出てくると、なにやら『不思議の国のアリス』の世界の延長のような気もしてきた。訳者あとがきによれば、この作品はフランスの小説家レイモン・クノーに捧げられているとのことで、クノー的な前衛性を目指しているのであろう。

作品の最後の方で、すべての登場人物のつながりは解き明かされるのだが、私見では、それはいささか唐突な感じで、解決がないまま迷宮小説として終わらせることもできたのではないかと思った。ただしマードックとしては、その解決を先に考えて、そこにいたる複雑なプロセスとして、この作品を構想したのだろう。それはそれで納得できなくもない。

作品タイトルは、現実をすべて観念として受け止め、社会のなかに入っていくことができないドナヒューの心理状態を表現したものではないかと思うが、小説が書かれてから70年後のネット社会のなかにこの作品を置いてみると、観念的なネットの呪縛に縛られて現実との関わり合いが希薄になってくるわれわれの現状を暗示しているようにもおもえてくる。

なおこの作品は、アメリカのモダン・ライブラリーによって、英語による20世紀のベスト小説100に選ばれている。

マードックの『鐘』に感銘を受ける

マードックの小説『鐘』(1958年、日本語訳・丸谷才一集英社文庫、1977年)を読んだ。

著者のアイリス・マードック(1919年~99年)は、20世紀を代表するイギリスの女性小説家、哲学者。先日読んだ『実存主義者のカフェにて』(サラ・ベイクウェル、2016年、日本語訳・向井和美、紀伊國屋書店、2024年)のなかに何度か名前が出てきて、この本の著者ベイクウェルが影響を受けていることを明言していたので、マードックの代表作とされる『鐘』を読んでみたのだ。

奥行きがあって印象深いマードックの『鐘』

『鐘』の主要舞台は、ウェールズに近いイングランド南西部グロスタシャー州の小さな町にある信仰会インバー・コート。この信仰会はベネディクト会の尼僧修道院に隣接しており、英国国教会への信仰が深い在俗の平信徒が、俗世間から離れて農場を営みながら共同生活を行っている。また広い建物や庭園の一画に、来訪者を受けいれている。インバー・コートの所有者でリーダーは39歳のマイクル。深い信仰心を抱いており、ケンブリッジを卒業して聖職者になることを考えていたが、挫折して信仰会を開いた。また彼は同性愛者であり(一般社会での挫折はそれと関連している)、同性愛と信仰を両立させることに悩んでいる。というのも、同性愛も信仰も観念的なものではなく、彼の実存の根底からくる深いものだからだ。そして彼の同性愛は、平穏な信仰会の運営に陰を落としていく。

物語の外枠は、ドーラという非常に俗っぽくまた肉感的な女性と、ポールという知的だが恋愛に疎いその夫の結婚生活の破綻という形式をとる。これに、信仰会に短期滞在に来た若者トビー、ニックとキャサリンという双子の兄妹などの人物、そして信仰会の建物に隣接した湖に沈んでいる伝説的な古い鐘のエピソードなどがからむ。

物語を読みながら、複雑な人間関係がどのように展開していくのか、とてもわくわくした。ここではストーリー展開については語らないが、非常によくできたストーリーだとおもう。

また個々の登場人物たちもとてもうまく描かれている。そしてそれは、人物の内面をすべて描き切るのではなく、ある部分は描かずに、読者の想像にゆだねるという手法をとっている。マイクルを例にとれば、彼の同性愛と信仰が、物語が終わってからどうなっていくのか、マードック自身は安易な判断をくださない。このため、物語にとても奥行きがあるように感じられる。

非常に優れた作品だとおもった。

 

【関連項目】

20世紀の思想界を分かりやすく解き明かした『実存主義者のカフェにて』

 

新宿で2種類のボージョレを飲み比べ

21日は、フランス・ワイン、ボージョレ・ヌーヴォーの解禁日。一人で飲むのもつまらないので、またまたアルバイト先の同僚を誘って、新宿のワインバー<マルゴグランデ>に、解禁されたばかりの新酒を飲みに行った。今年のマルゴグランデは5種類のボーショレ・ヌーヴォーをそろえており、どの銘柄にするか悩んだ。結局、店員さんの勧める2銘柄をボトルで注文して飲み比べ。注文したのは、Domaine des Nugues(ドメーヌ・デ・ニュグ)のボージョレ・ヴィラージュとChristophe Pacalet(クリストフ・パカレ)。

まずは、ボージョレ・ヴィラージュ・ヌーヴォーのボトルを注文

最初に飲んだニュグはフルーティで、あとから注文したクリストフ・パカレはこくのある味。同じボージョレでも、色や香りが全然違う。ということで、みんなであっちがいい、こっちがいいと、好みを言い合ったのだが、飲んでいるうちに酔っぱらって、どちらも同じような感じになってしまった(笑)。

つまみは、生ハム、前菜、チーズそしてタコ焼き

ワインに合わせるつまみの方は、飲み始めた時間が早かったので、まずタイムサービスの生ハム食べ放題を注文し、前菜盛り合わせ、チーズ盛り合わせを追加でオーダーした。またグループ店から出前でタコ焼きを取り寄せることができるというので、試しにそれも追加したら、ボージョレとけっこういいコンビネーションだった。

今年はヨーロッパが天候不順で、ワインの収穫にも影響があったようだが、この日のボージョレ・ヌーヴォーは厳選された銘柄のせいか、とてもおいしく飲めた。

https://marugo-s.com/g/

カナレット展で華やかなヴェネツィアの雰囲気を味わう

19日、SOMPO美術館(新宿)で開催中の『カナレットとヴェネツィアの輝き』展を鑑賞した。ジョヴァンニ・カナレット(1697年~1768年)は、ヴェドゥータ(風景画)の巨匠と呼ばれる画家で、18世紀ヴェネツィアの華やかな光景をリアルに描いている。日本で初の大規模な展覧会というので、同美術館に行ってみた。

『カナレットとヴェネツィアの輝き』展開催中のSOMPO美術館

18世紀のヴェネツィア共和国は、国家としては盛期を過ぎているのだが、観光都市として有名で、ヨーロッパ、特にイギリスの富裕な旅行者に大人気だった。彼らは、ヴェネツィア訪問の記念に華やかな風景画を求めるようになり、それにこたえるかたちで多数の作品を描いたのがカナレットだ。

カナレット(1697年~1768年)

ヴェネツィアは、ルネサンス期にティツィアーノ(1490年~1576年)、ティントレット(1518年~1594年)らの大画家を生んでいるが、彼らが描いたのは人物画、宗教画が多く、風景画はあまり描いていない。風景画は絵画としては比較的新しいジャンルで、カナレットはちょうど旅行者たちからの需要が生じた時代に居合わせ、それに応じて新しい分野を開拓したということのようだ。もちろん、ヴェネツィアという都市の魅力を抜きにしては、こうした需要は生じなかっただろうが。

華やかな大作が数多く展示されていた

解説によれば、そんなカナレットにも転機があり、ヨーロッパ中が戦場となったオーストリア継承戦争(1740年~48年)の時代、旅行者も需要も激減し、庇護者のいる1746年にロンドンに移住した。そこで今度はイギリスの景観をヴェネツィア時代と同じ手法で描き、イギリスの画壇に大きな影響を与えた。1755にはヴェネツィアに戻り、アカデミーの会員に選出され、名声につつまれながら亡くなった。

とまあ、略伝は以上のような感じになるが、彼は、海上都市ヴェネツィアの魅力を最大限にキャンバスに再現した代表的な画家ということになるだろう。

そうした華やかな雰囲気の伝わる展覧会だった。

カメラ・オブスキュラ

またカナレットら当時の画家たちが構図を決めるのに使ったという光学機械カメラ・オブスキュラが展示してあったのも、個人的にはおもしろかった。

同展は12月28日まで開催。

https://www.sompo-museum.org/

囲碁ソフトに2連勝

昨日はアルバイト帰りにビックカメラに立寄ってプリンター用のプリントヘッドを購入した(取り寄せで時間がかかるかと思っていたのだが、店頭在庫があって、購入はスムーズだった)。ついでに、そばの売場で安い囲碁ソフトを見つけて購入。プリントヘッドより先に囲碁ソフトをインストールして対局してみた。

囲碁ソフト

最初はよく分からないことが多いので、ソフトの棋力はともかく<普通>に設定。

第1局目は私の黒番半目勝ち

第1局目は、私の黒番(6目半コミ出し)。AIの囲碁ソフトにありがちだが、ソフトの方は計算可能な地をかせぐのが好きなタイプ。私はもともと地よりも厚みが好きなので、対局は、自然とソフトが四隅をとり私が中央を囲うという流れに。実力伯仲していたのでけっこう楽しめて、かつ結果は半目ときわどく勝ったので、大満足だった。

第2局目は私の大勝

続いて第2局目は、黒白入れ替わって、私の白番71目半勝ち。こんなに勝つと笑いが止まらない(囲碁に慣れてない方のために解説すると、真ん中から右下にかけての黒石は、全部死んでいる)。プリンターはともかく、これで当面楽しめそうだ。

プリンターを買い替えて接続に一苦労

数年間使っていたキヤノンのプリンターの調子が良くなく、半年ほど前からカラー印刷ができない状態だったので、このままだと年末に困りそうだと、思いきってプリンターを買い替えた。私は翻訳の校正などで大量の印刷をするので、プリンターが壊れるのはある程度やむなしだと思っている。

プリンターを買い替えたのだが…。

プリンターの機種を変えると操作方法が分からなくなるので、今回購入したのはこれまで使っていた機械と同じ機種で、ただし黒の在庫がないというので、白い機種にした。機械の色にはあまりこだわっていない。

引退した2代目のプリンター

実はこのプリンターは、同じ機種の3代目。以前から私が使っている機種はインクをタンクにためて印刷するタイプで、大量に印刷する場合、印刷費用が安いということで選んだのだが、動作不良が起こりやすいのは困りものだ。最初の機械は使用中に原因不明のまま動かなくなり、メーカーに修理に出すことが考えられなくもなかったのだが、修理している期間何も印刷できなくなるのは困るので、やむなく2~3年前に買い替えたという経緯がある。

取説のプリントヘッドの取り付け方の解説

さて今回、重いプリンターを運んできてさっそく接続してみたのだが、<プリントヘッドの取り付け不良>というエラー・メッセージが出て動かない。おかしいと思って前の機種のプリントヘッドがどのように接続してあるか調べてみたところ、保護テープと間違えて、基盤のような薄いテープをはがしてしまったことに気がついた。以前取り付けたときはそのテープをはがしておらず、テープがそのままプリントヘッドについている。私のミスと言えばミスなのだが取説に書いてある接続方法の図は、失敗してから気づくように書かれていて、どうも分かりにくい。そこでとりあえず、前の機種のプリントヘッドをはずして新機種に取り付けると、カラー印刷はうまくいかないもののなんとか印刷はできる。

保護テープと間違えて基盤をはがしてしまった!?

これはプリントヘッドを交換するしかないと思い、その交換方法を知りたいと、あわてて取説に書いてあった相談センターに電話したが、「自分でプリントヘッドを購入して交換してください」との回答で、あまり親切な対応とは思われなかった。まあ私が大切な基盤をはがしてしまったのだから仕方がないが、ともかくまた余計な出費だ。明日、アルバイトの帰りに新宿の家電量販店で注文しよう。

しかし後になってよくよく考えてみると、前の機種もカラー印刷ができないというだけなので、もしかするとプリントヘッドを交換したらうまく印刷できたのではないかという気がしてきた。最近の機械は、便利なことは便利だが、いざ調子が悪くなったとき、どうしたら良いのかさっぱり分からない。

素人の悲しさだ。

歴史書『聖バルテルミーの大虐殺』を読む

1572年8月にフランスで起こったプロテスタントの大量殺害事件<聖バルテルミーの虐殺>を詳解した歴史書、『聖バルテルミーの大虐殺』(フィリップ・エルランジェ著、1960年、日本版編訳・磯見辰典、白水社、1985年)を読んだ。

複雑な16世紀フランス宮廷の動きを追った『聖バルテルミーの大虐殺』

聖バルテルミーの虐殺は、16世紀にヨーロッパ全体を揺り動かした宗教改革宗教戦争のさなかにフランスで起こった事件で、8月24日の聖バルテルミーの日の早朝の教会の鐘の音を皮切りに、パリに集まったカルヴァン派プロテスタント(フランスではユグノーと呼ばれる)が、老若男女を問わず大量に殺害され、また虐殺は地方にも波及した。この虐殺による死者の数は不明で、フランス全体で10万人から6千人までさまざまな説があるが、殺されたのはプロテスタントだけではなく、日ごろ利害関係などで対立していたカトリック同士も弾圧の混乱にかこつけて殺し合った。

事件の背景は複雑で、その複雑な背景を解き明かすことを目的としたのが本書だが、宗教問題だけでなく、宮廷内の勢力争い、対外関係などがからんでいるので、簡単には要約できない。

基本的には、16世紀はじめのフランソワ1世(在位1515年~47年)の時代から、フランスは、ハプスブルク家を君主として戴く神聖ローマ帝国とスペインに東西から包囲されるかたちとなり、ハプスブルク家の勢力を弱めるため、カトリック国でありながらドイツ(神聖ローマ帝国)やオランダ(ネーデルラント)のプロテスタントを支持していた。このためフランスの宗教政策は、協調・寛容と弾圧を繰り返す複雑なものにならざるをえなかった。またフランソワ1世没後は、国王の早世が続き、政策が一貫しなかった。

フランソワ1世の子アンリ2世(在位1547年~59年)の急死後、フランスの政治的混乱に拍車がかった。15歳で即位したその長男フランソワ2世(在位1559年~60年)の時代には外戚で強硬なカトリックのギーズ家が宮廷を牛耳るものの、フランソワ2世も急死し、弟のシャルル9世(在位1561年~74年)が10歳で即位すると、シャルル9世は、ギーズ家と敵対するプロテスタントの軍人コリニー提督を父のように慕い、その意見を重んじた。

これに、アンリ2世の王妃でフィレンツェメディチ家から嫁いだカトリーヌ・ド・メディシスの思わくがからむ。

結局、カトリックプロテスタントの融和を図るためにプロテスタントの統領であるブルボン家のアンリ(後のアンリ4世)とシャルル9世の妹マルグリットの婚礼が行われるが、この婚礼は誰も満足させることができなかった。そしてこの婚礼を祝うためにプロテスタントの貴族たちがパリに集まったとき、虐殺が行われた。虐殺は、プロテスタントの主要人物を殺害するというギーズ家、カトリーヌ・ド・メディシス、そして彼らに説き伏せられたシャルル9世の当初の意図を超えて瞬く間に拡大し、パリは大混乱に陥って収拾がつかなくなる。宮廷の上層部は、権力争いの観点から敵対するプロテスタントの殺害を命じたのだが、それを機に、保守的なパリ市民の多くが日ごろ嫌悪感を抱いていたプロテスタントの隣人たちの一掃に動き出し、歯止めを失ってしまう。この事件は、異質なものを社会から排除しようとする民衆心理の恐ろしさを示す事例でもある。

「ずっと以前から、『怒りの日』を待ちながら市当局の狂信者たちは、ユグノー教徒を秘密に調査する仕事にかかっていた。当時のパリは16の区に分かれていた。それらの区の責任者である16人の『地区警備長』は、それぞれ税割当名簿の抜粋を所持していた。そこには彼の区に住む異端者の名が書きつらねてあった。もし宮廷が虐殺を突然行なったとしても、それは市が長い間考えていたことであったし、また説教家たちも信者たちの精神をそれにむけて準備しておいたのである。そう考えれば、民衆の中から起こった推進力がなければそうなり得ないようなこの殺戮の激しさ、組織的な性格を理解することができる。それはまぎれもない、まさに爆発だったからである」(本書167頁)。

統制を失って殺された人たちの死体は次々にセーヌ川に投げ込まれた。生きたままセーヌ川に放り出され、殺された人たちもいたという。パリ市内に住むプロテスタントのなかには裕福な商人も多く、彼らの家は掠奪された。また殺されたのはプロテスタントだけではなく、日ごろ利害関係などで対立していたカトリック同士も弾圧の混乱にかこつけて殺し合った。これが、歴史上あまり例を見ない大量虐殺だったことは間違いない。

この大虐殺のニュースは、瞬く間にヨーロッパ中に広まったが、シャルル9世を非難する声は起こらなかった。しかし、寛容と弾圧のあいだを何度も揺れ動いたシャルル9世の母后カトリーヌ・ド・メディシスにとって、虐殺は成功とは言えなかった。

「長い間平和の化身となっていたカトリーヌは、見通しのつかない、従って、最初から自分には統制のとれないような戦争を避けようとして失敗したのである」(本書205~6頁)。

虐殺の直後、しばらくの間は、プロテスタント勢力は弱まったかのように見えたが、しばらくたつと、虐殺に対する怒りから、以前にもまして強くカトリックに敵対するようになる。フランスの混乱は、1589年のアンリ4世の即位まで続くが、そのアンリ4世も、最後は狂信的なカトリック教徒に暗殺されてしまう。

著者エルランジェは、次のように聖バルテルミーの虐殺をまとめている。

「聖バルテルミー事件は、その時代の中心にすえてみない限り理解できない。その事件には、ユマニスト的で狂信的で、英雄的で獰猛なこの16世紀、寛容というものが裏切りと受け取られるこの世紀の刻印を刻まれているのである。しかしそれは何よりも、人間の狂気の恐るべき照明をみせてくれたのである。」(本書240頁)。

     ※     ※     ※

複雑な事件を扱った本書は、残念ながら読みやすいとは言えない。特に分かりにくいのは、次々に登場する人名とそれぞれの人物同士の関係で、簡単な系図や主要人物の略伝が添えられていたら、もっと読みやすかったかもしれない。また宮廷の内部事情は詳しく述べられているものの、史料の制約のせいか、虐殺に参加し騒動を拡大した民衆の心性についてほとんど触れられていないのは残念だった。