本と植物と日常

本を読んだり、訳したり、植物に水をやったりの日々…。

タアサイの炒め物をつくる

アルバイト帰りに、近所のスーパーでタアサイ(塌菜)というこれまで見たこともない不思議な中国野菜を見つけ、1株108円と安かったので試しに買って、鶏肉と合わせた炒め物をつくってみた。

アサイという不思議な野菜の料理に挑戦

スーパーで買ったときには、炒め物にあうという以外のレシピがよく分からなかったのだが、私の調理法は次のような感じ。

まず細く切った玉ネギを炒め、それにタアサイを加えてさらに炒める。ほぼ火がとおったら、それらをいったん取り出す。これは、野菜と鶏肉では火がとおる時間が違い、野菜の方が早く火がとおるので、できあがったときに野菜をしゃきっとさせるため。

次に細かく刻んだニンニクを炒め、これに鶏むね肉を加えてさらに炒める。鶏肉に火が通ったところで、日本酒を少しふりかける。日本酒の水気がとんだところに、先に軽く炒めておいた玉ネギとタアサイを加える。

このあとの味付けをどうするかよく分からなかったので、今日はとりあえず焼き肉のタレを加え、仕上げにオイスター・ソースとゴマ油を少し加えでてでき上り。

適当につくったにしては、まあまあの味

食べてみると、チンゲン菜のような味で、白ワインともよく合う。私の感触では、豚肉よりも鶏肉の方がおいしいとおもう(エビもあうかも)。

安いし簡単に調理できるので、タアサイを見つけたらお試しあれ。

オカワカメの味噌汁をつくる

今朝は、冷蔵庫のなかをひっかきまわしてありあわせのもので朝食。よって目玉になるような料理は何もなかったのだが、はじめて「オカワカメ」の味噌汁をつくってみた。といっても意図してつくったのではなくて、味噌汁の具にできる青菜がそれ以外になかったので、ともかく挑戦してみた。

オカワカメ

こちらが「オカワカメ」。このあいだ近所のスーパーで売っていたので、どんなものかと試しに買ってみた。50枚くらいはいって108円。正式な名前は「アカザカズラ」で、南米原産のツルムラサキ科の植物。「雲南百薬」という別名もあるそうだ。私が買ったのは大分県の中津産。ツルムラサキ科ということでやはりツルムラサキに似た食感。茹でるとちょっとぬるっとするので、ワカメにたとえられているのだろう。

味噌汁の写真は、湯気がでるのでけっこう撮りにくい(笑)

いちおう味噌汁の写真もとってみたが、苦心してとったのに(湯気が出るのでけっこう難しかった)、使っているのが「オカワカメ」かどうか、これではちっとも分からない(笑)。

清楚なネリネ・プディカが満開になる

南アフリカの清楚なヒガンバナ科植物ネリネ・プディカ(Nerine pudica)が満開になった。自生地は狭く、南ケープ西部の一部地域のみに自生している。寓居では鉢植えで育てているが、草丈は30cm~45cm。1枚の花弁の長さは約3cmで、少しねじれている。花色は薄いピンクと白に近い株が混じっており、多少の幅があるようだ。

清楚な雰囲気のネリネ・プディカ

ネリネは一般的にはなじみの少ない植物なので、園芸では、<ダイヤモンド・リリー>と呼ばれることがある。ただしこのpudicaの種小名は、ラテン語の「慎み深い・貞淑な」という形容詞に由来しており、ダイヤモンドのように輝かしいというよりは、控えめな花の特徴をうまく表現しているようにおもわれる。個々の株は名前のとおりやや地味だが、それでもまとまって咲くと、花が少ない時期なので少し華やかな雰囲気になる。

こちらは豪華な園芸品種のネリネ

寓居では園芸品種のネリネも育てているが、こちらはまさに<ダイヤモンド・リリー>という感じで、花弁がきらめきなんとも豪華(すでに花期は終わっている)。

甘くておいしいカリフローレ

最近はモノがなんでも値上がりで、生活防衛が大変だ。

先日スーパーに行ったところ、「カリフローレ」という名前の見たことがない野菜が並んでいて、カリフラワーなどより安かったので買ってきて、さっそく茹でて食べてみた。

カリフラワーの柄を長くしたようなカリフローレ

カリフローレは、別名が<スティックカリフラワー>で、花の下の柄が長いのが特徴だが、食べてみると、この柄がとても甘くておいしい。

さっと茹でるだけでおしいく食べられる

3~4分茹でて、ドレッシングをかけて食べるだけなので、調理も簡単だし、おいしくかつ安いのでこれは絶対におすすめ。

カリフフローレは、これだけで食べる他、他の野菜と合わせてサラダにしたり、バーニャカウダにしてもおいしいらしい。

高井有一による評伝『立原正秋』を読む

高井有一(1932年<昭和7年>~2016年<平成28年>)による小説家・立原正秋(1926年<大正15年>~1980年<昭和55年>)の評伝『立原正秋』(新潮文庫) を読んだ。

評伝にも書かれているが、高井は元々共同通信の記者で、記者をしながら小説家を志望していた。そして1964年7月に作家の本多秋五を訪ね、本多邸で立原正秋と知り合ったという。それから立原が亡くなる1980年まで16年間立原と付き合い、自分の小説についてアドバイスを受けたり、時にはちょっとしたことで仲たがいしながら交友が続いた。仲たがいすることがあっても立原の信頼は厚く、立原の評伝を書くのにもっともふさわしい人物の一人といえよう。

日本のダンディズムを生きようとした立原正秋

さて立原の評伝だが、一番問題となるのは、作品の評価そのものよりも、立原の伝記的事実といえる。評伝『立原正秋』でもそれは強く意識されており、評伝は、高井が立原の生地を訪ねた記録「生まれ在所」という章から始まる。

立原の伝記的事実が問題であるのは、生前立原は、自分は朝鮮貴族である父と日本人の母の間で朝鮮半島で生まれた混血児であり、早くして父を失い、その後母が再婚したため叔父に預けられ、母の訪日後、呼び寄せられて日本に来たとしているからだ。しかし高井の調べによれば、立原は貧しい朝鮮人の両親のもとで生まれたれっきとした朝鮮人であり、日本人の血は混じっていない。このことを私は、立原を貶めるために取り上げているわけではなく、自分の過去を偽らざるを得なかった小説家の内面にかかわる問題として取り上げたいのだ。

立原が日本に来たのは昭和12年<1937年>で、このとき立原は11歳。この時点では自分の出自や過去を詐称する必要はなかったはずだが、朝鮮人に対する差別を強く感じていたことは疑いない。終戦時は19歳。立原は鎌倉若宮大路の茶碗屋の店先で天皇の放送を聴いたという(本書109頁)。このとき彼が日本の敗戦をどのように受け止めたのか、「内心を明かした文章は遺されていない」(同)。その後立原は、22歳で日本女性と結婚し、婚家の籍に入る。このとき、そのあとは日本人として生きると決意したのだろう。そしてこの時点ですでに彼は小説を書いていた。

習作期を経てしだいに作家として認められ、『薪能』を書いて芥川賞候補となったのが、高井と出会った1964年。

無名のうちは経歴を求められることはなかっただろうが、作家として名が挙がると経歴が必要となり、このころから先に記したように、朝鮮貴族である父と日本人の母の間で生まれた混血児であると自称するようになっていった。

1965年に書かれた自伝風小説『剣ケ崎』で立原は再び芥川賞候補となったが、この小説のなかで立原の分身ともいえる主人公・次郎は朝鮮人と日本人の混血児として描かれている。そして立原は、その兄・太郎に、「あいの子が信じられるのは、美だけだ」(新潮文庫、132頁)というセリフを与える。高井は、この断言が「立原正秋が強いられた抜差しのならない生き方の反映」(『立原正秋』43頁)であり、「次郎の成し遂げた『自己解放』が、作者立原正秋の切実な願望に他ならない」(同)とする。

しかし立原は『剣ケ崎』を私小説として書いたのではないだろう。むしろ彼は私小説を嫌い、小説は作家の幻想の産物であるだと考えていたとおもわれる。1966年に彼は『白い罌粟』によって直木賞を受賞したが、その際に次のように書いている。

「一人の作家にとり、彼が是非書かなければならないのっぴきならない作品は、そうたくさんあるわけではない。(中略)私は、自分が作家である以上、年に数本、自分も気に入り、批評家からもほめられる作品をほそぼそと発表する、そのような態度はとりたくない。(中略)要は、その作家が、自分の幻想を支えることが出来るかどうか、ということである。支えられなかったら、年に一握りの私小説を書く感想家に堕落するしかないだろう。私小説というのは、純文学でもないし大衆小説でもない。それは感想文である」(『立原正秋』175~6頁)。

そうした幻想を支える美学を、立原は日本中世のなかに求めていった。立原の作品には、能、茶の湯、禅の世界が登場人物たちの精神を形成するものとしてたびたび登場するが、高井が指摘する「抜差しのならない生き方」や「切実な願望」を読み取らないと、それらの多くの小説は高尚ぶった風俗小説としか読めなくなってしまう。

立原は1979年読売新聞に『その年の冬』を連載開始し、翌年8月、この作品を完成することなく54歳で癌のため亡くなった。その早すぎる死について、高井は次のように記す。

立原正秋がもう少し生きて、あからさまな事実を受け容れるだけの心の余裕を持てたならば、彼の文学は変り、もっと自在な境地を獲得できた可能性がある。私が彼の早世を最も惜しむのは、そんな風に考えるときである」(同書55頁)

俗化していく日本人・日本文化を厭い、それから免れた稀有な日本人たちを描き、自分もその日本人像に同化しようとした立原は、己の出生をすなおに受け容れたとき、どのような幻想をつむいだことであろうか。われわれは、残された作品からその可能性を探るしかない。

なおこの本のオリジナルは1991年に刊行され、1992年に毎日芸術賞を受賞している。

立原正秋『冬の旅』を読む

このところ立原正秋(1926年<大正15年>~1980年<昭和55年>)の作品を立て続けに読んでいる。私が立原正秋の作品をよく読んでいたのは40歳代の終わりころ。それ以来ずっと読んでいなかったので、立原作品を本棚から取り出したのはほぼ20年ぶり。きっかけは、先日私の翻訳作品を編集してくれた若者が韓国人との混血とのことだったので、彼に立原作品を勧めてみようかなとおもい、勧める前にもう一度読んでおこうとおもったため。

とりあえず、彼の代表作の一つ『冬の旅』(新潮文庫)を読んだ。昭和43年から44年にかけて読売新聞に連載された小説だ。

<勁い>人間の孤独を骨太に描いた『冬の旅』

『冬の旅』の主人公は宇野行助(ぎょうすけ)という若者。宇野家の家族構成はやや複雑で、宇野理一と矢部澄江がいずれも子持ちで再婚し、行助は澄江の連れ子。宇野理一には前妻とのあいだに生まれた長男・修一郎がいる。

この修一郎は学校の成績が良くなく、性格も自堕落で、義弟になった秀才・行助に対してひがみがある。その一方で義母・澄江に対しては情欲を感じている。ある日、家族の留守中に、情動にまかせて義母・澄江を犯そうとしているところを行助に見つかり、争っているうちに誤って包丁で自分を刺し、そのトラブルの原因を行助に押し付ける。行助は、母が犯されそうになったことを秘したまま、自分が義兄を刺したと警察に告白し、少年院に収監される。行助が嘘の告白をしたのは、義兄をかばうためではなく、自分の過ちを行助に押し付けるゆがんだ性格の義兄に、心理的にさらに大きな負い目を負わせるため。その後の物語の大半は、少年院で進行する。

『冬の旅』の描写は、一見リアリズムのようでありながら、行助や修一郎の性格描写・行動描写はかなり画一的。理一、澄江も図式どおりの動きしかせず、登場人物同士の心理的な絡み合いは、私にはほとんど感じられない。画一的な描写から抜け出しているのは、少年院に収監されている少年たちくらいだろう。そういう意味ではかなり観念的な小説である。

作品の後半では、行助の実父・矢部隆に対する思い入れが重要なテーマとして浮かび上がってくる。少年院のなかで、行助はひたすら父と向かい合う。そしてなぜ父は病死したのか(父は何を考えて生きていたのか)、なぜ母は再婚したのかを問う。そしてそれらは一種の宿命として、行助の行動を規定するものとされる。この実父に対する思い入れと再婚した母に対するある種の軽蔑は、立原自身の生い立ちを反映したものと考えられ、それまでの単純な観念論叙述から一歩抜け出している。

こうした立原の小説の主人公について、立原と親交を結んでいた作家・高井有一が評伝で次のように記しており、これは『冬の旅』の行助にもあてはまると考えられるので、紹介しておきたい。

立原正秋が描く主人公は、作者自身がかくありたいという願望の体現者である事が多い。彼の意識は常に明晰であり、行動は直線的である。国東重行(『猷修館往還』の主人公 )もその一人と言っていい。彼は作者に代って、<下衆>な人間に懲罰を加える。彼には味方がいない。味方を求めるのでもない。そして「勝目」がなくとも闘わなくてはならないという美意識を、作者と共有している」(高井有一立原正秋新潮文庫、 83頁)。

ほぼ同じことだが、高井は行助の性格を次のように表現する。「行助は『勁(つよ)い』少年である。この『勁い』は立原正秋が最も好んで用いた言葉であって、単に『強い』のと異なり、果断、勇壮、率直、非情、潔癖、意志堅固などの彼が"男の美学"と信じたものが含まれる」(同書184頁)。

立原の描く「勁い」人間は、必然的に社会から孤立し、孤独をいきる。少年院は、そうした生を選んだ人間の象徴的な居場所といってもいいかもしれない。

さて、『冬の旅』という作品全体をとおして立原が行助に託した人間の生きざまとは何だったのだろうか。けっきょくそれは、立原のいう「勁さ」と関係してくるが、少年院収監を悪とする社会的通念にはとらわれず、ひたすら己を持して、信念に従って行動するということなのだろう。この作品では描かれていないが、社会通念との闘いという意味では、立原自身が、自分が韓国人であることからくるさまざまな差別を感じていたと考えられ(そのため自分の生い立ちを詐称していた)、自分ではどうすることもできないそうした宿命的な規定に、自分自身の問題としてどう立ち向かうかが、行助および立原の抱える問題だったのだろう。

そうした一種悲壮なヒロイズムが『冬の旅』の魅力となっている。

ただ己を持するあまり、行助が母の情愛をはねつけ、彼におもいを寄せる女性も受け入れられないとなると、正義漢というよりは自己の倫理にしばられた怪物と言いたいような気がして、息苦しい。

場面転換が早く、物語の運びはおもしろい。よく言えば骨太な作品だが、やや大味な感じも否めない。

大倉山でおいしくスペイン料理を食べる

11日は大倉山(横浜市港北区)にヴァイオリンのコンサートを聴きに行ったが、コンサート前の腹ごしらえにとふらっと立ち寄ったスペイン料理店「コスタ・デル・ソル」が、味も雰囲気もなかなかだった。

大倉山のスペイン料理コスタ・デル・ソル

実は、大倉山に行くのは今回がはじめて。せっかくだからと、事前にネットで幾つかおいしそうなレストランを調べ、知らない街での夕食とコンサートをセットにした小トリップを計画した。

町田と菊名で乗り換えて大倉山に着いたのは午後5時頃。そこでまず最初に第一候補のレストランに行くと、休み。やむを得ず第二候補に移動したが、外からのぞいた感じがゴチャゴチャしていて私の好みと違う。なんだか前途多難だ。しかたがないので、ともかく第三候補のスペイン料理店に行くことにした。スペイン料理店を第三候補にしたのは、私には新宿にいきつけのスペイン料理店があり、そこでいつもスペイン料理とスペイン・ワインを味わっているので、この日はちょっと違うものにしたかったからだが、他の店がダメということであれば致し方ない。

コンタ・デル・ソルに行ってみると、カジュアルでくつろげる雰囲気だが、5時なのでまだ客は誰もいない。

カジュアルな雰囲気のコスタ・デル・ソルの内装

とりあえずスペインの発泡酒カヴァとイワシの前菜を注文。前菜は1人で食べるのにちょうどいい量で、盛り付けもシンプル。

気分よく前菜が食べられたので、続いて、スペインの赤ワイン、テンプラニーリョと定番のパエリャを注文。パエリャは注文してから炊き上げるので少し時間がかかったが、味も炊き加減もなかなか。私のいきつけのスペイン料理店に勝るとも劣らない。

パエリャと赤ワインでいい気持ち

ということで、気分よく食事をしてコンサートを聴くことができた。