DVDで鑑賞したアメリカ映画『三つ数えろ(The Big Sleep)』(ハワード・ホークス監督)が、魅力ある作品ではあるものの、ミステリーとしてはその内容にあまりにも不明な点が多かったので、原作であるレイモンド・チャンドラーの探偵小説『大いなる眠り』を読み、そのうえでDVDを見直してみた。その結果分かったことがいくつかあるので簡単に記しておく。

まず重要なのは、この映画は1946年に公開されているが、制作開始は44年10月で45年1月に一応完成しているということだ。ただ公開までに一部の場面を取り直して編集しており、この作品には1945年のオリジナル版と46年の正式版があるという。
それがなぜ重要かというと、探偵フィリップ・マーロウ役で主演のハンフリー・ボガートは依頼者の娘ヴィヴィアン役で共演しているローレン・バコールと結婚しているのだが、それは45年5月で、つまり『三つ数えろ』は、ボガートがバコールに惚れて結婚を考え、前夫人と離婚訴訟中に撮影されたことになるからだ。最初にDVDを観たとき、ボガートとバコールの親密さは新婚だからと私には思えたのだが、そうではなくて、この映画の二人は、不倫中の親密さだったことになる。

次に、バコールが演じるヴィヴィアンは、原作と映画で人物設定が変わっている。変更の理由は分からないが、原作ではヴィヴィアンは三度結婚しており、三度目の夫リーガンが行方不明ということになっている。しかし映画ではヴィヴィアンはリーガンと結婚しておらず、このためラストでヴィヴィアンとマーロウの微妙な関係(恋愛感情)を示唆して終わるようになっている。
またリーガンの失踪はこの作品の柱の一つで、それがメインの事件であるヴィヴィアンの妹カルメンに対する脅迫事件とからんでいくのだが、原作と映画でリーガンの設定が違うため、映画ではなぜこの失踪がカルメン脅迫とからむのかが曖昧になっている。
ただ、そもそもリーガン失踪とカルメン脅迫をからめるという原作の設定そのものがかなり強引で、それがこの作品を分かりにくくしている。
そこで今度は原作成立の経緯を調べてみると、この作品は、『雨の中の殺人者』と『カーテン』というすでに書き上げた2作の短編小説を大きな骨格として書き上げられたというが、そのために物語が必要以上に複雑になっているのではないだろうか。
さて、この映画を最初に観て気になったプルーストに関するやり取りも原作で確認してみた。
まずは字幕で映画のシーンを再現してみる。
※ ※ ※
「おはよう」(マーロウ)
「プルーストのようにベッドで仕事かと」(ヴィヴィアン)
「誰ですって」(マーロウ)
「フランスの作家よ」(ヴィヴィアン)
※ ※ ※
この場面、原作では次のようになっている(双葉十三郎訳、創元推理文庫、68~9頁)。
※ ※ ※
「起きたばかりなの?」
彼女は、ちらばった家具をながめながら、鼻にしわをよせた。あせた赤い長椅子、中型安楽椅子が二つ、洗濯屋へ出したほうがいいレースカーテン、小さな図書テーブル。高級雑誌をのせてあるのは、応接間らしい感じを出すためだ。
「あなた、マルセル・プルーストみたいに、ベッドの中で仕事をなさるんじゃないの? そんな気がして来たわ」
「誰ですね。そのプルーストってのは?」
私は煙草を口にくわえ、彼女をみつめた。彼女はすこし青ざめて緊張しているようだった。が、緊張していてもやるだけのことはやれる娘らしくみえた。
「フランスの作家よ。変質者の目ききには一流だわ。あなたは知らないでしょう」
「ちぇっ。いざまずわが閨房へ」
彼女は立ちあがった。
「昨日は、失礼しちゃったわね。私すこし乱暴だったわ」
「おたがいさまですよ」
私はドアの鍵をあけ、彼女を私の私室に通した。
※ ※ ※
映画では、ここは単にマーロウが夜も寝ないでベッドの中で仕事をしているのではないかと、彼の仕事ぶりの比喩として(病身でベッドの中で執筆していた)プルーストを出してきたという感じがしたのだが、原作を読むと、それだけではなくて、この事件には変質者(村上春樹の新訳では「性的倒錯」)がからんでいるというヴィヴイアンの推測が加味されていることが分かる。
ただここでまた不可解な点があり、この変質者は殺された書店主ガイガーとその付き人ランドグレンを指しているのだが、ガイガーと無関係なヴィヴィアンがその事実を知っていて挨拶のやり取りにまじえてそれをマーロウにほのめかすという設定には飛躍があり過ぎるとおもう。この点は、そのやり取りを簡略にした映画のセリフの方に分がある。
映画と原作の違いをあげていくときりがなくなるが、あえてもう一点だけあげるとすると、ヴィヴィアンの人物設定とのからみで、映画では最後の謎解きが非常にあっさりしていて、それが、話がよく分からない原因の一つになっている。また作品のタイトル「大いなる眠り」という比喩も、映画では謎解きがあっさりしているために活きてこない。その意味では、映画の邦題を『大いなる眠り』ではなく『三つ数えろ』にした宣伝マンのセンスを評価すべきだろう。
ということで、映画は細部をつきつめていくとよく分からなくなってしまうのだが、それを力技で押し切った監督ハワード・ホークスの力量は認めなくてはならないだろう。
原作に戻ると、村上春樹は解説のなかで興味深いことをいくつか書いているので抜き出してみる。
「フィリップ・マーロウは状況を推理して行動するのではなく、まず状況に沿って身体を動かし、動かし終えたあとでいささかとってつけたように推理をする。だからその推理にはあまり身が入らないし、多くの場合、整合性と明瞭を欠くことになる。しかし繰り返すようだが、それこそがチャンドラーの小説世界なのだ。我々はまずフィリップ・マーロウの身の動きに目を引かれる。そして彼の動きを追っているうちに、その小説の律動に吞み込まれていって、やがて筋の整合性なんて(たぶん)とくにどうでもよくなってしまう。我々が必要としているのは、フィリップ・マーロウという人物の発揮する整合性なのだ。そしてチャンドラーの特徴的な、魅惑的な文体が小説の強靭な律動を作り出していく。「最初から筋のわかっている物語を書くくらい退屈なことはない」と彼は言っているが、その意見には僕もまったく同感だ。書きながら、手を動かしながらどんどん筋をこしらえていく――それが文章を書くことのいちばんのスリルなのだ」(ハヤカワ文庫、376~7頁)。
小説の律動についてのこの考えには、私も賛成だ。まあ、これと逆のタイプの典型が、この映画の脚本に参加しているウィリアム・フォークナーの小説だろう。フォークナーはおそらく、小説全体の細かな見取り図を最初につくって、それに肉付けしていくかたちで作品を仕上げていったのではないだろうか。フォークナーの小説に、私はあまり<律動>を感じない。
さて、この小説はたくさんのシャレた会話で満ちているが、ついでなので、そのなかでも特にシャレていると思った会話も抜き出しておこう。マーロウとヴィヴィアンのやり取りだ。
※ ※ ※
「骨の髄から人殺しというわけね、警官と同じだわ」
「むちゃ言うなよ」
「肉屋が殺した牛に同情するほどの気持ちもない冷酷無残な男なのね。はじめ会ったときからわかってたわ」
「だが君はもっと怪しげな連中を友だちにしているじゃないか」
「あの連中なんか。あなたにくらべりゃ甘いものよ」
「おほめをいただいてありがとう。君だってお茶うけのビスケットにゃ見えないぜ」(双葉訳、創元推理文庫、180頁)
「人を殺すように心ができているのよ。警官もみんな同じ」
「言うね」
「暗くて、どこまでも寡黙な男たち。肉屋が畜肉に対して抱く程度の感情しか持ち合わせない。あなたはそういう人間の一人なのよ。最初に会ったときからそれはわかった」
「その違いがわかるくらい、君はたくさんの怪しげな連中と交際してきたようだ」
「他の人たちなんて、あなたに比べたらやわなものよ」
「ありがたいお言葉だ。しかし君だってイングリッシュ・マフィンというわけじゃない」(村上訳、ハヤカワ文庫、235頁)
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この箇所、正確さはともかく、個人的には双葉訳の<律動>に軍配をあげたい。
最後に、双葉訳と村上訳を比較して気になったことを一つだけ記しておく。それはこの作品の結びの文章だ。
※ ※ ※
「下町への道すがら、私は一軒のバーの前に車をとめ、ダブルにしたスコッチを二杯ひっかけた。が、なんの役にも立たなかった。ただ「銀鬘(シルヴァー・ウィグ)」を思い出させただけだった。その彼女にも、もう二度と会わないだろう。」(双葉訳、272頁)
「ダウンタウンに向かう途中、バーに寄ってスコッチをダブルで二杯飲んだ。酒は助けにはならなかった。それはシルバー・ウィグのことを私に思い出させただけだった。そのあと彼女には一度も会っていない。」(村上訳、364頁)
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面倒なので原文にはあたっていないが、この小説は推測で終わっているのだろうか、断定で終わっているのだろうか?

































































