本と植物と日常

本を読んだり、訳したり、植物に水をやったりの日々…。

自分の翻訳の見直しが終わる

9月の初めから取り組んでいた自分の翻訳原稿の見直しが、本日とりあえず終了した。途中でプリンター故障という予期せぬトラブルもあったが、プリンターがないと何もできないので、貯金をおろして急遽プリンターを買い換えた。この作品は原稿用紙約650枚の大作なので、今はけっこうへとへとだ(笑)。

f:id:helvetius:20211003173317j:plain

自分の翻訳の見直しが終わったが、けっこうへとへとだ

さて、私が訳したのは、1776年にフランスで出版された政治論で、ルイ16世即位(1774年)、アメリカ独立戦争開始(1775年)といった激動の社会情勢をかなり意識して書かれている。ただ、現実の政治のなかに著者の思想が反映される余地があったかといえば、それはかなり難しいし、著者自身がそれを意識していたのではないだろうか。この作品のなかの著者のいろいろな提案が現実的な問題としてクローズアップされてくるのは、むしろ1789年のフランス革命勃発以降だ。

いずれにしても、作品全体の結びの部分が、幾分ペシミスティックであるがかっこいいので、拙訳でご紹介しておきたい。

 

   ☆     ☆    ☆

 

「自分たちを不幸にするために可能なあらゆることを行ったあとで、どうしてわれわれは自分たちの不幸を嘆くのでしょうか。自然の声に耳をふさいだあとでは、その不当さを非難することが、われわれにうまく釣り合っています。自然は、われわれは平等だと、われわれに向かって叫びます。それなのに、法を制定しながら平等はすこしも存在しないと推測し、人類を情念と何人かの個人の犠牲にするのが賢明だと思い込むことが、われわれを喜ばせます。自然はわれわれを貪欲にも野心的にもつくりませんでした。しかしながらわれわれは、貪欲と野心が社会の秩序と運動の二つの原則であることを望みます。狂人たちが、自分たちの狂気に対する報酬として賢者たちに約束された幸福を獲得するのは正当なのでしょうか。

 さあ、われわれの歩みに戻らなくてはなりません。もしわれわれがならず者の結社ではなく、最後に理性的な社会を形成することを望むならば、誤りを改め、新しい経路を選ぶ必要があります。われわれがどんな法に従わなくてはならないかを知るためには、永遠の法に遡らなくてはなりません。キケロは語っています。それは神の理性そのものであり、都市や社会の誕生に先行しました。そして元老院も人民も、変えることができません。われわれの心、情念、欲求、そしてわれわれの精神がもっている手段を学ぶ必要があります。あなたはおっしゃるでしょう。『私どもは、自分に課さなくてはならない目的から非常に離れたところにおります』と。私はそれを認めます。しかし、どんな奇妙な論理によって、それに何歩か近づく代わりに、われわれはそれからさらに遠ざからなくてはならないと、あなたは結論されるのでしょうか。立法についての私の諸原則は、ある人々には空想的な夢としかおもわれないでしょう。しかし空想にふけるということで、人々は誰を非難しなくてはならないのでしょうか。自然の意図に分け入ろうと努め、もっとも賢明でもっとも幸福な人民が従った法しか提案しない私をですか。それとも、自然を自分たちの気まぐれに服従させていると自慢し、逃げ去る幸福の後ろを意地で駆け回り、われわれの悪徳を非常に増やし、広げることで、われわれを良い市民にするのを期待する深淵な政治家たちをですか。」