第二部は、19世紀の英領インドに舞台を移す。インドの出版関係の法規は自由を尊重するイギリス本国にならっているため、名目的には<検閲>という制度は存在せず、出版取締りは個々の出版物の摘発と裁判をとおして行われた。
冒頭で取り上げられるのはジェイムズ・ロング(1814年~87年)という宣教師のエピソード。1857年に起こったシパーヒーの反乱によって自分たちの支配に対し危機感を感じたイギリス人支配層は、インド人の意識を知るためロングに書籍の調査と報告を求めた。この調査を通じてイギリス人プランターに搾取されるライーヤト(耕作者)に同情したロングが、1861年にプランターの抑圧を描いたベンガル語のメロドラマ『ニル・ドルボン』の英語訳出版を手配したところ、プランターたちから名誉棄損で訴えられた(本書100頁)。この裁判はかなりの注目を集め、「会期中、カルカッタのふつうの事件の審理が繰り返し停止するほどだった」(本書105頁)という。
この裁判後の1867年に、インドでは出版および書籍登録法が制定され、イギリス統治下のすべての州で出版されたすべての書籍の記録をとることが定められる。この記録は「目録(カタログ)」と呼ばれ、地方の図書館員が作成し、備考欄にそれらの書籍の特徴が詳細に記入された。ただし目録が創り始められた当初の狙いは現地の情報収集であり、「登録作業を行うものから見てあからさまに扇動的な書物でも、政府は出版を許可し」(本書129頁)た。
しかし世紀が変わり、「活字がインド社会に深く浸透し始めると、ナショナリストたちは呼応し、書物は危険なものとなり、ブリテン統治は抑圧的」(本書130頁)になっていく。1905年を過ぎて、目録の情報をどのように使えば、ナショナリズムの勃発を抑え込めるかが問題となったとき、「監視は処罰に変わり」(本書134頁)、警察の再捜査と裁判所への提訴となったとされ、ダーントンはその切り替えを、「ゲシュタルト・スイッチ」(本書137頁)と呼ぶ。つまり、この時期に文学作品の内容が変化したのではなく、それらがもつ社会的な意味が変化したのだ。
しかし、大量の文筆家たちを逮捕したイギリス人支配者は、彼らを有罪にすることに慎重だった。「なぜなら、自由主義的帝国主義に内在する矛盾を露呈する恐れがあったから」(本書137頁)だ。この矛盾を解決するために、彼らは次々に新しい法律を制定した。なかでも1910年のインド出版法は、「すべての出版社のオーナーに保証金を払うことを義務付け、判事がその金銭と印刷機の両方を没収する権限」(本書138頁)を与えた。それによって摘発された「重要な事件では、目録作成者自身が法廷で証言した。そのため、法廷は解釈の戦場と化し、双方が、身振りを交えて相手の解釈を表現する場となった」(本書140~1頁)。そして「判事らは、扇動的な出版物に関する一連の裁判において、語義に関する『現地の』議論を一蹴」(本書150頁)した。
これらの一連の裁判で、「(ブリテン人は、)自分たちの支配は、『現地人』に対してはもちろん、それ以上に自分たちに対しても公正であると示そうとしたのだ。もし、ブリテン統治が法の支配と目されなくなれば、力による支配とみなされかねない。報道の自由を守らない判事は、専制政治のエージェントとみなされかねない。しかし、インド人に本国のイングランド人と同等の言論の自由を認めるわけにはいかなかった。そこで『敵対感情』を『不満』、『不満』を『扇動』と言い換え、必要に応じて言い方を自在に変えたのである」(本書157頁)。
以上、インドで起こったこれら一連の事態に、<検閲官>は登場しない。それでは英領インドでは<検閲>は行われなかったのだろうか。それに対するターントンの最終的な見解は次のようなものだ。
「ブリテン統治時代のインドの裁判では、周囲の圧力のもとでわかりきった判決が出ていたわけだが、それでもブリテン法の支配を実演し、報道の自由というフィクションを糊塗するべく、手の込んだ茶番劇が執り行われていた。」(本書262~3頁)
英領インドで出版弾圧を検閲と認めることは、みずからの統治の矛盾を認めることだった。