8月末、古都の大学から『精神について(仮題)』の初校ゲラが届いた。かなり厚くなるのは翻訳段階から分かっていたのだが、届いたゲラは750頁もある!? 7月に大学から送られてきたメールでは、7月末か8月7日までに初校を出力とあったので、作業がかなり遅れているようだ。というのも、『精神について』にはいろいろな異本があって、今回の翻訳は主要な異本を示すことになっているので、その違いをどのように実際の組版に反映するかに時間がかかったらしい。
さてこの『精神について』は、1758年7月にフランスで出版された作品だが、当時のフランスは七年戦争の最中で、戦費調達のための増税などをめぐって世論が騒然としていた。国王側は当然増税を求めるのだが、その法案を審議して登録する高等法院は増税に反対していた。また国王側は信仰や出版に対して比較的寛容だったのだが、高等法院は信仰や出版に対して厳格な態度をとっていた。出版の自由が信仰や道徳を脅かすという立場だ。
そうしたなかで、『精神について』は国王の正式な許可を得て出版されたのだが、出版されると同時に、内容が危険であるとして、保守派からの攻撃が始まった。
『精神について』は、文字どおり「精神とは何か? 何が人間を動かしているのか?」という問題を中心に書かれている。参考までに、『精神について』の巻頭に引用されている古代ローマの唯物論哲学者ルクレティウスの言葉を紹介しておきたい。
精神の本性は何からできているか、
また地上では物事はとんな力によって行われるか、
その理由をよく知らねばならない。
(『事物の本性について』<藤沢令夫氏、岩田義一氏による>)。
ルクレティウスという権威の陰に隠れているのだが、「精神とは何か?」ということに関する著者のこたえは、「人間を動かすのは欲望と快楽だ」という即物的なものだ。
また議論をすすめるなかでは、著者は、当時知られているアジア、アフリカ及び新大陸の習俗を多数紹介し(日本についても2度言及)、人間の行動やその動機の多様性を指摘しているのだが、それらはヨーロッパの習俗を相対化し、その正当性を揺らがすもので、これがカトリックと高等法院の激しい怒りをかったのだ。
たとえば「愛」について、著者は端的に次のように語る。
愛するとは欲求を抱くこと(Aimer, c'est avoir besoin)。
現代からすればなんでもない当然の表現のように思われるが、この言葉を18世紀社会においてみると、危険な響きがしてくる。
このため高等法院と政治的妥協を図りたい国王側はただちに出版許可を撤回し、『精神について』は、正式な出版ルートから姿を消してしまった。しかしこの騒動は当時の読者の強い関心を呼びおこし、すでに出回っていた本は回し読みなどによって広がり、フランスだけでなくヨーロッパ全体に大きな影響を与えている(1759年には英訳が出版)。
ということで、『精神について』は、日本ではまだ紹介されていなかった18世紀思想界の大きな問題作だ。私としてはこの作品をぜひいろいろな人に読んでいただきたいのだが、そのためには死ぬ気で校正しないと出版のタイミングに間に合いそうにない。