本と植物と日常

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アダム・スミス『国富論』(山岡洋一訳)を読む

アダム・スミス『国富論(国の豊かさの本質と原因についての研究)』(山岡洋一訳、日本経済新聞社、2007年)を読み終えた。初版の刊行は1776年なので、本年は刊行250年となる。言わずと知れた経済学の古典的名著だが、私がこの作品を読んだのはこれが初めて。実は私は、これまでスミス研究の大家と親しくさせて頂いていたのだが、かんじんのスミスの作品を読んでおらず、なんとしてもこの作品を読まねばと思いながら、内容と分量(邦訳で約980頁)に負けてこれまで後回しになっていた。有名な作品だけに翻訳はたくさんあるが、この日経版は翻訳の専門家による初めての訳ということだったので、読みやすさを考えてこの翻訳を選んだ。今回は、Cというフランスの著者の経済関係の作品を翻訳中ということもあり、自分のなかで18世紀の経済思想全般への関心が強くなっていたので、なんとかこの大作を読み終えることができた。

翻訳の専門家による『国富論』

内容はあらためて紹介するまでもないが、当訳の解説者・根岸隆氏によって紹介すれば次のようになる。

「第一編『労働の生産性の向上をもたらす要因と、各階層への生産物の分配にみられる自然の秩序』は、現代経済学的に言えばスミスの『ミクロ経済学』である。そして、続く第二編『資本の性格、蓄積、利用』は、いわば『マクロ経済学』ないし『経済発展論』であろう。第一編、第二編がいわばスミスの経済理論であるのにたいして、第三編『国による豊かさへの道筋の違い』はスミスによる諸国民の『経済史』である。続く第四編『経済政策の考え方』は、ある意味ではスミスの経済学からみたスミス以前の『経済学説史ないし経済思想史』であり、またスミス自身の『経済政策論』でもある。そして、最後の第五編『主権者または国の収入』はいわばスミスの『財政学』にほかならない」(下巻550~1頁)。

分業による生産性の向上やそれのもたらす社会的影響の議論、モノの価値の判断基準は何におくべきかといった議論は、なるほどスミスの主張はこういう事だったのかと納得させられた。

モノの価値は、いったんは通貨を媒介とする「価格」というかたちで示されるが、インフレによって通貨の価値そのものが下がれば、通貨(価格)はモノの絶対的価値を示すことができない。たとえば、17世紀に新大陸の金銀が大量にスペインにもたらされたが、それはスペインの富を増やしたのではなく、金銀の価値を減らしただけだった。金貨銀貨の改鋳も同じような結果をもたらす。したがってモノの価値は、その生産や流通に費やした労働力によって評価されるしかないというのがスミスの考えと思われた。

また門外漢の私にはスミス経済学の(現代からみた)妥当性について語る資格がないが、彼の主張する関税撤廃と自由貿易主義が実現可能かは疑問に思ったし、昨今の世界情勢を考えると、それはむしろ実現不可能なのではないだろうか。そうした意味では、この作品はあくまでも18世紀の社会情勢をふまえた作品であると思う。

そうしたなかで個人的におもしろかったのは、第四編と第五編だ。それは第四編にはフランスの重農学説(フィジオクラートの学説)の紹介と批判があり、第五編では18世紀当時の徴税システムにたいする批判的な紹介があるからだ。

翻訳そのものはなめらかでとても読みやすかった。今後、私も範の一つとしたい。

それだけに、固有名詞の表記や文章に若干の校正もれが見うけられたのは残念だった。またこの翻訳は、経済学の専門家以外でも手に取って読めることを意識したものと考えられ註がほとんどついていないのだが、古い時代の作品なので、最低限の註はあっても良かったのではないかと思った。

なお山岡氏は、当翻訳を刊行して4年後に亡くなっている。執念の翻訳だったのではないだろうか。