本と植物と日常

本を読んだり、訳したり、植物に水をやったりの日々…。

翻訳中のテクストの誤植を見つける

10月4日、K西学院大学で私が去年出版した本の合評会があるので、それに間に合わせようと、『経済学者への疑問点』の訳稿を必死で手直ししている。私が去年出版した本と今翻訳している作品のあいだに直接のつながりはないのだが、合評会には経済学研究者が多数来る予定なので、その人たちに『経済学者への疑問点』の訳稿をわたし、まだあまり知られていないこの作品に関心をもってもらうというのが、校正を急いでいる理由だ。ただテクストそのものが複雑なうえに引用が多いので、作業がおもうようにはかどらず、ちょっとあせっている。

こちらは私が使っている底本で、フランス革命中に印刷された本のコピー

土日に校正した原稿では、一カ所、校正していてどうしてもつじつまが合わないところがでてきた。この箇所、私が使っている底本(フランス革命中に印刷されたもののコピー)では、次のようになっている。

「私どもの哲学者の議論を見てみましょう。『快楽への欲求』と、彼は言います。『つまり、われわれに内在するこの非常に力強い動機は、可能なかぎり最大の楽しみの増加へと、自然に、かつつねに向かいます。また楽しむという欲望の特性は、楽しむための手段を択ばないことです。それゆえ人間は、可能な最良の状態(le meilleur état possible)を手に入れて確保するためにすべての意志とすべての力が一致しないかぎり、その状態を知ることができません。』以上は、世の中でももっともよく考え抜かれています。しかし編集長、土地所有権が存在する社会、したがって境遇の不平等がある社会、さらにすばらしいことには、あなたが為政者や市民を傭兵として買収する社会で、自分たちすべてにとって可能な最良の状態とおもわれる秩序を人びとが想像することを、あなたはどうして望まれるのでしょうか。」

『』のなかは、著者が言うところの、<私どもの哲学者(=18世紀の経済学者)>のテクストの引用なのだが、これだと、全体の文意がよく分からない。 

引用されている元のテクスト

そこで、引用されている18世紀の経済学者の著作の該当箇所を調べてみると、底本のle(その)はleur(彼らの)になっている。これならばとりあえず全体の文意は通じる。底本は、経済学者のテクストを引用する際に著者が書き間違えたか、植字工が活字をひろい間違えたかしたのだろう。この部分を訂正すると、訳しているテクストの該当箇所は次のような意味になる。

それゆえ人間は、自分たちに可能な最良の状態(leur meilleur état possible)を手に入れて確保するためにすべての意志とすべての力が一致しないかぎり、その状態を知ることができません。

これでも分かりにくいと言えば分かりにくいのだが、引用されているテクスト全体は、「楽しむという欲望の特性は、楽しむための手段を択ばないことなので、楽しんでいる人間は、ベストな状態を知らない(ベストな状態など知らずに、ともかく楽しみに突き進んでいる)」というような意味になるかとおもう。

こちらは近代版のテクストで、例えばconnoîtreの綴りがconnaîtreとなっている

ところで、底本の誤植はさておき、私が遺憾におもうのは、底本の綴りを現代風にあらためて入力しなおした近代版が、底本の誤植をそのまま放置していることだ。入力しなおすときに引用箇所をチェックすれば、この誤植を訂正できたはずなのに、それをそのままにしているのは、とても不親切だと思う。それと、この近代版のテクストを眺めながらあらためて気づいたのだが、近代版のテクストは、問題の「le meilleur」の後の「état」が大文字になっている。それだとここは、「可能な最良の国家(Etat)」と読めてしまう。この箇所だけの問題ならそういう解釈も成立するかもしれないが、もともとの経済学者のテクストがそうなってはいないので、これは無理な解釈だと思う。結局、オリジナルの「leur」を「le」のままにしたので、「状態(état)」では文脈として意味が取れず、近代版はテクストを「国家(Etat)」と変更したのではないだろうか。無理に無理を重ねて、問題をこじらせているような気がする。

とまあいろいろ面倒ではあるが、出版後200年以上たったけれども誰も気がつかなかった間違いを見つけるというのは、翻訳者冥利につきる。