本と植物と日常

本を読んだり、訳したり、植物に水をやったりの日々…。

傷ついて育った若者たちの心理ドラマ、吉田秋生の『詩歌川百景』

2019年に連載開始された吉田秋生のコミック『詩歌川(うたがわ)百景』第2巻(小学館)を読んだ。物語は前作『海街diary』の裏話で、『海街diary』の主人公・浅野すずの義理の弟・和樹が主人公。ただし人物関係は非常に複雑で、すずと和樹は父と母がそれぞれ子連れで再婚したために姉弟になったが血縁関係はまったくない。すずの父が亡くなるまで2年ほどいっしょに暮しただけという設定だ。

傷ついて育った若者たちの心理を描く『詩歌川百景』

さて『海街diary』のなかの和樹は、単にすずの義理の弟というだけでその過去(実父)についてはほとんど触れられていなかったのだが、『詩歌川百景』のなかで、実父は非常に暴力的で、和樹の母はその男と別れてすずの父と再婚したということが明らかにされる(すずの父も死に、最終的に和樹は父親が3回代わったという設定)。このため和樹には幼いころから自己防御のくせがしみついており、他者からのさまざまな働きかけに対して、無意識的に自分を抑え込んで受け身で対応することが多い。『詩歌川百景』のもう一人の主要登場人物・妙からすると、和樹はモノトーンの世界に住んでいる。

また和樹は養父母の死後弟の守を養育しているが、守は母の三番目の夫の子で父が違う。守は2歳の時に和樹と同じ養父母に引き取られており、実の母をまったく知らない。

では妙は通常の家庭環境で育った<幸せな>女の子かというと、妙の家庭も父母は離婚し(実父は別の女性と再婚)、このため母の実家がある河鹿沢温泉に戻ってきている。母に対しては非常に批判的で、母に勧められた大学医学部受験を放棄しただけでなく成績優秀であるにもかかわらず大学受験そのものを断念して、実家の旅館で中居修行をしている。幼い和樹は、川の中で人知れず涙を流していた妙を見てしまっている。

物語はまだ登場人物紹介のプロローグの段階で、これからおそらく、和樹が世界の色彩性に気づき、自己表現ができるようになるという風に展開していくのだろうが、こうした傷ついた人間の心理ドラマは、吉田秋生の独壇場だ。

また『詩歌川百景』の舞台である架空の温泉街・河鹿沢温泉は山形県にあるという設定になっているのだが、おそらく西川町を想定しているのではないかと私はおもっている。ということは月山の裏側にあたるわけで、この作品でも、森敦の小説と同様に、死者の山という月山のイメージはいきているのではないだろうか。

これからの展開がとても楽しみだ。

 

今春最後のラケナリア

ラケナリア・ムルティフォリア(Lachenalia multifolia)が開花した。私が育てているラケナリアのなかでは最も遅い開花。これで今年のラケナリアのシーズンも終わりだ。

花は、約7cmの花茎の先端にハケ状に固まってついており、長い雄蕊と紫色の花粉がアクセントになって綺麗だ。1つの球根から肉厚で細長い葉がたくさん伸び、それが「たくさんの葉がつく」という種小名の由来になっている。

自生地は南アフリカ内陸部のタンクア・カルーとグレート・カルーの西端の乾燥地。

種から育てて3年半で開花したラケナリア・ムルティフォリア

寓居では2018年10月に種を撒いたので、開花まで3年半かかったが、かわいい花が咲いてくれたので育て甲斐を感じている。球根もかなり分球しているようなので、来春はさらに楽しみだ。

 

死の舞踏をつむぐ森敦の『われ逝くもののごとく』

森敦(1912年<明治45年>~89年<平成元年>)晩年の1987年に刊行された長編小説『われ逝くもののごとく』(1991年、講談社文芸文庫)を読んだ。山形県庄内地方を舞台にした叙事詩的な大作だ。

森の伝記を調べると、配偶者が庄内地方出身で、このため月山で一冬を過ごしただけでなく、鶴岡市近郊の漁村・加茂や酒田市近郊の漁村・吹浦にも住んだことがあるようだが、『われ逝くもののごとく』では、これらの土地と、そこに住むさまざまな階層の人々を絡み合わせ、第二次世界大戦中から戦後の農地解放までの激動の時代のうねりのようなものを言語化している。登場する人物は、上層階級よりもむしろ乞食、浮浪者、娼婦など、いわゆる生活者からほど遠い人々が多く、土地に土着しているというより庄内地方をあちらこちらとさ迷い歩いているという感じだ。

リアリズムと幻想が混然一体となった『われ逝くもののごとく』

作品のはじめの方は、舞台が極めてローカルであることに加えて、描かれる人たちがみな地元の言葉である庄内弁を離すので、極めてリアルである。しかし物語の中盤になって主要登場人物であるサキという少女が庄内を転々とするあたりはむしろ幻想に近い。リアルな世界と幻想の世界がなんの境目もなくつながっているのもこの作品の特徴であり魅力の一つ。作者の狙いは、さまざまな人物をつかって物語を紡ぎ出すことよりも、現実とは幻想であり幻想とおもわれるものなかに現実があるということの提示なのかもしれない。あるいは、リアルをつきつめると幻想に至るということか。ただし私は、これは小説という形式そのもの、さらには言語表現そのものがもっている矛盾をはらんだ問題点だとおもっている。つまり言語はどこまでいっても現実の代理表象でしかなく、たとえば写真のように現実をほとんど即自的に提示することはできず、言語のもつ喚起力によって現実に迫っていくことしかできないということだ。言語表現がリアルにおもわれるときも、それはかならず受け手のイマージュという回路をとおしてのリアルに過ぎないと言ってもいい。したがって、写真と違って言語表現は、どうしても幻想に接近せざるを得ない。ここまでくると言語表現に関して「リアル」という概念は不適切になってくるとしかおもわれないので、「緻密」「微細」といった概念で置き換えた方がいいかもしれないが、緻密な言語表現(小説)は、それが緻密であればあるほど受け手のイマージュを強く刺激して、受け手のなかに「幻想」を生み出していくということだ。

したがって『われ逝くもののごとく』の緻密さ(リアリズム)は、作者の体験に即して、あるいは作者の体験そのものを語ろうとするために要請されているというより、受け手のなかにイマージュ空間を構成させるための戦略だと言ってもいいかもしれない。

しかしそれはどのようなイマージュ空間であろうか。ここで物語に戻れば、そのなかで語られているのはさまざまな人間の死であり、それが生と表裏一体のもの、直前まで生を謳歌していた人間の突然の転換として提示される(こうして書きながら気づいたのだが、大半の登場人物の死は事故死や自殺であって、病気による衰弱死はこの小説では描かれていない。)また生死不明の人間が何人かいるが、これまた生と死の境界を曖昧化するために描かれていると考えていいのかもしれない。

そうした生とは何か、死とは何か、それらは表裏一体ではないかという問いかけが、『われ逝くもののごとく』では作品全体をとおして代表作とされる『月山』以上の重厚さで展開される。庄内の漁村・農村・都市の人々を見つめるかのように、平野の奥に死者の山・月山が存在しているという土地感も生きている。

全体として、リアリズムと幻想のあいだをたゆたいながら死の舞踏をつむいでいるという雰囲気の作品だ。

ハローワークで転職を相談

2月にはじめた新宿での現在のアルバイトはあまりにも消耗するので、昨日、思い切ってハローワークに行っていろいろ相談し、新しい仕事に応募することにした。これとて決まるかどうかは分からないが、現状がすこしでも良くなってくれればいいなとおもっている。

ハローワークで転職を相談

履歴書は今日書く予定だが、私にとって今回の応募の最大の難点はWEB面接があるということ。やり方がさっぱり分からなくて、どう対応したらいいか今から悩んでいる。まあ、現在の新宿での仕事の最大の難点も、実はPC操作があまりにも複雑ということにある。渋谷から新宿の勤務先への異動の募集の際、仕事の進め方についてはほとんど説明されておらず、私を含めて応募した同僚は、ともかく新しい職場に行けばなんとかなるだろう、それよりも仕事の確保が重要と考えて応募したという経緯がある。私も、新宿だったら自宅から通えるという程度のことしか考えていなかったのだが、いざ仕事をしてみるとこれまでとはまったく勝手が違う。このため私と同時に新宿に異動した同僚はすでに4人退社してしまった。この歳になると新しいWEB操作に対応していくのは、ともかく大変だ。

アルバイト探しも一回でうまく決まるとはおもえないが、安易に考えて失敗したので、多少時間がかかっても、今度はもう少し慎重にいきたい。

 

カプチーノをおいしく飲むためのデカダンな実用性

本日はアルバイト休み。ということで昨晩は帰宅してからすこし精神的なゆとりがあったので、自分で生クリームを泡立て、細長い専用カップでフレッシュ・クリームたっぷりのカプチーノ・コーヒーを飲んだ。

この細長いカップで飲むカプチーノは至極の味わい

カプチーノ・コーヒーもウィンナ・コーヒーもカフェや喫茶店で注文すると平べったいカップにクリームをのせた状態で出てくるが、これだとクリームとコーヒーがすぐに混じってしまい結局カフェオレなどと同じような味になってしまう。しかしこの細長いカップにクリームを浮かべて飲むと、コーヒーとクリームは分離したままで、苦くて熱いコーヒーと甘くて冷たいクリームが舌のうえではじめて混じりあい、絶妙の風味になる。それは、自分でクリームを泡立てる面倒さなど軽くふっとぶような快感だ。

ただその心地よさを味わうためにはどうしてもこうした細長いカップが必要なのだが、ヘレンド以外のメーカーでは同じようなカップを見たことがない。またこのヘレンドのカップは、細長いカップが倒れないように、ソーサーに転倒防止用のガードがついていて、これもヘレンド独自の発想だ。

カプチーノ・コーヒーやウィンナ・コーヒーをおいしく飲むためにカップを細長くする。その細長いカップが倒れないよう、ソーサーにガードをつける。なんともデカダンな発想だとおもうが、そうしたデカダンな実用性は、ウィンナ・コーヒーのおひざ元オーストリア帝国を支配していたハプスブルク家の、古くから続いているということ以外にはもはや統治原理をどこにも見出すことができない行き詰った精神性につながっているのかもしれない。一見過剰な装飾も、その行き詰った精神性に見合っている。

 

知人が亡くなって一年

本日は、昨年五月に亡くなった歌人・小説家・評論家、Sさんの命日だ。Sさんが東京に住んでおられたころご自宅にうかがって古典和歌や歌舞伎のことをいろいろ教わったので、移住先の長野県で突然亡くなったと伺って驚いたことを、今でもありありと思いだす。

Sさんが晩年になって長野に移住したのは生活費を切り詰めるためときいているが、最初のうちは長野での生活をそれなりに楽しんでいたものの、最後のころは、雪の中を買い物に出かけなくてはならないことなどに不自由を感じていたようだ。前年末に病気で入院し、その後退院して自宅で生活を始めたときいて喜んでいたのだが、自宅でころんで頭をぶつけ、そのまま再入院して亡くなられたということだった。一度長野を訪問したいとおもいつつ、それはついに果たせずに終わってしまった。

私の本棚にあるSさんの本の一部

その後、Sさんを知る関係者が寄稿して『ユリイカ』の総特集が刊行され、私も思い出を記させていただいた。Sさんが亡くなられたのは残念だが、『ユリイカ』の特集号は大切な記念碑だ。

その寄稿文の文末に、私は藤原道信の歌を引用したのだが、それをここに再掲しておく。

  朝顔をなに儚しと思ひけむ ひとをも花はさこそ見るらめ (藤原道信)

白いトリトニアがようやく開花

南アフリカの中型球根植物、トリトニア・パリダ(Tritonia pallida)が咲き始めた。細長い花茎の先端にクリーミー・ホワイトの花を数輪つけている。花弁は、先端が6枚に分化しているが基部で癒合している。花茎の長さは約20cm。葉は幅約1cmで細長い。自生地はリトルカルーと南ケープの海岸地帯。

種撒きから2年半でようやく咲いたトリトニア

トリトニア属は南アフリカに約50種分布。属名はラテン語の「風車」あるいは「風方計」に由来する。「pallida」という種小名は「青白い」という意味で花色からきているが、トリトニア属全体としては、赤かオレンジ系の花が多い。イキシア(Ixia)属と近縁。また動物のウミウシも学名はTritoniaで、Tritonia pallidaというウミウシも存在する。ラテン語トリトンには海神の意味もあるので、こちらは海神に由来する命名ということだろう。

寓居のトリトニア・パリダは2019年10月に種を撒いたので、開花まで2年半かかったことになる。