本と植物と日常

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『失われた時を求めて』~「花咲く乙女たちのかげに」を読む

プルースト失われた時を求めて』の第二篇「花咲く乙女たちのかげに」を読み終えた。私が読んだのは、高遠弘美氏訳の光文社文庫版。

「花咲く乙女たちのかげに」

第二篇は二部構成で、第一部が「スワン夫人のまわりで」、第二部が「土地の名・土地」というタイトル。内容は、「スワン夫人のまわりで」が第一篇後半の続きで、主人公とスワンの娘ジルベルトの恋の顛末およびスワン夫人(オデット)のサロンの様子、第二部はその二年後で、主人公が避暑のために過ごした北フランス海岸の保養地バルベックでのできごと。第一部でジルベルトに対する主人公の恋は終わり(失恋)、主人公はスワン家から遠ざかる。そしてバルベックで、あらたにさまざまな人たちと出会う。

そのなかで特に重要とおもわれるのは、ロベール・ド・サン・ルー侯爵とアルベルチーヌ。

サン・ルーは、主人公があこがれるゲルマント家の若い貴族(マルサント伯爵の息子)で、その第一印象は、「鋭い目つきで、太陽の光線を全身に浴びたかのようにブロンドの肌と金色の髪をしている。私にはおよそ男性には不向きとしか思われなかった軟らかな白っぽい生地に身を包み、足早に歩いていた」(「花咲く乙女たちのかげに」Ⅱ、218頁)というもの。サン・ルーと主人公にはすぐに「この先もずっと親友だという諒解」(「花咲く乙女たちのかげに」Ⅱ、234頁)が出来上がり、バルベックでさまざまな行動をともにする。ただし、<親友>というのは果たして初対面でできるものか、私には疑問。プルーストは、若者二人が親友になる経緯にはまったく興味をもっていないようで、この辺のプロセスが省略されていることが、『失われた時を求めて』は読みにくいとされる理由のひとつではないだろうか。

ついでながら、スワンとオデットに関しても、二人がどのような感じでつきあっていたのかは第一篇の「スワンの恋」で詳しく語られているのだが、相思相愛からはほど遠い二人が最終的になぜ結婚を決意したのかは、作品のなかでまったく語られていない。「とくに好きでもない、ぼくの趣味に合わないあんな女のために死のうと考えたり、これこそ我が人生最大の恋だなんて考えたり、まったく何ということだろう」(「スワン家のほうへ」Ⅱ、475頁)というスワンのモノローグのあとで、オデットは突然スワン夫人として登場する。

一方アルベルチーヌだが、はじめ彼女は、女友達と一緒に主人公の前に姿を現す。「まだほとんど堤防の突端のあたりで、五人か六人の若い娘たちが斑点のように見える特異な色彩を揺らめかせながら、前に進んでくるのが見えた」(「花咲く乙女たちのかげに」Ⅱ、365頁)。そして「未知の娘たちの一人は手で自転車を前に押している」(「花咲く乙女たちのかげに」Ⅱ、366頁)。この自転車を押している活発な娘がアルベルチーヌで、主人公は彼女に恋心を抱くようになる。夏も過ぎようとする頃、主人公はアルベルチーヌから一人でいるホテルの寝室に来てもいいと言われるが、その誘いを、肉体を許してもいいととらえて彼女にキスしようとすると拒絶される。それによって、「現実の若い娘の代わりに蝋人形を相手にしているかのように思われて、アルベルチーヌの生活に入り込みたいとか、幼い頃を過ごした土地を辿ってみたいとか、彼女によってスポーツの世界に導かれたいといった欲望は少しずつ冷めていった」(「花咲く乙女たちのかげに」Ⅱ、694頁)。このあたりの心理はかなり優柔不断で、直前に引用したスワンのオデットに対する気持ちと似ていなくもない。

ともかく『失われた時を求めて』は登場人物がとても多いのだが、そのなかでユニークなのは主人公の家の女中(料理頭)フランソワーズだろう。彼女は、主人公と祖母の身の回りの世話をするためにバルベックにも同行するが、すぐに、自分と似た階級のホテルの使用人と仲良くなる。そしてたとえばそれが調理場で重きをなす人間の場合、ごく普通の時間帯に祖母と主人公が足先が冷たいと言っても、湯をもってくることを頼めば、「竈にもう一度火をおこさなくてはならならず、従業員の夕食の妨げになって不満を買い、のちのち悪くおもわれる」(「花咲く乙女たちのかげに」Ⅱ、135頁)と理屈を言うので、簡単なことも使用人に頼めなくなってしまう。彼女の言動はとてもコミカルに描かれていて、『失われた時を求めて』の清涼剤という感じだ。

さて、第二篇を読み終えたところで、ここまでの作品構造をやはり長大なワーグナーの楽劇『ニーベルングの指輪』に例えれば、第一篇+「スワン夫人のまわりで」が『ラインの黄金』、第二篇の「土地の名・土地」が『ワルキューレ』第一幕という感じだろうか。まだまだ先は長い。