本と植物と日常

本を読んだり、訳したり、植物に水をやったりの日々…。

『失われた時を求めて』~「スワン家のほうへ」を読む

ドライなミシェル・ウエルベック作品『闘争領域の拡大』『素粒子』を読んだ反動で、急にウェットな文学の極致ともいえるマルセル・プルースト(1871年~1922年)の『失われた時を求めて』が読みたくなった。20世紀文学の最高峰の一つとされながら、あまりの長さに多くの人が途中で投げ出し、知名度のわりに完読した人が少ないという手ごわい作品だ。私もかつて途中までは読んだのだが、多くの人の例にもれず途中で投げ出している。今回もはたして完読できるかは分からないが、それならばそれで、ともかく途中まで読んで続きは持ち越しにすればよいという気持ちで読み始めた。翻訳はいくつかあるのだが、私が選んだのは高遠弘美氏訳の光文社文庫版。

プルーストの大長編『失われた時を求めて』を読み始めた

ウィキなどで簡単に分かることではあるが、自分のためのメモを兼ねて、まずはこの作品の基本データを記しておく。

失われた時を求めて』は全7篇で構成されており、各篇のタイトルは「スワン家のほうへ」「花咲く乙女たちのかげに」「ゲルマントのほう」「ソドムとゴモラ」「囚われの女」「消え去ったアルベルチーヌ(逃げ去る女)」「見出された時」。

最初の「スワン家のほうへ」は1913年に出版され、その時点の構想では、続篇は「ゲルマントのほう」「見出された時」のみの三部作だったが、「スワン家のほうへ」刊行直後にはじまった男性アゴスティネリとの恋愛感情とその突然の死、第一次世界大戦(1914年~18年)のはじまりによって、構想は大きくふくらんでいった。

第二篇「花咲く乙女たちのかげに」の出版は、戦後の1919年。その後、第三篇「ゲルマントのほう」、第四篇「ソドムとゴモラ」が次々に刊行されたが、すでに健康を害していたプルーストは、残る「囚われの女」以降の原稿を書き終えたものの推敲や加筆することができずに亡くなり、第五篇以降は、プルーストの最終的な確認を経ないまま、遺作として刊行された。第七編「見出された時」が出版され、作品全体が姿をあらわしたのは、1927年。

この記事を書いている時点で、私は第二篇「花咲く乙女たちのかげに」を読んでいる途中なので、今全篇のテーマを要約することはできないのだが、第二篇の最初の方までで描かれているのは、19世紀末のフランス第三共和政時代のかなり裕福な一族の社交関係。

第一篇「スワン家のほうへ」では、主人公である<私(名前は明かされない)>の幼年期の思い出、父の故郷である田舎町コンブレーでの隣人スワンにまつわるエピソード(第一部「コンブレー」)、そこから遡って主人公誕生以前のスワンの恋愛問題(第二部「スワンの恋」)、やや成長した主人公がパリのシャンゼリゼで出会いほのかな恋心を抱いたスワンの娘ジルベルトとのやり取り(第三部「土地の名・名」)が描かれる。ただし第一篇は全篇の導入部分なので、これだけでは、長い作品全体がこのあとどう展開していくのか、ほとんど分からない。

さて、物語は次のようにはじまる。この部分は、「スワン家のほうへ」だけでなく長篇『失われた時を求めて』全体のはじまりでもあり、プルーストとしても深く考えた表現になっている。とても有名な文章で、どのように翻訳するか、訳者の腕の見せどころでもある。高遠氏の訳は次のとおり。

「長い間、私はまだ早い時間から床に就いた。ときどき、蠟燭が消えたか消えぬうちに「ああこれで眠るんだ」と思う間もなく急に瞼がふさがってしまうこともあった。そして、半時もすると今度は、眠らなければという考えが私の目を覚まさせる。私はまだ手に持っていると思っていた書物を置き、蝋燭を吹き消そうとする。眠りながらも私はいましがた読んだばかりの書物のテーマについてあれこれ思いをめぐらすことは続けていたのだ。」(「スワン家のほうへ」Ⅰ、23頁)

主人公は病弱で神経過敏気味であり、夜、なかなか寝付けない。そんなときに母がそばにいてくれたらといつも期待しているのだが、厳格な父親は、そうした行為は子供を甘やかしますます病弱にしてしまうと、入眠時に母が見守ることやキスをすることを認めない。しかしある晩、どうした気まぐれか父は母の添い寝を認める。主人公はそのことを喜ぶと同時に、こうした喜びはもう訪れないだろうという自覚に苦しむ。

そうした記憶のほとんどを忘れて成長した冬のある日、寒いからといって母がたまたますすめてくれた紅茶を一口飲み、菓子マドレーヌを食べた瞬間に、その味覚が、無意識のうちに幼い頃にコンブレーの叔母の部屋で飲んだ紅茶とマドレーヌの味覚につながり、過去の膨大な記憶がよみがえる。それを、プルーストは次のように美しく表現している。『失われた時を求めて』のなかでも、非常に有名な一節だ。

陶磁器のお椀に水を満たし、そこに小さな紙片をいくつか浸すと、「紙片はたちまち伸び広がり、ねじれて、色がつき、互いに異なって、誰も見てもわかるしっかりしたかたちの花や家や人物になる」(「スワン家のほうへ」Ⅰ、122頁)という遊び(プルーストによれば、それは日本風の遊び)のようで、主人公の家や「スワンの家の庭に咲くあらゆる花が、ヴィヴォンヌ川の睡蓮が、善良な村人たちが、彼らの小さな住まいが、教会が、コンブレー全体とその周辺がーーそうしたすべてが形をなし、鞏固なものとなって、町も庭もともに、私の一杯の紅茶から出てきた。」(「スワン家のほうへ」Ⅰ、122頁)

このあとの筋の紹介は省略するが、今回読んでみて、強く印象に残ったのは、第一篇「スワン家のほうへ」の結びだ。

「かつて知っていた場所を私たちはいとも簡単に空間世界に位置づけるが、そこだけに属しているわけではない。それは当時の私たちの生活を形作っていた、互いに隣り合うあまたの印象の中の薄い一片にすぎないのだ。何かのイメージを回想するとは、何らかの瞬間を愛惜することにほかならない。家々も、道路も、通りもみな、はかなく逃れ去ってゆく。そう、悲しいことに歳月もまた。」(「スワン家のほうへ」Ⅱ、579頁)。

プルーストを読みながら、読んでいる私も、自分なりに<失われた時>を回顧し、その意味を考えることになりそうだ。