本と植物と日常

本を読んだり、訳したり、植物に水をやったりの日々…。

現代の精神的・性的病根を抉り出したウエルベックの『素粒子』

フランスの作家ミシェル・ウエルベック(1958年生)の小説『素粒子』(1998年、野崎歓訳、ちくま文庫<2006年>)は、異なった環境で互いに面識もなく育った異父兄弟を中心にした物語。恋愛や性の面で<闘争領域>が拡大し、それによって、結果的に恋愛や性からはじきだされてしまった人間の行動を冷徹に描き、それに生物としての人類の未来をからめている。

素粒子

この作品、主役となる兄弟それぞれに関して家系や幼年期の生活についての説明はあるが、言ってみればそれは端的な<説明>であって、普通の意味での性格描写からはほど遠い。というか、ウエルベックは、物語である以上登場人物の生い立ちについての最低限の説明は必要だが、彼らの性格描写や心理的な絡み合いは作品に不要と考えているのではないだろうか。このため、読んでいてとてもドライな印象を受ける。

さて作品を少し具体的にみてみよう。

1928年に生まれたジャニーヌは、美貌と知性に恵まれ奔放な生活と男性関係に生きるが、その関係から生まれた二人の子供を育てることにはまったく関心を示さない。異なる父親から生まれた子供たちは、母親の愛情を知らないまま、それぞれの祖父母に育てられて成長する。弟ミシェルは天才的な生化学者になり、兄ブリュノは高校教師になる。彼らは性格も社会的な地位もほとんど正反対の人物として描かれる。

作品の冒頭で紹介され、普通に考えれば物語の主人公であるミシェルは国立研究所に勤め社会的にはめぐまれているが、性的なことには関心がなく、孤独な生活を送って、それを厭わない。

「本書は何よりもまず一人の男の物語である。男は人生の大部分を、二十世紀後半の西欧で生きた。ほとんどいつも孤独だったが、ときには他の人間と関係を持つこともあった。男の生きた時代は不幸で、混乱した時代だった。男を生んだ国はゆっくりと、しかしあらがいがたく中貧国の経済レベルに転落していった。彼の世代の人間は、たえず貧困に脅かされ、そのうえ孤独と苦々しさを抱えて人生を過ごさねばならなかった。」(本書9頁<プロローグ>)。

――なので、主人公といっても、彼のまわりでは、波乱を呼ぶような出来事はほとんど起こらない。

一方、異父兄ブリュノは、前作『闘争領域の拡大』のティスランのイメージを引きずった性格設定で、結婚歴はあるが、その結婚と性生活に満足できず離婚して、フリーセックスに救いを求めている。しかし強い短小コンプレックスをもち、相手に嫌われるという強迫観念を抱いているため、フリーセックスといってもほとんどうまくいかない。

登場人物の性格描写が希薄なかわりに目立つのは、ブリュノがかかわるヌーディストの集団や見知らぬ相手との行きずりのセックスの詳細な描写で、『素粒子』出版後の大評判も、通常の小説では描かれないフリーセックスの極致のようなさまざまな男女の出会いを描いたことによるところが大きかったのではないだろうか。

さてブリュノは、「変革の場」という社会のしがらみから解放されて、思い切りセックスできるキャンプ場でクリスチヤーヌという理想的なセックス・パートナーと出会い、共同生活を始めようとするが、それもつかの間、彼女は半身不随になり死んでしまう(おそらく自殺)。葬儀の後、ブリュノが向かう先は精神クリニックしかない。

このブリュノの話の後に、言わばエピローグとして、研究所を退所したミシェルの短いエピソードが続く。

そして作品そのものは、現代を一気に飛び越えて、遺伝子操作による人類の未来(新人類の誕生)を見通して終わる。

まとまりの良い作品とは少しも言えないが、現代社会がかかえる精神的・性的な深い病根を鋭くえぐり出している。