本と植物と日常

本を読んだり、訳したり、植物に水をやったりの日々…。

コドノリザ・コリンボサが開花

南アフリカのアヤメ科球根植物、コドノリザ・コリンボサ(Codonorhiza corymbosa)が開花した。細長い葉のつけ根から花茎が分化し、その先に青紫の小さな花が房状についている。草丈は約15cm。個々の花は直径2cmほどで、6枚の花弁が星形に広がる。花弁の内側には白い斑が入ってアクセントになっている。花は陽がさすと開き、暗くなると閉じる。 

青紫の花が美しいコドノリザ・コリンボサ

コドノリザ属はかつてはラペイロウジア(Lapeirousia)属に含まれていたが、2015年に別の属にすることが提案された。コドノリザ属の特徴は球根が釣鐘型でその基部が平らということだが、花茎のつきかたも、私が栽培しているラペイロウジアとは異なる。

なお、「コリンボサ」という種小名は「房状花」という意味。自生地は南西ケープ。

寒さにやや弱いというので、屋内で冬越しさせた。

 

青い花と白い花だけの幻想的な家

寓居のまわりはいわゆる庭付き一戸建ての家が多いのだが、そのなかにとても気になる家が一軒ある。垣根にツルバラが茂っていてなかは見えないのだが、玄関にも植物があふれている。それが、青い花と白い花ばかりで、なんだかそこだけ幻想の世界のような気がするのだ。オーナーのこだわりが強く感じられて、いったいどんな方が住んでいるのだろうと、いつも気になっていた。

青い花と白い花ばかりで幻想的な家

先日の早朝その家の前を通りかかったら、たまたまオーナーが庭の手入れをしていたので、「素敵なお庭ですね」と挨拶したら、「中もご覧になりませんか」と、生け垣のなかを見せてくれた。それがやはり、青い花と白い花ばかりで、しかも、花壇のように整然と植えてあるのではなく、こぼれ種からかってに生えてきたように植えてある。ものすごくこだわって手入れしているにもかかわらず何も手入れせず放りっぱなしのように見せかけているところに、とても感激してしまった。

近所の方に分けていただいた花をかざってしあわせな気分

そして私が「すばらしい! すばらしい!」を連発したら、「お好きな花があったらおもちになりませんか」と、その場で、シラーやバラを切り分けてくれた。それを部屋に飾って、幸せな気分を味わっている。

本然の姿とは?ーー森敦『月山』を読む

森敦(1912年<明治45年>~89年<平成元年>)の『月山』(1974年<昭和49年>、河出書房新社)を読んだ。1951年<昭和26年>)に森が山形県の月山で一冬過ごした体験にもとづく作品集で、同年の芥川賞受賞作。このとき森は62歳で、62歳での芥川賞受賞は、当時高齢受賞の新記録だった。芥川賞受賞といっても、その後忘れられていく作品・作家が多い中で、森の『月山』は刊行後約半世紀たっても一定の評価を得ているのではないかとおもうが、私からすると、とても読みにくい・分かりにくい作品だった。

月山は臥した牛の背ような形をしているという

その理由ははっきりしている。「月山」全体の叙述は、私情をほとんどはさまない細やかなリアリズムに徹しているのだが、それがいつのことなのか、そもそも「わたし」がなぜ月山で一冬過ごしたのかといった背景の事情が何も描かれていないために、登場人物の心理や因果関係を重視する私のような読み方では、作品のなかに入っていけないのだ。

入山・越冬の背景などは、森の講演録『十二夜 月山注連寺にて』(実業之日本社、1987年)と養女・森富子が書いた『森敦との対話』(集英社、2004年)を読んでようやく分かったのだが、山形県庄内地方出身である森の妻が入院して独居していたとき、妻の母親が「いい経験だから」と勧めてくれたらしい。しかし「わたし」が月山の注連寺に滞在してしたことといえば、寒さをしのぐために古い祈祷簿を糊で張り合わせて蚊帳をつくったということぐらいで、あとは完全に受け身に徹している。このように、主人公がほとんど何も行動しないということも、私には分かりづらい。

さて『月山』は、中編小説「月山」と短編小説「天沼」の2作品で構成されている。

「月山」執筆中、森は傍らにいた森富子に「地形に物語があるし、地形で物語が作られると思っている。地形を描きたいんだなあ」ともらしていたという(森富子『森敦との対話』268頁)。たしかに「月山」は、地形についての話で始まる。曰く、「(月山は)臥した牛の背のように悠揚として空に曳くながい稜線から、雪崩れるごとくその山腹を平野に落としている。すなわち、月山は月山とよばれるゆえんを知ろうとする者にはその本然の姿を見せず、本然の姿を見ようとする者には月山と呼ばれるゆえんを語ろうとしない」(『月山』8頁)。こうした観念が、小説「月山」を構成する核なのではないかともおもうが、それを説得力をもって伝えるためには、観念を観念として示すよりも、そうした観念を生じさせた事象の積み重ねを細かく描写することに徹した方がよかったのではないだろうか。

結局、小説「月山」は、森敦の分身である「わたし」の眼をとおして、雪に閉ざされた月山の山奥に住む人々(寺男、一人暮らしの若い女寺男の幼馴染の老人、老女たち)の生き方、暮らしぶりを描いたということになるだろう。しかし「わたし」の眼というフィルターがかかっているにもかかわらず、その「わたし」のことがもやもやして何も分からないので、私にとっては、「本然の姿」がどこまでいってもあいまいなままだった。

作品集としての『月山』に収載されている「天沼」に関しては、地元の古老に導かれて雪のなかを月山連峰の小峰・天沼山に登っていくエピソードだけなので、引き締まっていておもしろく読めた。

 

自分でクリームを泡立ててケーキを食べる

本日は、買ったばかりのミニ五徳があるだけでなく休みで時間もたっぷりあるので、夕食後、エスプレッソ・コーヒーを淹れながら自分でクリームを泡立て、フレッシュクリームをいっぱいそえたフルーツケーキを食べた。これまでエスプレッソを淹れるときは、抽出器が倒れてコーヒーがこぼれてしまうのではないかと心配で抽出器につきっきりだったのだが、ミニ五徳があると、コーヒーを淹れながら安心してクリームが泡立てられる。

自分でクリームを泡立ててみました

ゆっくりやったらクリームもしっかり泡立ち、クリームとフルーツケーキとほろ苦いエスプレッソ・コーヒーの組み合わせが絶妙だった。

ケーキ、クリーム、エスプレッソのコンビが絶妙!?

 

ラケナリア・コンタミナータが開花

南アフリカの球根植物ラケナリア・コンタミナータ(Lachenalia contaminata)が少しずつ咲き始めた。南アフリカケープタウン近郊の海岸や内陸部の比較的広い地域に自生しているキジカクシ科の植物だ。花は白で先端が褐色がかった紫色。草丈は約15cm。葉は細長く1個の球根に多数つく。

ヨーロッパで18世紀から知られていたラケナリア・コンタミナータ

自生地が広いため、ヨーロッパでは18世紀の初めから知られ、栽培されていた。種小名は「辱められた」という形容詞だが、由来は不明。

同僚から仕事を辞めるというメール

連休だというのに、今日もまた冷たい雨になってしまった。遅い朝食をとってぼんやりしていたら、渋谷区の職場から一緒に新宿区の現在の職場に異動した友達から、明日で仕事を辞めるというメールが入った。

新宿で仕事をしている同僚が明日で退職

以前の記事にも書いたように、私は一昨年の7月から渋谷区でアルバイトを始めたのだが、去年の秋、勤務先からその仕事が3月いっぱいでなくなるという通告を受け、私を含めて同僚はみな仕事探しを始めることになった。

暮れに、新宿区に2月から勤務できる新しい仕事があると紹介され、仕事の内容が今一つはっきりしなかったが、新宿ならば通勤不可能ではないので、とりあえずという感じで私もその仕事に応募した。しかしみな考えることは同じで、いざ蓋を開けてみると応募者があまりにも多く、どうせダメだろうとあきらめていたら、幸か不幸か私は採用され、2月から今の職場に通うことになった。この時点で渋谷区の職場には、次の仕事がまだ決まっていない人が約100人いて、新宿の職場に採用が決まった私たちは、残る人たちからうらやましがられながら異動したのだった。

しかし実際に新宿の新しい職場で仕事をしてみると、所属する会社は同じでも、勤務内容がかなり違う。私を含めて一緒に異動した同僚はみな、違和感を感じながら仕事をすることになった。私にしても、現在の仕事に満足しているわけではない。ただ、次に安定した仕事がすぐ見つかるかを考えると不安があるので仕事を続けている感じだ。

ということで、渋谷から新宿に異動した同僚は8人いたのだが、2月からの3カ月で3人辞めて5人になってしまった。

私もいつまで続くことやら…。

森敦の講演録『十二夜 月山注連寺にて』を読む

森敦(1912年<明治45年>~89年<平成元年>)の講演録(実業之日本社、1987年)を読んだ。この本は、森敦の晩年に、芥川賞受賞作『月山』の舞台となった山形県庄内地方の寺・注連寺で行った連続講演の記録。小説『月山』には、主人公の生い立ちやなぜ月山で一冬過ごしたのかといった経緯がまったく書かれていないのだが、この講演は、森の誕生、少年・青年時代、戦中時代を振り返って語るもので、小説『月山』の背景を知るうえで役に立つ。

森敦が小説『月山』の舞台、注連寺で語った講演録

具体的には、5歳~18歳までを過ごしたソウルでの少年時代、一浪を経て19歳で入学した一高の思い出(20歳で退学)が中心。なかでも、当時の一高の雰囲気の描写は単純におもしろい。たとえばトイレの落書の話では、「猥褻がかったものは一切なく、互いに匿名で論戦」(本書138頁)していたという。そして「人間とは妙なもので、いったんその便所のどこかにはいると、次には必ずそこにはいります。(笑)わたしもそうでしたから、次にはいったときにはちゃんとその答えた唯心論に唯物論を以て、反撃しています。かくて論戦が延々と続き、それが生なかなものでないのです」(同)という具合だ。

ところで、森が一高を退学したのは、横光利一と知り合って文学を志したからだが、その退学宣言は「デカダンスとダンディズムに裏打ちされ、みなを軽蔑し切った、いまからすると、よくまああんなことが言えたと思われるようなもの」(本書177頁)だったという。またこの「デカダンスとダンディズム」については、「ダンディズムは洒落、デカダンスは退廃ということです。近世芸術のよるところになったものですが、要するにダンディズムは『恰好いい』ということ、デカダンスは『どうなとなりやがれ』ということ」(本書185頁)と、自分で解説している。一高に入学してから、これを「みずからを正当化し、他を冷笑する武器としていた」(同)という。

その後、徴兵検査にはねられ、縁あって奈良・東大寺に寄宿し、ふと思い立って樺太を訪問し、その後奈良に戻り、それから光学会社に就職して終戦を迎えるところまでが語られる。一高を退学した時点で、その後の森の放浪続きの人生が定められていたようにも感じられる。

講演の最後は、『論語』の「未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん」という言葉や空海の言葉についての森の解釈があり、生死一如の概念が論理計算で説明されるが、この部分は正直言って分かりにくかった。生死の問題は、論理式だけで説明できるものなのだろうか。

森敦の生い立ちを読んでとても意外だったのは、彼は映画評論家・飯島正と面識があり、飯島正横光利一への紹介状を書いてくれたというエピソード(本書165頁)。

この講演のなかで飯島正についてはあまり詳しくふれられていないが、森にプルーストジョイスを勧めてくれたのは飯島だったということだ。

私がなぜこのエピソードが気になったかというと、実は高校時代、私が映画を見始めたころに惹かれて尊敬していたのが、飯島正だったからだ。月山や庄内という地理的な要素よりも、この事実が、森に対する私の距離をぐんと縮めてくれた。