森敦(1912年<明治45年>~89年<平成元年>)の講演録(実業之日本社、1987年)を読んだ。この本は、森敦の晩年に、芥川賞受賞作『月山』の舞台となった山形県庄内地方の寺・注連寺で行った連続講演の記録。小説『月山』には、主人公の生い立ちやなぜ月山で一冬過ごしたのかといった経緯がまったく書かれていないのだが、この講演は、森の誕生、少年・青年時代、戦中時代を振り返って語るもので、小説『月山』の背景を知るうえで役に立つ。
具体的には、5歳~18歳までを過ごしたソウルでの少年時代、一浪を経て19歳で入学した一高の思い出(20歳で退学)が中心。なかでも、当時の一高の雰囲気の描写は単純におもしろい。たとえばトイレの落書の話では、「猥褻がかったものは一切なく、互いに匿名で論戦」(本書138頁)していたという。そして「人間とは妙なもので、いったんその便所のどこかにはいると、次には必ずそこにはいります。(笑)わたしもそうでしたから、次にはいったときにはちゃんとその答えた唯心論に唯物論を以て、反撃しています。かくて論戦が延々と続き、それが生なかなものでないのです」(同)という具合だ。
ところで、森が一高を退学したのは、横光利一と知り合って文学を志したからだが、その退学宣言は「デカダンスとダンディズムに裏打ちされ、みなを軽蔑し切った、いまからすると、よくまああんなことが言えたと思われるようなもの」(本書177頁)だったという。またこの「デカダンスとダンディズム」については、「ダンディズムは洒落、デカダンスは退廃ということです。近世芸術のよるところになったものですが、要するにダンディズムは『恰好いい』ということ、デカダンスは『どうなとなりやがれ』ということ」(本書185頁)と、自分で解説している。一高に入学してから、これを「みずからを正当化し、他を冷笑する武器としていた」(同)という。
その後、徴兵検査にはねられ、縁あって奈良・東大寺に寄宿し、ふと思い立って樺太を訪問し、その後奈良に戻り、それから光学会社に就職して終戦を迎えるところまでが語られる。一高を退学した時点で、その後の森の放浪続きの人生が定められていたようにも感じられる。
講演の最後は、『論語』の「未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん」という言葉や空海の言葉についての森の解釈があり、生死一如の概念が論理計算で説明されるが、この部分は正直言って分かりにくかった。生死の問題は、論理式だけで説明できるものなのだろうか。
森敦の生い立ちを読んでとても意外だったのは、彼は映画評論家・飯島正と面識があり、飯島正が横光利一への紹介状を書いてくれたというエピソード(本書165頁)。
この講演のなかで飯島正についてはあまり詳しくふれられていないが、森にプルーストやジョイスを勧めてくれたのは飯島だったということだ。
私がなぜこのエピソードが気になったかというと、実は高校時代、私が映画を見始めたころに惹かれて尊敬していたのが、飯島正だったからだ。月山や庄内という地理的な要素よりも、この事実が、森に対する私の距離をぐんと縮めてくれた。