森敦(1912年<明治45年>~89年<平成元年>)の『月山』(1974年<昭和49年>、河出書房新社)を読んだ。1951年<昭和26年>)に森が山形県の月山で一冬過ごした体験にもとづく作品集で、同年の芥川賞受賞作。このとき森は62歳で、62歳での芥川賞受賞は、当時高齢受賞の新記録だった。芥川賞受賞といっても、その後忘れられていく作品・作家が多い中で、森の『月山』は刊行後約半世紀たっても一定の評価を得ているのではないかとおもうが、私からすると、とても読みにくい・分かりにくい作品だった。
その理由ははっきりしている。「月山」全体の叙述は、私情をほとんどはさまない細やかなリアリズムに徹しているのだが、それがいつのことなのか、そもそも「わたし」がなぜ月山で一冬過ごしたのかといった背景の事情が何も描かれていないために、登場人物の心理や因果関係を重視する私のような読み方では、作品のなかに入っていけないのだ。
入山・越冬の背景などは、森の講演録『十二夜 月山注連寺にて』(実業之日本社、1987年)と養女・森富子が書いた『森敦との対話』(集英社、2004年)を読んでようやく分かったのだが、山形県庄内地方出身である森の妻が入院して独居していたとき、妻の母親が「いい経験だから」と勧めてくれたらしい。しかし「わたし」が月山の注連寺に滞在してしたことといえば、寒さをしのぐために古い祈祷簿を糊で張り合わせて蚊帳をつくったということぐらいで、あとは完全に受け身に徹している。このように、主人公がほとんど何も行動しないということも、私には分かりづらい。
さて『月山』は、中編小説「月山」と短編小説「天沼」の2作品で構成されている。
「月山」執筆中、森は傍らにいた森富子に「地形に物語があるし、地形で物語が作られると思っている。地形を描きたいんだなあ」ともらしていたという(森富子『森敦との対話』268頁)。たしかに「月山」は、地形についての話で始まる。曰く、「(月山は)臥した牛の背のように悠揚として空に曳くながい稜線から、雪崩れるごとくその山腹を平野に落としている。すなわち、月山は月山とよばれるゆえんを知ろうとする者にはその本然の姿を見せず、本然の姿を見ようとする者には月山と呼ばれるゆえんを語ろうとしない」(『月山』8頁)。こうした観念が、小説「月山」を構成する核なのではないかともおもうが、それを説得力をもって伝えるためには、観念を観念として示すよりも、そうした観念を生じさせた事象の積み重ねを細かく描写することに徹した方がよかったのではないだろうか。
結局、小説「月山」は、森敦の分身である「わたし」の眼をとおして、雪に閉ざされた月山の山奥に住む人々(寺男、一人暮らしの若い女、寺男の幼馴染の老人、老女たち)の生き方、暮らしぶりを描いたということになるだろう。しかし「わたし」の眼というフィルターがかかっているにもかかわらず、その「わたし」のことがもやもやして何も分からないので、私にとっては、「本然の姿」がどこまでいってもあいまいなままだった。
作品集としての『月山』に収載されている「天沼」に関しては、地元の古老に導かれて雪のなかを月山連峰の小峰・天沼山に登っていくエピソードだけなので、引き締まっていておもしろく読めた。