本と植物と日常

本を読んだり、訳したり、植物に水をやったりの日々…。

ポリクセナが開花

f:id:helvetius:20201115074717j:plain

地表すれすれに固まって咲くポリクセナ


ポリクセナ・エンシフォリア(Polyxena ensifolia)が咲いた。南アフリカのケープ地方に自生しているキジカクシ科の球根植物。9月に水やりを開始すると、ヒガンバナ科の幾つかの植物と同様にすぐに芽を出して10月~11月に開花する。草丈は15cm~20cmほどで、写真のように、花はやや幅広い2枚の葉の間に固まって咲く。花色は白とピンクがあり、私は両方育てているが、今回先に咲いたのは白花タイプ。

ポリクセナ属は分類が複雑で、これまで数種で独立した小さな属として扱われてきたが、近年、ラケナリア属の一種という分類が有力になってきている。ただし、一般的なラケナリアが、大半のキジカクシ科植物と同じように穂のような花茎に花がつくのに対し、ポリクセナは花茎があまり伸びず、地表近くに固まって咲いているように見えるという特徴がある。秋咲きという成育サイクルも、ポリクセナの特徴の一つ(ラケナリアの大半は春咲きで、葉が十分に成長してから、葉が集めたエネルギーで花が咲く)。

「エンシフォリア」という種小名は葉が剣のような形をしていることによる。なお、Polyxenaの日本語表記は「ポリキセナ」とされることが多いが、私は、ラテン語の発音に近い「ポリクセナ」で呼んでいる。

ネリネの一番花が開花

f:id:helvetius:20201114151708j:plain

南アフリカ原産のヒガンバナ科植物ネリネ(Nerine)の一番花が咲いた。毎年、秋の花の乏しい時期に咲くので私はネリネを3種類育てているが、今回咲いたのはサーモンピンクの園芸品種。集合花で日本に自生しているヒガンバナと似ているが、雄蕊はもっと短く、花びらもそり返らない。この品種は球根が分球して増えることはないが、毎年元気に咲いてくれている。

ヘミングウェイ『日はまた昇る』を読む

f:id:helvetius:20201108085551j:plain

登場人物たちが生き生きと動いているように感じられた『日はまた昇る


一連のフォークナー作品に続いて、ヘミングウェイの『日はまた昇る』(高見浩訳、新潮文庫)を読んだ。この作品は数年前に一度読んでおり、今回が再読。

ウィリアム・フォークナーが1897年生まれ(1962年没)、アーネスト・ヘミングウェイが1899年生まれ(1961年没)で、ほぼ同世代の作家だ。ちなみにジョン・スタインベックは1902年生まれ(1968年没)。ヘミングウェイが『日はまた昇る』を発表しセンセーションを巻き起こしたのが1926年、同じ年フォークナーは処女作『兵士の報酬』を書き上げている。

前置きはさておき、フォークナーの観念的で晦渋な作品を読んだあとに『日はまた昇る』を読んだためか、読みながら、「ああ、やっぱりこれが自分にぴったりの作品だなあ」という感が強かった。どこがおもしろいかというと、主観的な判断かもしれないが、主人公のジェイクをはじめとする登場人物たちがいきいきしており、かれらの会話や行動が自律的に進んでいくように感じられるのだ。

高見浩の訳者解説によれば、ヘミングウェイは、友人たちと過ごしたスペイン・パンプローナのフィエスタでの出来事に想を得て作品を書き始め、その後、スペインに出かける前のパリでのやりとり(第一部)を書き加えたということだが、私からすると、このパリでのエピソードがとてもおもしろい。

ともかく、作品全体をとおして、登場人物たちがどのように影響をおよぼし合い、次にどのような行動をとるかが余談を許さず、それへの関心で読み進んでいくことができるのだが、それは『日はまた昇る』の成功後「ロースト・ゼネレーション」と呼ばれるようになる若者たちの行動が支離滅裂だからではなく、やはりヘミングウェイの描き方が巧みだからだとおもう。

ただし、後半のブレットと闘牛士のエピソードはやや紋切り型の感じがした。

近所のウィーン菓子の店に初訪問

f:id:helvetius:20201103165906j:plain

しゃれたたたずまいのリリエンベルクとお客の行列


本日は文化の日でアルバイトが休み。のんびり起きて、新居の近くにある有名なウィーン菓子の店リリエンベルクに行ってきた。リリエンベルク訪問は初めてなので、場所が分かるかすこし不安だったが、寓居から自転車で5分ほどの距離で迷わずに行くことができた。さて店の近くまで行くと、客の行列にまずびっくり。誘導員の話によれば、それでも今日は行列が短い方なのだという。ちなみに、ウィーン風のケーキというと、まずはザッハトルテを思い浮かべる人が多いとおもうが、私はチョコレートケーキが苦手なので敬遠。待つことしばし。なんとか、アプフェルシュトゥルーデル(オーストリア風のアップルパイ)、シュークリーム、焼き菓子を買うことができた。どんな味か楽しみだ。

緑色の原種水仙が開花

f:id:helvetius:20201027222234j:plain

野趣がある緑色の原種水仙 Narcissus viridiflorus


緑色の原種水仙が咲いた。学名はNarcissus viridiflorusで、イベリア半島(スペイン)南部から北アフリカのモロッコにかけて自生。晩春に休眠し、毎年9月に水やりを再開すると秋に開花する。地味な花だが、野趣があって好きな植物。花の中心部に小さな副花冠があり、形はきちんと水仙独自の形になっている。また花があまり目立たないのを補うように、香りはとても強く、その香りで昆虫を引き付けるのだろう。繁殖力も強く、球根1個から栽培を始めて、分球でだいぶ増えた。さらに増やすため、今日、人工授粉も試してみた。

親しい人の墓参りで下田に行く

f:id:helvetius:20201025072625j:plain

一昨年亡くなった女優Eさんの墓参りで下田を訪問


昨日は、一昨年の10月27日に亡くなった女優Eさんの墓参りで下田に行ってきた。

知人を介してEさんを知ったのはかなり前だが、先方が女優ということもあり、顔見知りという以上に距離を縮めることを、私はずっと避けてきた。それがあるとき、「女優というのはいったいどういうことを考えて生きているのだろう」かと興味がわいて知人とともに彼女の自宅を訪問させていただき、それからは、ともに世田谷区に住んでいて互いの自宅が近いということもあり、親しくつき合わせていただいた。芝居やコンサートにもしばしば同行し、それが済むと一緒に食事をするということが重なり、親密度が増した。最後の数年は、免許を返上した彼女のために身の回りの細かな買い物をして、そのあと彼女の家で食事をするというのがお決まりコースのようになっていた。

下田のお墓も、一昨年のGWに母の墓参りをしたいという彼女の希望に合わせて二人だけで訪問し、「来年もまた来ようね」と約束していたのだが、それが彼女自身の納骨のために再来訪するようになるとは、まったく考えていなかった。

さて一昨年の秋は、彼女も私も仕事で忙しく、それが一段落したらまたゆっくり会おうねと約束したのが最後になった。ラジオドラマの収録を終えた彼女は、これからまたがんばらなくてはとジムに行ってトレーニングし、結果的にはそれが負担になって収録後1週間もたたないうちに急逝した。

最後の数年間は、女優とファンというような感じではなくほんとうに親密な付き合いだったので、Eさんが亡くなって、本音で話ができる人間がほんとうに少なくなってしまった。

宿命論的でダイナミックさに欠けるフォークナー

f:id:helvetius:20201017140208j:plain

独自手法でアメリカ南部の深層を掘り下げたフォークナー作品


7月から9月にかけて、アメリカの文学者ウィリアム・フォークナー(1897年~1962年)の中編・長編小説を集中的に7冊読んだので、その感想をまとめておく。

まず読んだ作品は次のとおり(発表年代順)。

『サートリス』(1929年)

響きと怒り』(1929年)

死の床に横たわりて』(1930年)

サンクチュアリ』(1931年)

八月の光』(1932年)

アブサロム、アブサロム!』(1936年)

『自動車泥棒』(1962年)

以上の7作に共通するのは、まずすべてがミシシッピー州のヨクナパトーファ郡という架空の土地を舞台にしており、登場人物たちも幾つかの作品で重なっているということ。この手法によって、南北戦争以降のアメリカ南部が抱えていた文化的・経済的問題点が多角的・重層的に掘り下げられる。

次に大半の作品が、複数の登場人物の意識(視点)から語られるということ。これも、フォークナー作品の重層性を増している。

ただし、作品の語り手を特定の人物に固定しないというフォークナーの手法に関しては、個人的には賛同できない部分がある。というのも、フォークナー作品は、さまざまな視点を統合しながら一つの事実に迫るという、一種の謎解きになってしまうきらいがあるようにおもわれるからだ。まあ、この点をしてフォークナーの語りの見事さとする評があることは認めるが、私からすると、物語の落としどころ(結末)があらかじめ決まっていて、その手のうちを明かさないために、叙述を意図的に混乱させているように感じられる。さしずめ、最後の作品『自動車泥棒』などはその典型といえるだろう。だから、結末でびっくりすると言えば言えるが、作品の最初に提示された問題点からの発展があまり感じられないのだ。『死の床に横たわりて』の結末にも、それは言えるだろう。

登場人物そのものも、大半は一定のパターンに添って動くだけで、作品のなかで何か、あるいは誰かの影響を受けて行動を変えるということがほとんどない。

八月の光』のリーナやジョー・クリスマスがその典型的な例だとおもうが、リーナは自分を妊娠させ棄てたルーカス・バーチの実像や献身的なバイロン・バンチに触れてもバーチを追うことをやめないし、クリスマスは幼児体験に縛られて自律的な行動をすることができない。『アブサロム、アブサロム!』のトマス・サトペンも、貧乏白人として生まれて差別され、その境遇から抜け出すためにさまざまな行動をとるが、それらはすべて若い頃に描いた富裕になり(白人の)立派な子孫を残すという憧憬から一歩も出ない。(ついでに言えば、『響きと怒り』の冒頭部分の語り手ベンジャミンは白痴で、自律的な行動をとることはできない。)

結局、フォークナー作品を支配しているのは、宿命論、あるいは一種の決定論とおもわれ、異なった背景・性格をもった人物が作品のなかでぶつかりあり、互いに影響をおよぼし合ったり変わったりしていくという意味でのドラマ性はほとんどない。

これはこれで小説の一つの手法なのかもしれないが、私にはフォークナー作品はあまりにも図式的で、ダイナミックさにかけるという気がしてならない。