本と植物と日常

本を読んだり、訳したり、植物に水をやったりの日々…。

3度目の引越し

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三度目の正直?

9月中旬に東京から川崎に転居した。ここ1年間で3回目の転居だ。1年で3回も転居すると、なんだかいつも引越し中のような気がして落ち着かない(笑)。

私はもともと世田谷区経堂の賃貸テラスハウスに約8年間住んでいて、そこがとても気に入っていたのだが、その建物を取り壊すというので、昨年8月に1回目の引越しをした。引越しを機に広くて安い物件を探したのだが、なかなか条件の合う物件がなく、テラスハウスの退去期限が迫るなかでの第1回目の引越しだった。

その物件は元のテラスハウスから徒歩5分ほどの距離の戸建て住宅で、ともかく引っ越してはみたもののモノが収まり切れず、新たにトランクルームまで借りたので、結局トータルの賃料が高くなるし、不便で仕方がない。条件のよい物件が見つかったらすぐにまた引越ししようと、一時しのぎのような転居だった。

そのとき世話になった不動産屋がこちらの不満を覚えていて、年明けそうそうあらためてまた物件探しが始まった。そこで見つかったのが、東京・狛江市のマンション。賃料はやや高かったが、とりあえず広さ的には私の条件を満たしているので、3月に2度目の転居を決行した。

実はそのころからコロナが広がり出してすこしヤバイ雰囲気だったのだが、コロナの影響で私の仕事先が会社をたたむことになり、収入が激減するので、入居そうそうまた転居を考えなくてはならなくなった。

今度の転居は仕事探しと同時進行で、まずは安定した仕事を見つけないと入居の交渉ができないので、仕事探しを優先させながら、新たな転居先を探した。

そこで見つかったのが川崎市麻生区の現在の住まい。都心からも最寄駅からも遠いが、その分ともかく広くて賃料が安い。不動産屋を拝み倒して交渉し、9月中旬に転居した。

新しい住まいもそれなりに不便なところはあるが、ともかく収納スペースがたくさんあるので、四苦八苦しながら毎日部屋を片付けている。

フォークナー『アブサロム、アブサロム!』を読む

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アブサロム、アブサロム!』(岩波文庫)


フォークナー(1897年~1962年)の長編小説『アブサロム、アブサロム!』(藤平育子訳<岩波文庫>)を読んだ。ミシシッピー州の架空の土地ヨクナパトーファ郡を舞台とするする長編小説としては第6作で、1936年に発表された。

物語のテーマは、ウエスト・ヴァージニア州の貧しい白人一家に生まれたトマス・サトペンが、その境遇から抜け出し新たな一族をつくり上げようとして行った努力とその崩壊を、サトペン自身ではなく、その周辺にいてサトペンの行動を見たり聞いたりした人間の証言から組み立てていくというもの。これに、サトペンがハイチで結婚して生まれた子供チャールズ・ボン、ジェファソンに移住して再婚したから生まれた子どもヘンリー・サトペンとジュディス・サトペンらの思惑や行動がからむが、それらも、チャールズやヘンリー本人ではなく、周囲の人間の報告や推測で構成される。南北戦争の時代で、南部の伝統の崩壊が通奏低音のように作品全体に響いている。

アブサロム、アブサロム!』の叙述の特徴は、訳者・藤平育子によれば、「幾重にも連なる語りの波紋こそ、語りの芸術とも呼びうる『アブサロム』の離れ技」(岩波文庫上巻、345頁<訳者解説>)ということになるが、私からすると、その「語り」が、読者が内容(テーマ)の深みを探求することを妨げているのではないかという気がしないでもない。

たとえば作品の後半は、クウェンティン・コンプソン(『響きと怒り』の登場人物)とその友人シュリーヴによるトマス・サトペンやチャールズの行動の謎解きだが、それがまるでコナン・ドイルの探偵小説のように進んでいく。さしずめ、いろいろな関係者の証言をききながら全体の物語を組み立てることができなかったコンプソンはワトソンで、関係者を誰一人知らないのにコンプソンの話から物語の全貌を組み立てていくシュリーヴはシャーロック・ホームズだ。だからこれをドイル作品のように「語りの芸術」と呼んでもいいのだが、その分、登場人物たちはカリカチュアのように一面的な行動しか行わず、作品を読みながら登場人物の思考を自分で組み立てて同化していくというおもしろさは少ない。

要するに、フォークナーは、さまざまな登場人物について、あらかじめ細かな見取り図を作成し、状況に応じてそれを小出しにしながら作品をまとめていったようにおもわれるのだが、執筆しながら登場人物のキャラクターが膨らんでいくということは少ないようにおもわれる。

フォークナーの作品を読めば読むほど、私が理想とする小説作法からはほど遠い作家という気がしてくる。

フォークナー『サートリス』を読む

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フォークナー『サートリス』(全集第4巻)


順番は逆になったが、フォークナー(1897年~1962年)が1929年に発表した長編小説第3作『サートリス』(斎藤忠利訳<フォークナー全集第4巻>)を読んだ。ミシシッピー州の架空の土地ヨクナパトーファ郡を舞台とする小説群の最初の作品だ。

物語は、ジェファソンの町で銀行を経営する名門一家サートリス家の生き残りベイヤード老人とその孫で同名のベイヤードの死を核に展開する。老ベイヤードの死は若ベイヤードが運転する車に乗車中の心臓発作による突然死。第一次大戦から帰還した若ベイヤードの死は、双子の兄弟ジョンを死なせたことの後悔から抜け出すことができず、無謀な飛行機操縦を行ってのなかば自殺的なものだ。一族には、最後に老ベイヤードの叔母ミス・ジェニーとベイヤードと結婚し男児を孕んだナーシッサ・ベンボウが残される。

よく言えば、南北戦争第一次大戦という二つの戦争を経て精神的な傷を負ったアメリカ南部の人々の叙事詩だが、描写はやや平板で、読むのに意外と時間がかかった。

フォークナーは、次作『響きと怒り』で、同じヨクナパトーファ郡を舞台にしながら叙述方法をまったく変えてしまうのだが、自分でも、『サートリス』の方法論に不満があったということだろうか。フォークナーのその後の一連の作品に登場する人物が多数登場し、彼らの関係性や背後関係を知るという意味では重要な作品なのだが…。

プロイフィスが成長

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プロイフィス・アンボイネンシス


ヒガンバナ科の植物プロイフィス・アンボイネンシス(Proiphys amboinensis)の葉がぐんぐん成長している。この植物は、ヒガンバナ科としては珍しく、タイ・インドネシアなどの東南アジアからオーストラリア北部にかけて自生。種小名のアンボイネンシスは、インドネシアのアンボン島にちなむ。

他の多くのヒガンバナ科植物と同じように、乾季を球根のまま過ごし、雨季になると開花しその後に葉を伸ばすという成育サイクルのようだが、自生地の雨季と乾季のサイクルそのものがよく分からない。一般的なイメージとして、東南アジアでは一年中降雨があるのではないかという気がするのだが、それだとおそらくこの植物は生育できないのだろう。ウィキペディアで調べてみるとクリスマス頃に開花という情報が載っているのだが、現地と日本のクリスマスの気候がまったく違うので参考にならない。結局、ネットで他の情報を検索すると、日本では初夏に開花とあり、それがこの植物の栽培に合っているのだろう。

寓居では、鉢植えのままヴェランダに放置しておいたところ、梅雨の雨が文字通り呼び水となり、発芽がはじまった。花は咲かなかったが、今年は初めての栽培なので、開花サイクルが乱れているのかもしれない。

葉の形は多くのヒガンバナ科植物と異なり丸みを帯びているが、すべて球根の付けねから出るところは、ヒガンバナ科の特徴と合致している。

来年の開花を期待して、このまましばらく葉の成長を楽しむことにしよう。

キルタンサスが開花

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キルタンサス「パッショネイト・キング」


 

 

ヒガンバナ科の植物キルタンサス(Cyrtanthus)の一種が開花した。今回開花したのは「パッショネイト・キング」という園芸品種。朱色の花弁の外側に一筋白い線が入っていて、非常に美しい。

キルタンサスは南アフリカ原産の植物だが、夏に雨が降る地域(インド洋側)と冬に雨が降る地域(大西洋側)にまたがって自生しており、雨季に合わせて生育のタイミングが異なる。このパッショネイト・キングは夏に雨が降る地域のキルタンサスの系統をひくらしく、春に芽を出して、これまで少しずつ成長してきた。アフリカの大地をおもわせる華やかな色彩をしばし楽しむことにしよう。

なお、キルタンサスという学名は「曲がった花」を意味し、多くの品種が筒状の曲がった花をつけることに由来しているが、このパッショネイト・キングは、画像で分かるようにやや上向きのラッパ状の花。葉は細長く、少し肉厚。

フォークナー『八月の光』を読む

フォークナー(1897年~1962年)の長編小説『八月の光』(加島祥造訳<新潮文庫>)を読んだ。1932年に発表された小説だ。この時期のフォークナーは、1929年の『サートリス』に続いて、次々とミシシッピー州の架空の土地ヨクナパトーファ郡を舞台とする小説を発表しているが、個人的には、『八月の光』はその頂点に位置するものではないかとおもう。

物語は、アラバマ州に住んでいた未婚の若い妊婦リーナが、失踪した恋人ルーカス・バーチを追ってジェファソンにやってくるところから始まる。ジェファソン到着直前にリーナは近郊の家の火事を見るが、この火事と火災現場での殺人事件に、失踪したバーチとその相棒ジョー・クリスマスが絡んでいることが明らかになり、ここから、物語は過去にさかのぼってクリスマスという男の話になる。『八月の光』は、実質的にこの男クリスマスの物語といってもいい。

ジョーは赤ん坊の時に孤児院の前に捨てられていた父母未詳の孤児で、それがクリスマス直前だったために「クリスマス」と命名され、5歳の時にマッケカン家の里子になる。マッケカンは厳格な長老派(スコットランドを中心とするキリスト教カルヴァン派の分派)の信者で、ジョーを長老派流に教育しようとするが、自己の内部からおこる信仰ではなく、外部から押し付けられる信仰に、彼は強く反発する。このように、ジョーは、一本気ではあるが外からの強制に反発する若者として描かれる。そのままマッケカン家で少年時代を過ごしたジョーは、思春期に娼婦に惹かれ、養父母に乱暴を働いて家出をする。ぶらぶらするうちに30歳を過ぎてジェファソンに流れ着き、そこでバーデン家という一人暮らしの女性の敷地に住み込み、バーデンと関係を結ぶようになる。このバーデンも長老派の信者で、一族にはキャルヴィンという名の者が多い(「キャルヴィン」というのは「カルヴァン」を英語風に読んだもので、故に、この名前が付けられた人物は一般的にカルヴァン派だということを示唆するのではないだろうか?)。ここでも最後に、ジョーはバーデンによる信仰の押し付けに反発して彼女を殺害する(その後バーチが放火する)。

以上のような経緯から私は、この物語を、どうしてもカルヴァン派の分派である長老派の信仰と人間の魂の救済の問題として読みたくなる。

この短い感想文で、カルヴァン派の教義について論じたり、さらにはその分派である長老派について論じることは不可能だが、私が知っているかぎりでは、カルヴァン派カトリックルター派の違いは、神の絶対性が強調され、また個々の人間を救うかどうかは神が決定するものとされ、その決定に人間がかかわることが否定される。つまり人間がつくった組織である教会には人間を救済する力がないということだ。

フォークナーは、こうした簡略な要約以上に長老派の信者たちを身近でよく知り、それ故、多くの登場人物を長老派として描いたのだとおもうが、『八月の光』を読むかぎり、長老派の信仰を肯定的にとらえていたようにはおもえない。

それと、『八月の光』の大きな問題点は、フォークナーがクリスマスを罪人と考えているかだ。つまり、クリスマスが行った殺人を裁くのであれば、殺されたバーデンとの人間関係や葛藤を描くことで十分なはずだが、彼はそうしていない。むしろ、孤児として生まれ、養家で長老派の信仰を強要され、彷徨の果てにまたしても長老派信者の女性とめぐり逢うという、一種の宿命に導かれて罪を犯す人間としてクリスマスを描いている。これは、あたかも現代のオイディプス物語のようだ。

結局、クリスマスの救済や、出産後のリーナの今後の行動という問題についてはこれからじっくり考えるしかないのだが、これは、『八月の光』によってつきつけられた大きな課題だ。

 

追記 : 藤平育子のフォークナー『アブサロム、アブサロム!』訳注によれば、「『長老派教会的な臭気』とは、長老派の運命予定説的雰囲気が否応なしに漂っていることをいう」(岩波文庫アブサロム、アブサロム!』上巻331頁)とのこと。

「線香花火」が開花

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ヒガンバナ科の植物スカドクサス・ムルティフロルス(Scadoxus multiflorus)が開花した。和名は「線香花火」で、文字通り線香花火が周囲に飛び散っているような咲き方だ。こんもりした「花」の部分で目立っているのは、実は個々の小さな花の雄蕊で、花弁は小さくあまり目立たない。

自生地は南アフリカ東部からエスワティニ(旧名スワジランド)にかけての内陸部。この地域は冬に雨が少なく、夏に雨が降るので、現地でも夏に開花する。ケープバルブと呼ばれる植物の一種だ。

寓居では、6月初めに球根を3球植え、1カ月以上なんの変化も見られなかったのだが、7月中旬に2球開花し、今、遅れていた1球の開花がはじまった。画像の葉は先に咲いた2球のもので、日本のヒガンバナと同じように、花が咲いてから葉が伸び始める。とても華やかで、ヴェランダが一気ににぎやかになった。

彼岸花とはよく言ったもので、何もないところから突然強烈な花が開くのはまるで死者がよみがえったかのような印象がある。先月逝ったY君のことを思い出しながら、鮮やかな花をながめている。