本と植物と日常

本を読んだり、訳したり、植物に水をやったりの日々…。

ヘミングウェイ『日はまた昇る』を読む

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登場人物たちが生き生きと動いているように感じられた『日はまた昇る


一連のフォークナー作品に続いて、ヘミングウェイの『日はまた昇る』(高見浩訳、新潮文庫)を読んだ。この作品は数年前に一度読んでおり、今回が再読。

ウィリアム・フォークナーが1897年生まれ(1962年没)、アーネスト・ヘミングウェイが1899年生まれ(1961年没)で、ほぼ同世代の作家だ。ちなみにジョン・スタインベックは1902年生まれ(1968年没)。ヘミングウェイが『日はまた昇る』を発表しセンセーションを巻き起こしたのが1926年、同じ年フォークナーは処女作『兵士の報酬』を書き上げている。

前置きはさておき、フォークナーの観念的で晦渋な作品を読んだあとに『日はまた昇る』を読んだためか、読みながら、「ああ、やっぱりこれが自分にぴったりの作品だなあ」という感が強かった。どこがおもしろいかというと、主観的な判断かもしれないが、主人公のジェイクをはじめとする登場人物たちがいきいきしており、かれらの会話や行動が自律的に進んでいくように感じられるのだ。

高見浩の訳者解説によれば、ヘミングウェイは、友人たちと過ごしたスペイン・パンプローナのフィエスタでの出来事に想を得て作品を書き始め、その後、スペインに出かける前のパリでのやりとり(第一部)を書き加えたということだが、私からすると、このパリでのエピソードがとてもおもしろい。

ともかく、作品全体をとおして、登場人物たちがどのように影響をおよぼし合い、次にどのような行動をとるかが余談を許さず、それへの関心で読み進んでいくことができるのだが、それは『日はまた昇る』の成功後「ロースト・ゼネレーション」と呼ばれるようになる若者たちの行動が支離滅裂だからではなく、やはりヘミングウェイの描き方が巧みだからだとおもう。

ただし、後半のブレットと闘牛士のエピソードはやや紋切り型の感じがした。