年末から読んでいた島崎藤村(明治5年<1872年>~昭和18年<1943年>)の『夜明け前』をようやく読み終えた。藤村が昭和4年から昭和10年にかけて『中央公論』に発表し、昭和7年と昭和10年に出版した長編小説だ。これは、彼が完結させた最後の小説でもある(次の作品『東方の門』は未完結)。
舞台は木曾。「木曽路はすべて山の中である」という、あまりにも有名になった一文ではじまる
作品は、木曾街道の馬籠宿の本陣(宿場を代表する公的宿所で、大名、公卿等の重要な通行客を泊めた)であった藤村の実家とそれを取り巻く人々をモデルにしている。主人公の青山半蔵のモデルは藤村の実父・島崎正樹、藤村自身も半蔵の四男・和助として登場する。執筆にあたっては、馬籠の宿役人だった大脇信興(小説のなかに伏見屋金兵衛として登場)の日記『大黒屋日記』が参照され、それに、江戸や京都で起こったさまざまな歴史的事実が背景として付け加えられる。幕末から明治の大変革期を、社会の上層部であった武士の視覚から描いたのではなく、馬籠宿を基点として、平民の視点から描いたのがこの作品の最大の功ではないだろうか。リアリズムといえばリアリズムの小説だが、半蔵らさまざまな人物の等身大の姿を描くことだけが藤村の狙いだったとはおもえない。
作品のポイントは、半蔵が平田篤胤の国学を崇拝し、それを自身の生き方の骨格としていたということにあるだろう。
篤胤の国学や回顧主義は、尊王攘夷の思想を生み出したのだが、幕末の揺れる国情のなかでの、天皇を中心とする古代的精神への憧憬は、半蔵のなかで「中世の否定」として武家政治への疑問につながっていく。こうしたなかで半蔵の友人たちは、次々に京都にのぼり政治活動に身を投じていくし、また京都で活動していた国学者が体制からの追及を逃れて木曾に逃がれてきたりもする。しかし半蔵は国学思想によって宿場の長としての自分の社会行動を変えることはほとんどなく、本陣としての日々の務めを果たしながら、どちらかといえば傍観者として大政奉還・王政復古を迎える。
ここまでの部分は非常に長いのだが(第一部全体と第二部前半)、私からすると、明治以降なかでも明治6年以降の記述(第二部第七章以降)が『夜明け前』の核心ではないかという気がする。
王政復古が実現する前まで、国学は、時代を導く原理として尊重されたが、幕末の激動のなかで開国が不可避と判断され、攘夷を棚上げしたかたちで政権交代が行われ、欧米の実利的な機械文明が日本になだれ込むと、国学的な精神主義はむしろ敬遠されていく。庄屋としての半蔵が期待したような民意重視の施策も、新政府によって抑圧される。
同時に交通制度の改革は、江戸時代から続いた宿場の制度を覆し、それに依存していた青山家の経済を崩壊させる。
時代の流れに見放された半蔵は、狂人として座敷牢に閉じ込められ、そこで死ぬ。
明治6年以降の記述は、半蔵の伝記というそれまでのスタイルを貫いてはいるものの、半蔵をとおした藤村の明治維新批判という側面が強いのではないだろうか。
『夜明け前』は、作者藤村の次のような慨嘆で結ばれる。
「旧庄屋として、また旧本陣問屋としての半蔵が生涯もすべて後方になった。すべて、すべて後方になった。ひとり彼の生涯が終を告げたばかりでなく、維新以来の明治の舞台もその十九年あたりまでを一つの過渡期として大きく廻りかけていた。人々は進歩を孕んだ昨日の保守に疲れ、保守を孕んだ昨日の進歩にも疲れた。新しい日本を求める心は漸く多くの若者の胸に萌して来たが、しかし封建時代を葬ることばかりを知って、まだまことの維新の成就する日を望むことも出来ないような不幸な薄暗さがあたりを支配していた。」
『夜明け前』は重厚な歴史小説というにとどまらず、昭和初期に明治維新の成果を批判的にとらえようとした作品として、その思想史的な価値は大きい。