本と植物と日常

本を読んだり、訳したり、植物に水をやったりの日々…。

救済がないけどおもしろい岩田泡鳴の小説

明治から大正にかけての異端児的文学者、岩野泡鳴(明治6年<1873年>~大正9年<1920年>)の小説『耽溺』(明治42年)と『毒薬を飲む女』(大正3年)を読んだ(講談社文芸文庫)。泡鳴の作品は昔から一度読んでみたかったのだが機会がなく、これが初読。

救済がないけどおもしろい『耽溺』『毒薬を飲む女』

どちらの作品も泡鳴自身をモデルにした小説家が主人公で、ジャンルでいえば「私小説」ということになる。ただ普通に自分をモデルにして書いたというだけではなく、かなり露悪的な書き方だ。文庫の後ろに泡鳴の簡単な伝記がついているのだが、彼は女性にだらしなく、家庭をもちながら次々に別の女性に手を出して、家庭関係も手を出した女性との関係もうまくまっとうできていない。では家庭外の女性が家を忘れさせるほど魅力的かというと、泡鳴はそういう書き方はしておらず、手を出した女性は変人ばかり。小説の主人公(=泡鳴)はその女性に嫌気がさしているのだが分かれることができず、かといって家庭に戻ることもできないで滅茶苦茶な生活を続けるというところをリアルに描いている。したがって作品には救済も解決もなにもないのだが、不思議とそれがおもしろい。映画にしたらけっこうウケるんじゃないかという気もする。

結局、泡鳴というひとは、自分の人生体験をもとに小説を書いた普通の意味でのリアリズム作家というより、小説を書き続けるためにあえて破天荒な人生を選んだという気がしなくもない。そういう意味では、極端な芸術中心主義者だと思う。

映画をつかって説明すると、同時代の島崎藤村(1872年<明治5年>~1943年<昭和18年>)がウィリアム・ワイラーだとすれば、泡鳴はゴダールトリュフォーのような感じで、捨てがたい魅力ある。