本と植物と日常

本を読んだり、訳したり、植物に水をやったりの日々…。

司馬遼太郎『燃えよ剣』を読む

司馬遼太郎(大正12年<1923年>~平成8年<1996年>)の『燃えよ剣』を読み終えた。言わずと知れた新選組副長・土方歳三(天保6年<1835年>~明治2年<1869年>)を主人公にして、昭和37年~同39年に発表された長編小説だ。

土方歳三の骨太な半生を描いた『燃えよ剣

幕末から明治にかけての物語ということで、直前に読んだ島崎藤村『夜明け前』と描いている時代がほぼ重なるのだが、作品の雰囲気はまったく違う。これには作家の資質の違いということもあるのだろうが、『燃えよ剣』は、最初から最後まで風雲児・土方歳三の一代記に徹しており、『夜明け前』に伏流していた江戸から明治へ時代が変わったということは何だったのかという問いかけは希薄だ。『燃えよ剣』のなかでは、時代そのものはあくまでも人物の背景に退いているように感じられる。

ただし、人物を描くといっても、その描き方はかなり類型的で、土方だけでなく、近藤勇沖田総司も、決められたパターンのなかでしか動かない。そのなかで言えば、土方に関しては、特に後半の江戸開城以降、軍神アレスの申し子のようなはたらきをし、一種の爽快感があるのは事実だ。個人的に言えば、『燃えよ剣』はおもしろくておもしろくなかったということになるだろうか。

ついでなので、『夜明け前』と『燃えよ剣』をもう少し比較してみると、『夜明け前』にはちょっとゴツゴツしていてさらっとは読めない部分がある。ではすらすら読める『燃えよ剣』の方が文学作品として優れているかというと、どうもそうは言いきれない。部分的に抵抗がある方が読みごたえがあると言えそうな気もする。

また両作品に関しては、司馬遼太郎島崎藤村が生きた時代の違い、そして作品が書かれた時代の違いもあるので、当然のことながら、それを無視しては作品を評価できないだろう。

燃えよ剣』が書かれたのは前の東京オリンピック開催を控えた高度成長期であり、司馬が土方歳三をとり上げたということには、ひたすら目的あるいは成果達成を目指して行動するという当時の社会の風潮、社会道徳に対する批判が含まれているのではないだろうか。(司馬が描く)土方歳三の生き方をみると、<男の美学>みたいなものは貫かれているが、それはけっして社会潮流に合致していない。徳川慶喜大政奉還した以上は、徳川家への忠義にもなっていない。社会的に考えれば滅茶苦茶な生き方を、個人的な信念だけが支え、最後はそれに準じて死ぬ。そうした生き方を提示することは、一種の社会批判になっているとおもうのだが、その変わり、土方歳三は他の生き方を選ぶことはできなかったのかという問題提起は行われない。なので、ややもすると、物語がストレートにぐんぐん進んでいって悲壮感や爽快感だけが伝わって終わってしまうという危険が、『燃えよ剣』にはあるのではないだろうか。

これに対して島崎藤村の方には、主人公の青山半蔵、ひいてはそのモデルとなった自分の実父・島崎正樹の傍観者的な生き方に対する疑問・不満があったのではないだろうか。しかし、そうした疑問・不満があっても、リアリズムを貫こうとすると、半蔵の生き方を変えるわけにはいかない。そうしたジレンマが筆の運びにあらわれているようにおもわれる。

ただし明治維新以降、半蔵は庄屋の自覚にもとづいて山林問題などで木曾の住民の権益を守るために行動を起こすのだが、その行動は新政府に受け入れられない。そうした半蔵の行動は、悲劇的であると同時に喜劇的でもあるのだが、このあたりになると、藤村はかなり半蔵を共感的に描いているのではないだろうか。『夜明け前』は半蔵の狂気と幽閉を描いて終わるのだが、半蔵が実際に狂ってしまったのかは、容易に判断できないものとして藤村は描いている。ここに、時代に対する藤村の批判精神が垣間見られるのではないだろうか。

結局、『燃えよ剣』と『夜明け前』は、ともに一般的な社会潮流にたいする批判を含みながら、その方向性を異にしている作品と言えそうな気がする。