本と植物と日常

本を読んだり、訳したり、植物に水をやったりの日々…。

高井有一による評伝『立原正秋』を読む

高井有一(1932年<昭和7年>~2016年<平成28年>)による小説家・立原正秋(1926年<大正15年>~1980年<昭和55年>)の評伝『立原正秋』(新潮文庫) を読んだ。

評伝にも書かれているが、高井は元々共同通信の記者で、記者をしながら小説家を志望していた。そして1964年7月に作家の本多秋五を訪ね、本多邸で立原正秋と知り合ったという。それから立原が亡くなる1980年まで16年間立原と付き合い、自分の小説についてアドバイスを受けたり、時にはちょっとしたことで仲たがいしながら交友が続いた。仲たがいすることがあっても立原の信頼は厚く、立原の評伝を書くのにもっともふさわしい人物の一人といえよう。

日本のダンディズムを生きようとした立原正秋

さて立原の評伝だが、一番問題となるのは、作品の評価そのものよりも、立原の伝記的事実といえる。評伝『立原正秋』でもそれは強く意識されており、評伝は、高井が立原の生地を訪ねた記録「生まれ在所」という章から始まる。

立原の伝記的事実が問題であるのは、生前立原は、自分は朝鮮貴族である父と日本人の母の間で朝鮮半島で生まれた混血児であり、早くして父を失い、その後母が再婚したため叔父に預けられ、母の訪日後、呼び寄せられて日本に来たとしているからだ。しかし高井の調べによれば、立原は貧しい朝鮮人の両親のもとで生まれたれっきとした朝鮮人であり、日本人の血は混じっていない。このことを私は、立原を貶めるために取り上げているわけではなく、自分の過去を偽らざるを得なかった小説家の内面にかかわる問題として取り上げたいのだ。

立原が日本に来たのは昭和12年<1937年>で、このとき立原は11歳。この時点では自分の出自や過去を詐称する必要はなかったはずだが、朝鮮人に対する差別を強く感じていたことは疑いない。終戦時は19歳。立原は鎌倉若宮大路の茶碗屋の店先で天皇の放送を聴いたという(本書109頁)。このとき彼が日本の敗戦をどのように受け止めたのか、「内心を明かした文章は遺されていない」(同)。その後立原は、22歳で日本女性と結婚し、婚家の籍に入る。このとき、そのあとは日本人として生きると決意したのだろう。そしてこの時点ですでに彼は小説を書いていた。

習作期を経てしだいに作家として認められ、『薪能』を書いて芥川賞候補となったのが、高井と出会った1964年。

無名のうちは経歴を求められることはなかっただろうが、作家として名が挙がると経歴が必要となり、このころから先に記したように、朝鮮貴族である父と日本人の母の間で生まれた混血児であると自称するようになっていった。

1965年に書かれた自伝風小説『剣ケ崎』で立原は再び芥川賞候補となったが、この小説のなかで立原の分身ともいえる主人公・次郎は朝鮮人と日本人の混血児として描かれている。そして立原は、その兄・太郎に、「あいの子が信じられるのは、美だけだ」(新潮文庫、132頁)というセリフを与える。高井は、この断言が「立原正秋が強いられた抜差しのならない生き方の反映」(『立原正秋』43頁)であり、「次郎の成し遂げた『自己解放』が、作者立原正秋の切実な願望に他ならない」(同)とする。

しかし立原は『剣ケ崎』を私小説として書いたのではないだろう。むしろ彼は私小説を嫌い、小説は作家の幻想の産物であるだと考えていたとおもわれる。1966年に彼は『白い罌粟』によって直木賞を受賞したが、その際に次のように書いている。

「一人の作家にとり、彼が是非書かなければならないのっぴきならない作品は、そうたくさんあるわけではない。(中略)私は、自分が作家である以上、年に数本、自分も気に入り、批評家からもほめられる作品をほそぼそと発表する、そのような態度はとりたくない。(中略)要は、その作家が、自分の幻想を支えることが出来るかどうか、ということである。支えられなかったら、年に一握りの私小説を書く感想家に堕落するしかないだろう。私小説というのは、純文学でもないし大衆小説でもない。それは感想文である」(『立原正秋』175~6頁)。

そうした幻想を支える美学を、立原は日本中世のなかに求めていった。立原の作品には、能、茶の湯、禅の世界が登場人物たちの精神を形成するものとしてたびたび登場するが、高井が指摘する「抜差しのならない生き方」や「切実な願望」を読み取らないと、それらの多くの小説は高尚ぶった風俗小説としか読めなくなってしまう。

立原は1979年読売新聞に『その年の冬』を連載開始し、翌年8月、この作品を完成することなく54歳で癌のため亡くなった。その早すぎる死について、高井は次のように記す。

立原正秋がもう少し生きて、あからさまな事実を受け容れるだけの心の余裕を持てたならば、彼の文学は変り、もっと自在な境地を獲得できた可能性がある。私が彼の早世を最も惜しむのは、そんな風に考えるときである」(同書55頁)

俗化していく日本人・日本文化を厭い、それから免れた稀有な日本人たちを描き、自分もその日本人像に同化しようとした立原は、己の出生をすなおに受け容れたとき、どのような幻想をつむいだことであろうか。われわれは、残された作品からその可能性を探るしかない。

なおこの本のオリジナルは1991年に刊行され、1992年に毎日芸術賞を受賞している。