先日、新宿紀伊國屋書店の哲学書関係のコーナーで『実存主義者のカフェにて 自由と存在とアプリコットカクテルを』(サラ・ベイクウェル、2016年、向井和美訳、紀伊國屋書店、2024年) という本を見つけたので、タイトルに惹かれてさっそく購入して読んでみた。内容は、サルトル、ボーヴォワール、メルロ=ポンティ、カミュといったフランスの思想家、作家たちに、彼らに強い影響を与えたフッサール、ハイデッガー、ヤスパースといったドイツの思想家、哲学者たちをからめ、第二次世界大戦をはさんだ仏独の時代状況、それをふまえたうえでの各人の思想、そして彼らの具体的な交友関係や絡み合いを、あたかもほつれた毛糸玉の糸を解きほぐすように、丁寧かつ分かりやすく描いた評伝だ。
話は、1932年から33年にかけて、パリのモンパルナス地区にあるベック・ド・ガーズというカフェバー(今もあるらしい)で、若いサルトル、ボーヴォワールとサルトルの古くからの学友レイモン・アロンが顔を合わせ、アプリコット・カクテルを飲みながら哲学談義をしていたシーンから始まる。そのときアロンは次のように言った。
「いいかい、わがいとしの友よ。もし君が現象学者だったら、このカクテルを語ってそれを哲学にすることができるんだ!」(本書10頁)
この言葉に刺激されたサルトルは、続く33年の夏、哲学(現象学)の勉強のためにナチス政権下のベルリンに旅立つ。この行動、そしてこの政治状況が、その後のサルトルの思想を決定し、また戦後のヨーロッパの思想界の動向を方向付けていく。
フランスの思想界に関する叙述では、その中心となり派手な動きが多かったサルトル、ボーヴォワールもさることながら、これまであまり知らなかったメルロ=ポンティの人柄や日常生活に関する記述がおもしろかった。彼の人柄をベイクウェルは、まずボーヴォワールの日記から紹介している。それによればメルロ=ポンティは、「透明感のある美しい顔立ち、濃くて黒い睫毛、学生らしい快活で朗らかな笑い方」(本書162頁)をした青年だった。社交的でダンスもうまく、「メルロ=ポンティに会った人はだれもが、彼から発せられた健全な光のようなものを感じた。ボーヴォワールも最初はその光に温かみを感じたという。尊敬できる人物があらわれるのを待っていた彼女にとって、メルロ=ポンティこそその相手だと思い、すぐにボーイフレンド候補とみなした。ところが彼の穏やかな物腰は、ボーヴォワールのように好戦的な女性から見ればもどかしく感じられた」(本書163~4頁)。動のサルトル、ボーヴォワールとはまさに対照的な人物であり、その人物像はそのまま彼の思想にも反映しているようだ(ちなみにメルロ=ポンティのエピソードを記すにあたって、著者のベイクウェルはメルロ=ポンティの娘マリアンヌにも取材している)。
フッサールやハイデッガーに関しては、利用できた資料が限られているためか、フランス思想界の人物たちのような生々しい描写は少ないのだが、ナチスに協力したとして批判された戦後の行動および思想に関する描写は読みごたえがあった。
ハイデッガーとナチスの関係については、1933年にフライブルク大学の総長に就任し、その際、ナチスの新しい法律遵守を受けいれ、またナチスの党員にもなったことが、端的な事実として指摘されている。「ハイデッガーは党員になり、学生や教職員の前でナチス支持の演説を何度も行っている。その間、プライベートでは哲学的思想に織り交ぜる形で、ナチ党員らしい反ユダヤ主義的な言葉をノートに書き込んでいた」(本書117頁)。このため戦後厳しく糾弾されて活動の場を狭められ、そうしたなかで<ハイデッガー後期>と呼ばれる思想を新たに形成していく。ベイクウェルによるその後期の思想の解説もおもしろいのだが、やはりひっかかるのは、ナチスに協力したことへの批判に、ハイデッガーが沈黙を貫いたことだ。彼は、この沈黙ゆえにさらなる批判にさらされるのだが、マルクス主義の哲学者マルクーゼへの質問に応える形で、次のように述べている。
「『1933年からドイツを離れていた人と意見を交わすのがいかに難しいか、あなたの手紙を読んでよく分かりました』。そして、否定の言葉を軽々しく口にしたくないのは、ナチ党の中枢にいた者の多くが1945年にこぞって謝罪し、『胸の悪くなるようなやりかた』で宗旨変えを宣言しながら、その実、なんの中身も伴っていなかったからだ、と弁明している。」(本書275頁)
続いてベイクウェルは、この態度に対するデリダの解釈を紹介する。
「もしハイデッガーがひとこと『アウシュヴィッツは途方もない悪だった。わたしはこれを強く糾弾する』というようなことを口にしていたら、どうなっただろう。人々はその言葉だけで満足し、ハイデッガーに関してはそれで一件落着となっていたに違いない。そして、それ以上は議論する機会がなくなる。そうなれば、われわれはその問題をとことん考える『義務から解放された』と感じ、謝罪を拒否したことがハイデッガー哲学にとってどんな意味を持つのかと問うのもやめてしまうだろう。(中略)ハイデッガーは沈黙を守ることで、『彼自身が考えなかったことを考える使命』をわれわれに残してくれたのだ。デリダにしてみれば、そのほうが生産的なのである。」(本書275~6頁)
ハイデッガーの真意がどこにあったかはもちろん大きな問題であるが、デリダの解釈を紹介するとき、ベイクウェルは哲学者の言葉がもつ意味を深く洞察している。
そしてベイクウェルは、次のように本書を結んでいる。
「わたし自身、実存主義者が現代社会に魔法のような解決策を与えてくれるとは思っていない。ひとりの人間としても哲学者としても、彼らは欠点だらけだ。どの哲学者の考えにも、わたしたちを不安にさせる要素が含まれている。それは、わたしたちと同じように彼らも複雑で厄介な存在だからであり、もうひとつは彼らの思想や生涯が、モラルのあいまいな暗い時代に根ざしていたからである。(中略)しかし、だからこそ、実存主義者たちの本が再読さるべきなのだ。人間という存在は難解で、愚かなふるまいもすると彼らは教えてくれるが、大きな可能性を持っていることも教えてくれる。わたしたちが忘れかけている自由や存在の問題を、彼らはたえず突きつけてくる。こちらとしては、実存主義者たちの考えを探求していけばいいのであって、彼らを立派な人物、立派な思想家として見る必要はない。彼らはおもしろい思想家であり、だからこそわたしたちにとって価値があるのだ。」(本書456~7頁)
最近読んだ本の中でも、とてもおもしろかった一冊だった。なんだかハイデッガーが読みたくなってきた。