本と植物と日常

本を読んだり、訳したり、植物に水をやったりの日々…。

ダーントン『検察官のお仕事』を読む④ーー共産主義東ドイツ

第三部の舞台は崩壊前の東ドイツだ。

東独では、表現の自由を保障する憲法によって、公的には検閲は存在しないとされていた。しかし実際には、次のようなシステムによって、出版が統制されていた。

まず組織の面では、政府の頂点である閣僚評議会の下に文化省があり、文化省のなかに、出版・書物取引総局(以下HVと略記)があった。当事者によれば、HVの主たる仕事は「文学を世に送り出すこと」(本書161頁)だった。一方で、この政府・官僚組織全体が共産党(東独の場合はドイツ社会主義統一党)によって統括されていた。

また東独の出版には<計画>という独自の制度があり、HVはその<計画>を順調に推進するための機関という位置づけだった。

出版の具体的なプロセスは次のようなものだった。まず、「ほとんどの本は著者と出版社の交渉によって準備されたものだった。1980年代の東ドイツには78の出版社があった。原則として出版社は独立した自立的組織であった。出版社は党の方針に従ってテキスト編集とリスト作成を行っていた」(本書171頁)。次に、「著者や編集者が本の構想を思いついたら、一緒に作品を仕上げて、そして出版社からクラーラ・ツェトキン通りのHVに、作品を出版社からの企画書として送り、[HVの]職員がそれをインデックスカードの短評にする」(本書171~2頁)。「一年分の資料とインデックスカードがたまると、オフィスでは計画の準備が始まる」(本書172頁)。その後、専門家の委員会を立ち上げ、<計画>の原案を作成して党の承認を待った。党には15人の強情なイデオローグで構成された文化部という組織があり、この組織が実質的に承認を決定していた。

またそこで承認されれば印刷許可がおりるが、印刷所は事実上すべて党の所有物であり、印刷許可証のない作品は受け付けなかった。

またこれだけではよく分からないが、後出のヒルビヒのように出版社とつながりがない著者や、党が言うところの<後期ブルジョワ的>な作風をもつ著者は、そもそも出版計画に取り上げられることがありえなかったのではないだろうか。古典とされる作品でも、たとえばキルケゴールの選集は計画からはずされた(本書180頁)。

いずれにしても、これが出版計画のシステムだ。

作品そのものは許可されても、出版にあたってはタブーとされる言葉がいくつかあり、たとえば「エコロジー」は公害を連想させるため受け入れられず、「批判的な」という言葉も使用禁止だった(本書177頁)。HVの職員たちは、承認された作品にそれらの言葉が入っていないか、「目を皿のようにして」チェックしたという。

そうした雁字搦めの制度のなかでも、「作家は、特に重要な『文化の生産者』であった。1950・1960年代のスターリン主義の絶頂期には、刑務所に詰め込まれたり、強制収容所での労働に従事させられることもあったが、1970・80年代になると、党はアメと鞭を使ったより柔軟な方法で作業を統制するようになった」(本書188頁)。

東独に関してはかなり多くの資料が残っているのでダーントンもいろいろな実例をあげているが、そのなかからヴォルフガング・ヒルビヒ(1941年~2007年)の例をみてみる。

「彼は一匹狼として生きた。作家同盟の一員として出世しようと努力することもなく、火夫として食い扶持を稼いでいた」(本書194頁)。手なずけるのに骨が折れるタイプだ。「そして彼は自分の詩を東ドイツの既成の文学評論誌に投稿せず、当局の許可を取らずに西ドイツで公刊した。最初の詩集『不在』が(フランクフルト・アム・マインのフィッシャー出版から1979年に)出版された後、彼は2000東ドイツ・マルクの罰金を科された。(中略)1982年までに、ヒルビヒの名は知れわたり、東側で迫害されている労働者詩人として西側で賞賛されていた。そこで東ドイツ政府は、労働者階級の擁護者という自らの名声を取り戻すべく、ヒルビヒに出版許可を与えた。しかしその次の著作『声、声』は、検閲官にとって大きな問題だった。(中略)労働者詩人ヒルビヒの詩はそのような公的路線(社会主義リアリズムのこと)になじまなかった」(本書194頁)。HV、いやその上部の文化部の狼狽が目に見えるようだ。ヒルビヒの作品は「反動的な後期ブルジョワの伝統にもとづく」ものとされ、「東ドイツ市民の日常的政治意識と彼とを結びつけるものは何もない」とまで批判される。しかし政治局員は最終的に『声、声』の出版を許可する。「東ドイツで『声、声』の出版を拒否すれば、西ドイツでこの本が出版されることは確実であり、それに伴って多くの不利な宣伝がなされることになる」(本書196頁)からだ。

このように出版が承認されるかには、政治的判断や外部の要因が作用することもあった。

こうした状況のなかで、「部外者から見ると、高官たちの間で交わされた覚書の文体は驚くほど抽象的で誇張されているように見える。これは官僚的なレトリックの慣行によってほとんど説明できる。それというのも、党の指導者はしばしば『世界観』や『党派性』といった重々しい名詞の前に『政治的・イデオロギー的』や『後期ブルジョワ的』といった形容詞を過度にまとめて使っているからである。しかし、中央委員会と文化省の検閲官は言葉を真剣に受け止め、抑圧対象の著者の言葉について命がけの真剣さで議論したのである。東ドイツの言葉は、たとえそれが外国人の耳には滑稽に聞こえるとしても、特別の響きをもっていた。たとえばベルリンの壁を『反ファシズム防壁』と呼ぶのが通例のように。」(本書198頁)。

こうしたシステムに終わりがおとずれたのは、<ベルリンの壁>が崩壊したからでしかない。