本と植物と日常

本を読んだり、訳したり、植物に水をやったりの日々…。

フォークナー『響きと怒り』を読む

ウィリアム・フォークナー(1897年~1962年)の『響きと怒り』(高橋正雄訳、講談社文庫)を読み終えた。これまでフランスをはじめとするヨーロッパの作家の小説はいろいろ読んでいるが、アメリカの作家のものはあまり読んでいないことに気づき、最近は意図的にアメリカの作家の作品を読んでいる。フォークナーを読むのはその一環だ。

さて『響きと怒り』は1929年に発表されたフォークナー初期の代表作。タイトルは「響きと怒りたっぷりに白痴に語られた何も意味しない話」という『マクベス』の言葉からきているという。著者自身が「白痴の言葉」と言っているだけあって、分かりにくいし、だいいち読みづらい。

それはさておき、作品全体からは、それ自体で完結しているというより、ワーグナーの『ラインの黄金』のように、何か巨大な物語の始まりを感じさせるプロローグのような、あるいはさらに言えば黙示録的という印象を受けた。

文体というか書き方はかなり独自のもので、高橋正雄氏の訳者解説によれば、「この作品で重要なのは、内容よりも、その表現形式なのである」あるいは「第二章のクェンティンの場合は、意識の錯乱や、夢想とも回想ともつかない混沌とした意識下の意識を現わすために、センテンスは途中で途切れたり、文章の書き出しや固有名詞の大文字を小文字にしたり、コンマやピリオドを一切はぶいて単語を一様に羅列させたりして、可能なかぎりの技巧を用いている」となる。このため、読んでいる途中で何度か挫折しそうになった(笑)。『響きと怒り』を有名にしたのは、一つはこの文体なのだろうが、この文体以外の表現方法がなかったかどうかは、私にはよく分からない。

ただ、この作品から文体の問題を省いて整理すると、物語は比較的単純で、冒頭で書いたように、物語のなかで完結しているというより、作品の背後にもっと別の物語が隠されているのではないかという印象を受ける。このため私は「黙示録的」という表現を使ったのだが、それをもう少し普通の言葉で置き換えれば、象徴的と言っていいのかもしれない。そういう意味では、第一章の話者として登場するベンジャミンという白痴の若者も、他の登場人物のお荷物的な存在として最後まで登場するものの、他者とからんだり葛藤したりはできずにそこに存在するものとして描かれているだけで、やはり何かの象徴と考えたくなる(それが何かは分からないが…)。ただし、作品のタイトルの由来を考えると、彼はやはり重要な登場人物だ。

少し視点を変えて、フォークナーと同時代のヘミングウェイ(1899年~1961年)、スタインベック(1902年~1968年)らと比べると、彼らが第一次世界大戦後の社会状況を作品内容に反映させた「ロスト・ジェネレーション」とされるのに対して、フォークナーはそれとは少し違うと分類されることが多いようだが、にもかかわらず、フォークナーの作風は、第一次世界大戦第二次世界大戦の間の表現主義シュルレアリスムの運動と通底しているようにもおもえる。