本と植物と日常

本を読んだり、訳したり、植物に水をやったりの日々…。

2種類のバビアナが発芽

9月末に水やりを始めた南アフリカに自生する小型球根植物、バビアナ(Babiana)が発芽し、すくすく成長している。わが家ではambigua とcedarbergensisの2種類のバビアナを育てているが、どちらもほとんど同時に発芽した。

ambigua(左)とcedarbergensis(右)、手前はced.の小株

バビアナの葉は、他のアヤメ科植物と少し違っていて、やや幅広い剣状で、2枚の葉が出揃うとハート型に見える。現在大半の株がまだ葉が1枚の状態だが、1株だけもう2枚目の葉も出て、ハート形に広がり始めている。またバビアナの葉は縦方向に走る葉脈が盛り上がっていてはっきり見えるのも特徴。葉の全体には、細い毛が生えている。

葉の全体に細い毛が生えている

学名は現地の言葉でヒヒ(バビアナ)が好んで球根を好んで食べることに由来する。和名は「穂咲アヤメ」。

ambigua もcedarbergensisもケープ地方の限られた地域に自生し、草丈は10cm~20cmくらいにしかならない。いずれも春先に開花。cedarbergensisからは種が採れたので19年の秋にそれも撒いておいたが、そちらからも小さな芽が出始めている。こちらの開花は再来年の春くらいだろうか。

寒蘭と春蘭に花芽ができる

今年の夏は翻訳の校正が忙しく、植物の手入れがほとんどできなかったので、庭が草ぼうぼうの感じになってしまった。現在、ホトトギスだけが元気に咲いている。

庭は草ぼうぼう、ホトトギスだけが元気に咲いている

それでも、アルバイトがオフなのでいろいろ観察していたら、気難しくてなかなか花が咲かない寒蘭と春蘭に花芽ができていた。

春蘭(左)と寒蘭(右)に花芽がついた

元々は日本の山野に自生している野生蘭なので、何も手入れせずに放っておいたのが、結果的に良かったということなのだろう。皮肉ではあるが、開花が楽しみだ。

ポーランド広報文化センターから本をいただく

東京のポーランド広報文化センターに小訳『分割されたポーランドを訪ねて』をお送りしたところ、その返礼にと、同センター所長名で『素粒子、象とピエロギとーー101語のポーランド』というユニークなポーランド紹介の本をいただいた。

ポーランドについてのユニークな紹介本『素粒子、象とピエロギと』

この本は、タイトルも変わっているのだが、ちょっと類例のないような本で、裏表紙によれば、そのコンセプトは、「ある国の本質を、わずか100語で伝えることができるでしょうか? 私たちは、できると考えます。『素粒子、象とピエロギとーー101語のポーランド』を読めば、不可思議な歴史をたどってきたこの国に、きっと恋をするでしょう」というもの。ポーランド語からアトランダムに101の単語を選んでアルファベット順に並べ、それぞれの単語にショート・エッセーをつけて、そのばらばらのエッセーからポーランドの全体像を浮かび上がらせようという試みだ。選ばれた単語は、たとえば「ハクション(Apsik)」「コウノトリ(Bocian)」「英雄(Bohater)」「建物(Budynek)」「パン(Chleb)」で、ほんとうに脈絡がない。この本からすれば、そうした単語がポーランドを知るための素粒子ということなのだろう。

しかし実際に読んでみると、それぞれのエッセーは情緒に流されず、またポーランドを美化することもない抑制されたもので、書き手の知性を感じさせる。そして一見バラバラに見える断片から、自然に、ポーランドという大きな結晶体の姿が見えてくる。

挿絵や装丁もかわいらしく、気が利いている。

宣伝臭を感じさせない優れたポーランドの紹介本だ。

https://culture.pl/jp/article/quarks-elephants-pierogi-poland-in-100-words-japanese-edition

本が完成し、お祝いの会

私の最初の翻訳作品『ポーランド問題について』(仮題)ができあがり、10月15日(土)の夕方、友人たちがお祝いの会を開いてくれた。

友人たちが出版祝をしてくれた

アルバイトをしながら、山あり谷ありでここまでこぎつけたのでとてもうれしい。

地味な内容の本で、私の活動をいろいろな人に知ってもらうということが今回の出版の一番の狙いなので、販売という意味ではあまり期待していないが、できあがった以上、いろいろな人に手に取って欲しいとおもっている。

ポーランド最後の国王の伝記が届く

小訳『ポーランド問題について』の出版間際になって、Amazon に注文していた『The Last King of Poland』(2020, Weidenfeld & Nicolson)が届いた。内容は、タイトルのとおり、ポーランド最後の国王スタニスワフ2世(1732年~98年、在位1764年~95年)の伝記。

18世紀までのポーランドは、貴族の投票で国王を選ぶ選挙王政の国家だった。スタニスワフ2世はロシアの女帝エカチェリーナ2世の元愛人で、ポーランドを属国化するために彼女によって担ぎ出された人物。このため彼には最初から国王としての権威がなく、貴族の反乱と、ロシア、プロイセンの軍事介入という大混乱を招き、しまいに国土が分割されてポーランドは消滅してしまう。その国家の終焉の当事者について詳しく記したのがこの作品だ。 

著者はポーランド系でイギリスで活動しているフリーの歴史家アダム・ザモイスキ(Adam Zamoyski)。初版は1992年で、私が入手したのはその新版。A5変形版で550頁もある、かなり分厚い労作だ。

ポーランド最後の国王・スタニスワフ2世の詳細な伝記

私の翻訳作品は第一次国家分割直後の1776年のポーランドが舞台で、スタニスワフ2世の在世中のことなので、この本のなかには、もちろん私の訳書の著者についても記されているし、よく読むと、私が訳した本からの引用も載っている。

この本によってポーランド史や翻訳についての私の大きな認識が変わることはなさそうだが、もし少し前にこの本を入手していたら、訳註や解説は少し変わっていたかもしれない。ただ、国外の本について研究したり翻訳したりしていると、こうしたタイミングのずれはどうしても出てくるので、この本に書かれていることは、次にまたポーランド関係の翻訳をするときに利用しようと思う。

著者ザモイスキの両親はポーランド貴族で、1939年、ポーランドがドイツとソビエトに分割された際に国外に逃れ、アダム・ザモイスキ自身はニューヨークで生まれたという。この作品以外にショパンの伝記なども書いており、今月『ショパン プリンス・オブ・ザ・ロマンティックス』が出版される(大西直樹、楠原祥子訳、音楽之友社)。

本ができて、毎日せっせとDM書き

このところあまりにもあわただしくてブログがまったく更新できなかったのだが、私の最初の翻訳作品『ポーランド問題について』(仮題)の製本が終わり、寓居に本が届いた。印刷部数は300部だが、それでもけっこうな量で(段ボール1箱に60冊ずつ入っている)、狭い部屋がさらに狭くなった感じだ(笑)。土曜日にうちわで前祝を行い、日曜日に発売の予定。発売までこの状態でがまんするしかない。

自分の翻訳作品がドンと届いた!?

生意気なようではあるが、内容が特殊なので売れることは最初から期待しておらず、むしろ私の翻訳活動を知ってもらうためにいろいろな人に配布するのが今回の出版の大きな目的。それでも出来上がってみると、少しでも多くの人に読んでもらいたいと欲がでてくる。このためブログ更新そっちのけで、毎日せっせとDMを書いている。

阿川弘之『米内光政』を読む

阿川弘之の『米内光政』(新潮文庫、1982年)を読んだ。昭和10年代に内閣総理大臣海軍大臣を歴任した米内光政(明治13年<1880年>~昭和23年<1948年>)の伝記だ。

この本を読んだのは、このところ数カ月『精神について』と『ポーランド問題について』の校正が続いて、他の本はまったく読んでおらず、少しくたびれてきたので、これらとまったく関係のない本を読みたいと思いながらネットをふらふらしていたら、たまたまこの本にぶつかったという、かなり安易なことがきっかけ。これまで私は阿川の本を1冊も読んだことがなく、また恥ずかしいことに米内の名前もしらなかったので(はじめずっと、ヨネウチと読むと思っていたくらい)、終戦工作に尽力した人物というが、どのような功績があったのか知りたいというくらいの軽い気持ちで読み始めた。

米内をご存知の方には改めて書くまでもないのだが、彼は、昭和12年海軍大臣に就任、昭和15年内閣総理大臣に就任、第二次世界大戦末期の昭和19年に二度目の海軍大臣に就任。戦後海軍が解体されるまで海軍大臣をつとめた。海軍大臣、総理大臣としての米内の功績は、日独伊同盟と開戦に反対し、昭和19年海軍大臣再任以降は、終戦工作を行い、終戦を実現したということ。どのような考えをもって、彼が大臣の職務に臨んだかが、この伝記のポイントだ。

阿川によれば、そもそも旧海軍の上層部には「Fleet in being(存在することに意味のある艦隊、こんにち流に言えば抑止力としての艦隊)という英国伝来の思想が比較的広く存在していた」(同書19頁)というが、「どんな場合にも勇気と明察とを以てその『識見』を堅持しえたか、時流に幻惑されて眼鏡をくもらせたり、自身の名利にとらわれて首鼠両端の態度をとったりしなかったかということになると、話が別」(同前)であり、米内はそれが出来た数少ない海軍軍人の一人であり、だからこそ終戦工作への最適任者だったということになる。

第二次大戦を終結に導いた米内光政の言動を詳述

以下、阿川の著作から、米内の発言をいくつか引用・紹介する。まずは、昭和14年2月海軍大臣当時の衆議院予算委員会での答弁をひく。

「軍備は必要の最小限度にとどめるべきでありまして、出来ないことを要求するものではないと思います。海軍としては狭義国防の観点から相当の考えは持っておりますが、軍備ばかり充分に出来ましても、その他のことが死んでしまっては国は滅びると思います」(同書276頁)。

この答弁に、新聞は大喜びしたが、「陸軍省参謀本部では、多くの者が渋い顔をした」(同書278頁)という。

同年8月、独ソ不可侵条約締結発表後の混乱などにともなう内閣総辞職で米内は海軍大臣を退くが、同年9月にドイツがポーランドに侵攻し(第二次世界大戦開始)、世界情勢が緊迫するなかで、昭和15年1月、天皇の意向で米内は内閣総理大臣に任命される。これには、陸軍を抑えて開戦を阻止したいという考えがあったようだ。総理としての米内の見解も、「欧州動乱かね、自分はこれは永びくと思ふ。だが我国としては特別の事情が起きない限り、依然不介入の立場をつづけて行くに変わりはない」(同書325頁)というものだった。しかし、ドイツ追随に走る陸軍の抵抗と不協力を抑えることに失敗し、同年7月総理大臣を辞する。半年の短命内閣で、阿川は、「歴史に残るような決定を何もしなかったという意味では、無為無策、ウドの大木が倒れた感じが世間にあったであろう」(同書342頁)と辛口に評する。時局が悪かったのか、米内自身が非力だったのか、米内内閣の評価は難しいところであろう。いずれにしても、米内が首相を退いた翌9月、近衛内閣のもとで日本は日独伊三国軍事同盟を結び、翌年12月アメリカとの戦争に突入する。

総理大臣を辞した後の米内は、公務を離れて隠居のような形だったが、日本の敗色が濃くなった昭和19年7月、東条内閣を引き継いだ小磯内閣で、副首相格で海軍大臣に再任される。重臣会議の意向は、小磯・米内の主導で戦争を終結させることだったと阿川は記している。

その後、いくつかの紆余曲折を経ながら、日本が無条件降伏を受け入れたのは周知のとおり。ポツダム宣言受諾を決める御前会議の前に当時の鈴木首相に「多数決で結論を出してはいけません。きわどい多数決で決定が下されると、必ず陸軍が騒ぎ出します。その騒ぎは死にもの狂いだから、どんな大事にならぬとも限りません。決を採らずにそれぞれの意見を述べさせ、その上で聖断を仰ぎ、御聖断を以て会議の結論とするのが上策」(同書518頁)と進言したのは米内だった。

無口で逸話の少ない人なので、阿川も米内の人物描写には苦労したと思うが、腹が座った人物として阿川が米内を高く評価していることは、記述の端々からうかがえる。また政治とは直接関係がないかもしれないが、戦中・戦後の食糧事情が厳しい時代、名声や地位を使って闇の食糧を入手せず、配給される食糧に甘んじていた(同書430頁等)というのも、高潔な米内の人柄を示すエピソードとして重要だろう。

第二次世界大戦に対する海軍のスタンスなどを知ることができ、私にとっては有意義な本だった。