本と植物と日常

本を読んだり、訳したり、植物に水をやったりの日々…。

『竜は動かず 奥羽越列藩同盟顛末』を読む

奥羽越列藩同盟 東日本政府樹立の夢』(星 亮一)を受けて、この本のなかに出てきた仙台藩士・玉虫左太夫を主人公とする歴史小説『竜は動かず 奥羽越列藩同盟顛末』(上田秀人、講談社文庫、2019年)を読んでみた。

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幕末の仙台藩士が主人公の『竜は動かず』


玉虫左太夫(1823年<文政六年>~69年<明治二年>)は仙台藩出身で、若い時に脱藩して江戸に出、後に「日米修好通商条約の批准書の交換のためアメリカのワシントンに向かう日本国正使、新見豊前守正興の従者」(星亮一、前掲書3頁)となり、新見豊前守らとともに日本の知識人としてはじめて世界一周し、その記録を『航米日録』として残した人物。帰国後幕末の動乱に巻き込まれ、また奥羽越列藩同盟の戦略立案などを行ったが、同盟崩壊後にその首謀者の一人として切腹を命じられた。
ということで、どんなおもしろい小説だろうと期待して読んだのだが、作品全体の骨格となる歴史観が旧態依然としたもので、せっかくの興味深い人物を活かしきれていないように感じた。作品のなかでは、帰国後に仙台藩士となり藩主・伊達慶邦から全国の政治情勢を探るよう命じられた左太夫坂本龍馬と出会い、互いに大きな影響をおよぼし合うのだが、このあたりの人物描写もあまりにも類型的。また作品の副題になっている奥羽越列藩同盟については、左太夫の死の経緯を説明するための最小限度の描き方で、左太夫の経歴と列藩同盟のからみはほとんどふれられなかった。この部分を膨らますと、作品全体の構成が崩れるという配慮だろうか。
ということで、ちょっと残念な小説だった。

『奥羽越列藩同盟』(中公新書)を読む

最近、幕末の変革に関する史書をいろいろ読んでいるが、その一環で『奥羽越列藩同盟 東日本政府樹立の夢』(星亮一、1995年、中公新書)を読んでみた。実は私も東北人のはしくれなので(山形県鶴岡市<庄内地方>出身)、戊辰戦争の際に結成された奥羽越列藩同盟の政治構想と新政府軍との戦いぶりには以前から興味をもっていたのだ。

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明治維新の敗者の歴史『奥羽越列藩同盟

さて奥羽越列藩同盟とは、鳥羽伏見の戦いの後に新政府によって朝敵とされた会津・庄内の奥羽二藩救済を目的に、仙台藩米沢藩が中心になって結成された軍事同盟。1868年(慶応4年)五月に31藩が参加の盟約を交わした。

本書のまえがきのなかで星はまず、「この戦争は新生日本の創生をめぐる意見の対立」とする岩手県出身の原敬の言葉を引く(本書ⅲ頁)。列藩同盟は、負けはしたがけっして賊軍ではなかったという立場だ。以下、本書の狙いは、奥羽越列藩同盟は何を考えて(何のために)新政府軍との戦いに突入したのかを明らかにすることにあるといえよう。

具体的には、列藩同盟のビジョンは「奥羽鎮撫総督府参謀の悪業残虐を天下に周知させて世論を喚起し、諸外国、特にフランス、アメリカ、ロシアを味方につけ、武器の援助を受け、榎本武揚の旧幕府海軍と呼応、制海権を握る。そのためには列藩諸藩がより結束し、事にあたるとし、秋田や八戸藩など同盟に異議を唱える向きには、南部藩米沢藩が説得するとした。そして速やかに江戸城を押さえ、政権を樹立する」(本書36頁)というものだったという。同盟の中心になってこうしたビジョンを構築したのは、渡米経験がある仙台藩玉虫左太夫である。

ただ新書で枚数制限があるため、全体の記述はかなり駆け足気味で、結果としては、個々の戦闘の経緯の紹介が多くなってしまっている。そうしたなかで、本書全体から受けた印象を言うと、結局、列藩同盟は思惑のちがうさまざまな藩の集合で結束が弱かった、大政奉還後に急に結成されたため参加した各藩で戦闘準備が整っていなかった(特に武器)などが、同盟があっけなく瓦解した理由だろうか。特に中心となった仙台藩の対応は、いろいろな面でもたついているという感じがした。大藩ではあるが、薩摩や長州のように様々な出来事でもまれていなかったのがその一因かもしれない。

戦闘という意味では、ふんばったのは当事者である会津、庄内の両藩と、政府軍と接触する位置にあった長岡藩ぐらいで、会津藩降伏後、同盟はあっさり崩壊してしまった。

星は、「日本の戦後処理のまずさは第二次世界大戦でも指摘されているが、戊辰戦争でもまったく同じで、賊軍の名で奥羽越を一方的に片付け、日本の近代史にとって、戊辰戦争とは一体なんだったのかを十分に討議、検証することなく、歴史の闇に葬ってしまった。これは日本人の恥ずべき歴史感覚であることを指摘し、この本を奥羽越列藩同盟の参謀と、山野に朽ちた兵士や農民、婦女子たちの靈に捧げたい」(本書256頁)と、全体を結んでいる。

いろいろな史料をきちんと調べているので、倍ぐらいの分量があれば、細部をもっと書き込んで充実した本になっていたかもしれないと惜しまれる。

『開国への道』を読む

『開国と幕末の動乱』(「日本の時代史」20、井上勲編、2004年、吉川弘文館)と『開国と幕末変革』(「日本の歴史」18、井上勝生、2002年、講談社)の幕末の歴史についてのアプローチがあまりにも違うので、バランスをとるために、もう1冊『開国への道』(「日本の歴史」12、平川新、2008年、小学館)を読んでみた。『開国への道』が対象としている時代は18世紀の終わり頃から明治維新まで。

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歴史のダイナミズムを感じさせる『開国への道』

さて『開国への道』の内容紹介に入る前に、『開国と幕末の動乱』と『開国と幕末変革』の歴史アプローチの違いを簡単に示しておこう。

まず井上勲編の『開国と幕末の動乱』は、ペリー来航を「ペリーの要求にたいして、幕府はその可否を決定できなかった。古格先例の集積に埋没して、幕閣は政策ないし意志決定の能力を低下させていたからである」(同書11頁)とし、幕府がこの問題を「朝廷に奏聞し、将来への対策を諸侯に諮問した。この行為のそれぞれが、朝廷の政治化と諸侯の自立化を促進した」(同)と、幕府の対応を批判的に分析している。大局的には、幕府の一連の失策が明治維新につながったという見解だといえるだろう。

これに対し井上勝生の『開国と幕末変革』は、「この(幕府の)協調路線は、天保の改革の失敗の後、阿部正弘老中首座の登場にはじまった有力大名との連携の動向を受け継ぐものであり、協調による幅広い政治統合運動のはじまりであった。これはやがて「公武合体」と呼ばれるようになる。なお『維新史』は、堀田の条約承認を求める上京を「朝権の伸長」と位置づけたが、その評価は、幕府と朝廷の関係という、特異な、狭い視野に傾きすぎている」(同書235頁)と、ペリー来航後の幕府の一連の政策決定過程をそれ以前の政策決定過程と整合性のあるものとし、明治以降続いている定番的な分析を批判する。

それでは、両書の後に執筆された『開国への道』は、この問題をどうみているのだろうか。結論からいうと、『開国への道』での平川新の視点は井上勝生の『開国と幕末変革』に近いが、ある意味でそれよりさらに大胆だ。

具体的にいうと、『開国への道』は、ペリー来航とそれに対する幕府の対応をほとんど重視しておらず、申し訳程度の記述ですましている。それに替えて平川が重視するのは、ペリー来航以前の18世紀以降の日本(幕府)とロシアの接触・交渉の歴史だ。

これに関しては私が知らない事実が多かったのだが、この時期、難破した日本の船がカムチャツカやアリューシャン諸島にかなり漂着しており、伊勢の大黒屋光太夫らや仙台藩の若宮丸乗組員・津太夫らを日本に帰還させるためにロシアの使節が何度が来訪しているということが、詳しく紹介される(若宮丸の乗組員は、帰還の際に日本人としてはじめて世界一周したという!)。またそれらの接触をとおして、幕府はオランダ以外の欧米の国(具体的にはロシア)との外交交渉を何度か行っており、ペリーとの交渉はけっして前例のないものではなかったというのが平川の記述のポイントである。このため対ロ交渉の紹介に多くのページを割いている。

その分、この時代を記述する際の定番ともいえる大塩平八郎の乱天保の改革、そしてペリー来航以降の政治的混乱の分析は駆け足気味になっているが、要するに、平川の主張は、「討幕派が進歩的で、佐幕派を歴史の流れを読めない守旧派とするのは、ジグザグで進む歴史の複雑さを単純化しすぎているといってよい」(同書324~5頁)という見解につきるのではないだろうか。

『開国への道』の記述には、歴史のダイナミズムを感じさせられた。

『開国と幕末の動乱』を読む

『開国と幕末の動乱』(「日本の時代史」20、井上勲編、2004年、吉川弘文館)に不満が多かったので、他の歴史家は同じ時代をどのように論じているのかと『開国と幕末変革』(「日本の歴史」18、井上勝生、2002年、講談社)を読んでみた。対象としている時代は19世紀の初め頃から明治維新までで、『開国と幕末の動乱』よりも幅広い。

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考えさせられる記述が多かった『開国と幕末の動乱』

本書を貫いているのは、1911年(明治44年)から1941年(昭和16年)にかけて文部省が編纂し、幕末の政治史について論じる際に欠かすことができない基本的な文献である『維新史』に対する強い批判。まず、「この編纂は戦前の国家的事業として行われ、史料の博捜や叙述には、今日でも乗り越えるのが困難なほど精度の高い部分もある。しかし、叙述にあたり元老(政治家)の朱筆が全体に入れられたことが、当時の編纂官であった研究者たちによって証言されている」(同書229頁~230頁)としたうえで、「『維新史』は、朝廷の天皇と貴族たちが修好通商条約案承認を拒否したのは、条約に反対する大名たちと志士たちの入説(言上)によるものと描いている。幕末日本の世論は条約拒否で沸騰しており、軟弱、卑屈な幕府に対して、日本の世論をうけた天皇・朝廷が条約拒否を貫いたという、よく知られた「物語」である」(同書230頁)と、こうした描き方が作為的なものであることを指摘し、『維新史』以外の史料や視点から歴史叙述を見直すことの重要性を強調する。

このため井上は、まず18世紀後半以降の蝦夷地の状況から本書の記述を始め、読者に視点の転換を促す。井上によれば18世紀後半から幕末への日本を根底から動かしたものは経済の上昇とロシアの動向であり、二つとも蝦夷地とかかわる。

続いて、民衆運動の実像、天保の改革を論じたのち、いよいよペリー来航以降の政治状況を説明する。その際に井上が重視するのは明治以降の政治家の視点が含まれていないアメリカ側の史料や江戸時代に書かれた一次史料で、たとえばペリーと対応した林復斎は、「「人命」を大上段に振りかざしたペリーの手法を、たくみに逆用し、「利益の論」と反撃した」(同書192頁)と、その手腕を評価する。また徳川慶喜については、「外国公使を様式で謁見した慶喜はきわめて闊達であり、百戦錬磨のサー・パークスをも圧倒してしまった。「近代転換期の日本社会が、極めて強大な威力によって外から脅かされており」、「内外の危機が相乗的に亢進し」、「つよい不安と恐怖」が社会を支配していた、という、「内憂外患」の体制的危機による「不安と恐怖」論は、わたしには、背伸びした「万国対峙」を国是に突進していた、その後の近代日本エリートたちがつくり出し広めた、一面的にすぎるイメージだと思えてならない」(同書353頁)として、政治史の叙述を締めくくる。

考えさせられるところが多い、刺激的な歴史記述だった。

ラケナリアの芽がまた少し伸びる

ラケナリア(Lachenalia、キジカクシ科)の芽が伸び、少しずつ個性がはっきりしてきた。

ご紹介しているのは、写真の上段左から①multifolia(ムルティフォリア)、②namaquensis(ナマクエンシス)、③viridiflora(ヴィリディフローラ)、下段左から④splendida(スプレンディダ)、➄purpureo-caerulea(プルプレオ・カエルレア)、⑥pusilla(プシラ)の6種。

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ラケナリアの芽が伸びて、個性が出できた

前回の紹介から1週間だが、ムルティフォリアは、学名の「葉が多い」という名のとおり、株元からたくさんの葉が出ているし、ヴィリディフローラは早咲きなので成長速度が速い。プルプレオ・カエルレアは、幅広い葉とその表面の水泡のような小突起が見えはじめている。またプシラも、小さいながらそれなりに芽が伸びている。

元々の生育環境を反映しているのだろうが、葉だけみていてもそれぞれの微妙な違いがおもしろい。

日本の時代史~『開国と幕末の動乱』を読む

自分の翻訳の見直しがとりあえず一段落したので、日本史関係の読書を再開した。まずは、「日本の時代史」シリーズから『開国と幕末の動乱』(「日本の時代史」20、井上勲編、2004年、吉川弘文館)を読んだ。この巻は、ペリー来航(1853年<嘉永6年>)から明治維新直後までの激動の時代のできごとを扱っている。

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観念的な記述が目立った『開国と幕末の動乱』

さてこの巻も、すでに読んだ同シリーズの他の巻と同様、編者・井上勲による巻頭の概論「開国と幕末の動乱」と5篇の個別研究で構成されており、大河ドラマなどをとおして知っている歴史的事件についての断片的な知識が、ようやく一つにまとまったという感を受けた。

ただしこの巻は、これまで読んだ他の巻と比べると、全体的に記述が非常に観念的だ。それはまず井上勲の概論「開国と幕末の動乱」に強くみられ、徳川幕府滅亡にいたる過程を事実として詳しく紹介するというより、個々の出来事への幕府の対応が、言わば大義名分があり為政者の行為として正当化されるものだったのかの分析に比重がおかれているように思われる。つまり、井上の議論の進め方は、為政者としての大義名分を失った幕府が大政奉還し、その後実効支配力を失ったのはやむをえない出来事であったという風に読める。

また井上は、この巻の各論の一つとして「徳川の遺臣」という論考も執筆しているが、こちらも、そもそも遺臣とは何かという問いを冒頭にかかげ、中国に起源をもつ遺臣という概念からみて、幕府崩壊後の幕臣の行動はどのようなものと考えられるかという方向で議論が進んでいく。歴史の叙述というより、歴史を題材とした思弁という印象を受けた。

他の各論はというと、延広真治の「動乱の時代の文化表現」は、幕末から明治にかけて名人と呼ばれた噺家三遊亭円朝(1839年<天保10年>~1900年<明治33年>)とゆかりがある『怪談牡丹灯籠』と『鰍沢』を先行作品と比較するという研究だが、ただ事例をたくさん掲げているだけで、私には意図が理解できなかった。

逆におもしろかったのは、山室信一による巻末の研究「明治維新とアジアの変革」で、こちらは、主に中国と朝鮮で明治維新がどのように受け止められ、それがそれぞれの国の変革とどのように結びついていったかが紹介されている。

この問題は結局、明治維新を西洋文明を自国に取り入れるために必要な変革ととらえるのか、体制変革そのものとしてとらえるのかということになるのだが、このため清でいうと、体制側と反体制側では評価のポイントが変わってくるということがまず指摘される。また明治維新をとげた日本が中国留学生を受け入れ、結果として彼らが先頭にたって辛亥革命を進めていったため、この問題は、静的なものではなく、相互浸透的なダイナミックな問題であることも論じられる。

山室は自身の論考を次のように結んでいる。

明治維新が海を越えてアジア諸民族の独立運動に影響を与え、中国における一連の変革運動に大きな影響を与えたことは否定できない。そして、辛亥革命の報が翻って日本に伝えられるとそれが大正デモクラシー運動への刺激となって第二維新としての大正維新が唱導され、『大正の維新は、ある意味において実に第二の辛亥革命なり』ともいわれた。(中略)このように、明治維新に向けられた様々な眼差しに焦点を当てるとき、そこに変革の連鎖そして緊迫した相互交渉としてのアジアの近代史が浮かび上がってくるのである」(同書306~307頁)。

こうした山室的な分析視覚が全編に及んでいたら、本書はさらに興味深いものになっていただろうと惜しまれる。

自分の翻訳の見直しが終わる

9月の初めから取り組んでいた自分の翻訳原稿の見直しが、本日とりあえず終了した。途中でプリンター故障という予期せぬトラブルもあったが、プリンターがないと何もできないので、貯金をおろして急遽プリンターを買い換えた。この作品は原稿用紙約650枚の大作なので、今はけっこうへとへとだ(笑)。

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自分の翻訳の見直しが終わったが、けっこうへとへとだ

さて、私が訳したのは、1776年にフランスで出版された政治論で、ルイ16世即位(1774年)、アメリカ独立戦争開始(1775年)といった激動の社会情勢をかなり意識して書かれている。ただ、現実の政治のなかに著者の思想が反映される余地があったかといえば、それはかなり難しいし、著者自身がそれを意識していたのではないだろうか。この作品のなかの著者のいろいろな提案が現実的な問題としてクローズアップされてくるのは、むしろ1789年のフランス革命勃発以降だ。

いずれにしても、作品全体の結びの部分が、幾分ペシミスティックであるがかっこいいので、拙訳でご紹介しておきたい。

 

   ☆     ☆    ☆

 

「自分たちを不幸にするために可能なあらゆることを行ったあとで、どうしてわれわれは自分たちの不幸を嘆くのでしょうか。自然の声に耳をふさいだあとでは、その不当さを非難することが、われわれにうまく釣り合っています。自然は、われわれは平等だと、われわれに向かって叫びます。それなのに、法を制定しながら平等はすこしも存在しないと推測し、人類を情念と何人かの個人の犠牲にするのが賢明だと思い込むことが、われわれを喜ばせます。自然はわれわれを貪欲にも野心的にもつくりませんでした。しかしながらわれわれは、貪欲と野心が社会の秩序と運動の二つの原則であることを望みます。狂人たちが、自分たちの狂気に対する報酬として賢者たちに約束された幸福を獲得するのは正当なのでしょうか。

 さあ、われわれの歩みに戻らなくてはなりません。もしわれわれがならず者の結社ではなく、最後に理性的な社会を形成することを望むならば、誤りを改め、新しい経路を選ぶ必要があります。われわれがどんな法に従わなくてはならないかを知るためには、永遠の法に遡らなくてはなりません。キケロは語っています。それは神の理性そのものであり、都市や社会の誕生に先行しました。そして元老院も人民も、変えることができません。われわれの心、情念、欲求、そしてわれわれの精神がもっている手段を学ぶ必要があります。あなたはおっしゃるでしょう。『私どもは、自分に課さなくてはならない目的から非常に離れたところにおります』と。私はそれを認めます。しかし、どんな奇妙な論理によって、それに何歩か近づく代わりに、われわれはそれからさらに遠ざからなくてはならないと、あなたは結論されるのでしょうか。立法についての私の諸原則は、ある人々には空想的な夢としかおもわれないでしょう。しかし空想にふけるということで、人々は誰を非難しなくてはならないのでしょうか。自然の意図に分け入ろうと努め、もっとも賢明でもっとも幸福な人民が従った法しか提案しない私をですか。それとも、自然を自分たちの気まぐれに服従させていると自慢し、逃げ去る幸福の後ろを意地で駆け回り、われわれの悪徳を非常に増やし、広げることで、われわれを良い市民にするのを期待する深淵な政治家たちをですか。」