本と植物と日常

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『開国への道』を読む

『開国と幕末の動乱』(「日本の時代史」20、井上勲編、2004年、吉川弘文館)と『開国と幕末変革』(「日本の歴史」18、井上勝生、2002年、講談社)の幕末の歴史についてのアプローチがあまりにも違うので、バランスをとるために、もう1冊『開国への道』(「日本の歴史」12、平川新、2008年、小学館)を読んでみた。『開国への道』が対象としている時代は18世紀の終わり頃から明治維新まで。

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歴史のダイナミズムを感じさせる『開国への道』

さて『開国への道』の内容紹介に入る前に、『開国と幕末の動乱』と『開国と幕末変革』の歴史アプローチの違いを簡単に示しておこう。

まず井上勲編の『開国と幕末の動乱』は、ペリー来航を「ペリーの要求にたいして、幕府はその可否を決定できなかった。古格先例の集積に埋没して、幕閣は政策ないし意志決定の能力を低下させていたからである」(同書11頁)とし、幕府がこの問題を「朝廷に奏聞し、将来への対策を諸侯に諮問した。この行為のそれぞれが、朝廷の政治化と諸侯の自立化を促進した」(同)と、幕府の対応を批判的に分析している。大局的には、幕府の一連の失策が明治維新につながったという見解だといえるだろう。

これに対し井上勝生の『開国と幕末変革』は、「この(幕府の)協調路線は、天保の改革の失敗の後、阿部正弘老中首座の登場にはじまった有力大名との連携の動向を受け継ぐものであり、協調による幅広い政治統合運動のはじまりであった。これはやがて「公武合体」と呼ばれるようになる。なお『維新史』は、堀田の条約承認を求める上京を「朝権の伸長」と位置づけたが、その評価は、幕府と朝廷の関係という、特異な、狭い視野に傾きすぎている」(同書235頁)と、ペリー来航後の幕府の一連の政策決定過程をそれ以前の政策決定過程と整合性のあるものとし、明治以降続いている定番的な分析を批判する。

それでは、両書の後に執筆された『開国への道』は、この問題をどうみているのだろうか。結論からいうと、『開国への道』での平川新の視点は井上勝生の『開国と幕末変革』に近いが、ある意味でそれよりさらに大胆だ。

具体的にいうと、『開国への道』は、ペリー来航とそれに対する幕府の対応をほとんど重視しておらず、申し訳程度の記述ですましている。それに替えて平川が重視するのは、ペリー来航以前の18世紀以降の日本(幕府)とロシアの接触・交渉の歴史だ。

これに関しては私が知らない事実が多かったのだが、この時期、難破した日本の船がカムチャツカやアリューシャン諸島にかなり漂着しており、伊勢の大黒屋光太夫らや仙台藩の若宮丸乗組員・津太夫らを日本に帰還させるためにロシアの使節が何度が来訪しているということが、詳しく紹介される(若宮丸の乗組員は、帰還の際に日本人としてはじめて世界一周したという!)。またそれらの接触をとおして、幕府はオランダ以外の欧米の国(具体的にはロシア)との外交交渉を何度か行っており、ペリーとの交渉はけっして前例のないものではなかったというのが平川の記述のポイントである。このため対ロ交渉の紹介に多くのページを割いている。

その分、この時代を記述する際の定番ともいえる大塩平八郎の乱天保の改革、そしてペリー来航以降の政治的混乱の分析は駆け足気味になっているが、要するに、平川の主張は、「討幕派が進歩的で、佐幕派を歴史の流れを読めない守旧派とするのは、ジグザグで進む歴史の複雑さを単純化しすぎているといってよい」(同書324~5頁)という見解につきるのではないだろうか。

『開国への道』の記述には、歴史のダイナミズムを感じさせられた。