本と植物と日常

本を読んだり、訳したり、植物に水をやったりの日々…。

緑色の原種水仙が開花

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野趣がある緑色の原種水仙 Narcissus viridiflorus


緑色の原種水仙が咲いた。学名はNarcissus viridiflorusで、イベリア半島(スペイン)南部から北アフリカのモロッコにかけて自生。晩春に休眠し、毎年9月に水やりを再開すると秋に開花する。地味な花だが、野趣があって好きな植物。花の中心部に小さな副花冠があり、形はきちんと水仙独自の形になっている。また花があまり目立たないのを補うように、香りはとても強く、その香りで昆虫を引き付けるのだろう。繁殖力も強く、球根1個から栽培を始めて、分球でだいぶ増えた。さらに増やすため、今日、人工授粉も試してみた。

親しい人の墓参りで下田に行く

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一昨年亡くなった女優Eさんの墓参りで下田を訪問


昨日は、一昨年の10月27日に亡くなった女優Eさんの墓参りで下田に行ってきた。

知人を介してEさんを知ったのはかなり前だが、先方が女優ということもあり、顔見知りという以上に距離を縮めることを、私はずっと避けてきた。それがあるとき、「女優というのはいったいどういうことを考えて生きているのだろう」かと興味がわいて知人とともに彼女の自宅を訪問させていただき、それからは、ともに世田谷区に住んでいて互いの自宅が近いということもあり、親しくつき合わせていただいた。芝居やコンサートにもしばしば同行し、それが済むと一緒に食事をするということが重なり、親密度が増した。最後の数年は、免許を返上した彼女のために身の回りの細かな買い物をして、そのあと彼女の家で食事をするというのがお決まりコースのようになっていた。

下田のお墓も、一昨年のGWに母の墓参りをしたいという彼女の希望に合わせて二人だけで訪問し、「来年もまた来ようね」と約束していたのだが、それが彼女自身の納骨のために再来訪するようになるとは、まったく考えていなかった。

さて一昨年の秋は、彼女も私も仕事で忙しく、それが一段落したらまたゆっくり会おうねと約束したのが最後になった。ラジオドラマの収録を終えた彼女は、これからまたがんばらなくてはとジムに行ってトレーニングし、結果的にはそれが負担になって収録後1週間もたたないうちに急逝した。

最後の数年間は、女優とファンというような感じではなくほんとうに親密な付き合いだったので、Eさんが亡くなって、本音で話ができる人間がほんとうに少なくなってしまった。

宿命論的でダイナミックさに欠けるフォークナー

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独自手法でアメリカ南部の深層を掘り下げたフォークナー作品


7月から9月にかけて、アメリカの文学者ウィリアム・フォークナー(1897年~1962年)の中編・長編小説を集中的に7冊読んだので、その感想をまとめておく。

まず読んだ作品は次のとおり(発表年代順)。

『サートリス』(1929年)

響きと怒り』(1929年)

死の床に横たわりて』(1930年)

サンクチュアリ』(1931年)

八月の光』(1932年)

アブサロム、アブサロム!』(1936年)

『自動車泥棒』(1962年)

以上の7作に共通するのは、まずすべてがミシシッピー州のヨクナパトーファ郡という架空の土地を舞台にしており、登場人物たちも幾つかの作品で重なっているということ。この手法によって、南北戦争以降のアメリカ南部が抱えていた文化的・経済的問題点が多角的・重層的に掘り下げられる。

次に大半の作品が、複数の登場人物の意識(視点)から語られるということ。これも、フォークナー作品の重層性を増している。

ただし、作品の語り手を特定の人物に固定しないというフォークナーの手法に関しては、個人的には賛同できない部分がある。というのも、フォークナー作品は、さまざまな視点を統合しながら一つの事実に迫るという、一種の謎解きになってしまうきらいがあるようにおもわれるからだ。まあ、この点をしてフォークナーの語りの見事さとする評があることは認めるが、私からすると、物語の落としどころ(結末)があらかじめ決まっていて、その手のうちを明かさないために、叙述を意図的に混乱させているように感じられる。さしずめ、最後の作品『自動車泥棒』などはその典型といえるだろう。だから、結末でびっくりすると言えば言えるが、作品の最初に提示された問題点からの発展があまり感じられないのだ。『死の床に横たわりて』の結末にも、それは言えるだろう。

登場人物そのものも、大半は一定のパターンに添って動くだけで、作品のなかで何か、あるいは誰かの影響を受けて行動を変えるということがほとんどない。

八月の光』のリーナやジョー・クリスマスがその典型的な例だとおもうが、リーナは自分を妊娠させ棄てたルーカス・バーチの実像や献身的なバイロン・バンチに触れてもバーチを追うことをやめないし、クリスマスは幼児体験に縛られて自律的な行動をすることができない。『アブサロム、アブサロム!』のトマス・サトペンも、貧乏白人として生まれて差別され、その境遇から抜け出すためにさまざまな行動をとるが、それらはすべて若い頃に描いた富裕になり(白人の)立派な子孫を残すという憧憬から一歩も出ない。(ついでに言えば、『響きと怒り』の冒頭部分の語り手ベンジャミンは白痴で、自律的な行動をとることはできない。)

結局、フォークナー作品を支配しているのは、宿命論、あるいは一種の決定論とおもわれ、異なった背景・性格をもった人物が作品のなかでぶつかりあり、互いに影響をおよぼし合ったり変わったりしていくという意味でのドラマ性はほとんどない。

これはこれで小説の一つの手法なのかもしれないが、私にはフォークナー作品はあまりにも図式的で、ダイナミックさにかけるという気がしてならない。

3度目の引越し

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三度目の正直?

9月中旬に東京から川崎に転居した。ここ1年間で3回目の転居だ。1年で3回も転居すると、なんだかいつも引越し中のような気がして落ち着かない(笑)。

私はもともと世田谷区経堂の賃貸テラスハウスに約8年間住んでいて、そこがとても気に入っていたのだが、その建物を取り壊すというので、昨年8月に1回目の引越しをした。引越しを機に広くて安い物件を探したのだが、なかなか条件の合う物件がなく、テラスハウスの退去期限が迫るなかでの第1回目の引越しだった。

その物件は元のテラスハウスから徒歩5分ほどの距離の戸建て住宅で、ともかく引っ越してはみたもののモノが収まり切れず、新たにトランクルームまで借りたので、結局トータルの賃料が高くなるし、不便で仕方がない。条件のよい物件が見つかったらすぐにまた引越ししようと、一時しのぎのような転居だった。

そのとき世話になった不動産屋がこちらの不満を覚えていて、年明けそうそうあらためてまた物件探しが始まった。そこで見つかったのが、東京・狛江市のマンション。賃料はやや高かったが、とりあえず広さ的には私の条件を満たしているので、3月に2度目の転居を決行した。

実はそのころからコロナが広がり出してすこしヤバイ雰囲気だったのだが、コロナの影響で私の仕事先が会社をたたむことになり、収入が激減するので、入居そうそうまた転居を考えなくてはならなくなった。

今度の転居は仕事探しと同時進行で、まずは安定した仕事を見つけないと入居の交渉ができないので、仕事探しを優先させながら、新たな転居先を探した。

そこで見つかったのが川崎市麻生区の現在の住まい。都心からも最寄駅からも遠いが、その分ともかく広くて賃料が安い。不動産屋を拝み倒して交渉し、9月中旬に転居した。

新しい住まいもそれなりに不便なところはあるが、ともかく収納スペースがたくさんあるので、四苦八苦しながら毎日部屋を片付けている。

フォークナー『アブサロム、アブサロム!』を読む

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アブサロム、アブサロム!』(岩波文庫)


フォークナー(1897年~1962年)の長編小説『アブサロム、アブサロム!』(藤平育子訳<岩波文庫>)を読んだ。ミシシッピー州の架空の土地ヨクナパトーファ郡を舞台とするする長編小説としては第6作で、1936年に発表された。

物語のテーマは、ウエスト・ヴァージニア州の貧しい白人一家に生まれたトマス・サトペンが、その境遇から抜け出し新たな一族をつくり上げようとして行った努力とその崩壊を、サトペン自身ではなく、その周辺にいてサトペンの行動を見たり聞いたりした人間の証言から組み立てていくというもの。これに、サトペンがハイチで結婚して生まれた子供チャールズ・ボン、ジェファソンに移住して再婚したから生まれた子どもヘンリー・サトペンとジュディス・サトペンらの思惑や行動がからむが、それらも、チャールズやヘンリー本人ではなく、周囲の人間の報告や推測で構成される。南北戦争の時代で、南部の伝統の崩壊が通奏低音のように作品全体に響いている。

アブサロム、アブサロム!』の叙述の特徴は、訳者・藤平育子によれば、「幾重にも連なる語りの波紋こそ、語りの芸術とも呼びうる『アブサロム』の離れ技」(岩波文庫上巻、345頁<訳者解説>)ということになるが、私からすると、その「語り」が、読者が内容(テーマ)の深みを探求することを妨げているのではないかという気がしないでもない。

たとえば作品の後半は、クウェンティン・コンプソン(『響きと怒り』の登場人物)とその友人シュリーヴによるトマス・サトペンやチャールズの行動の謎解きだが、それがまるでコナン・ドイルの探偵小説のように進んでいく。さしずめ、いろいろな関係者の証言をききながら全体の物語を組み立てることができなかったコンプソンはワトソンで、関係者を誰一人知らないのにコンプソンの話から物語の全貌を組み立てていくシュリーヴはシャーロック・ホームズだ。だからこれをドイル作品のように「語りの芸術」と呼んでもいいのだが、その分、登場人物たちはカリカチュアのように一面的な行動しか行わず、作品を読みながら登場人物の思考を自分で組み立てて同化していくというおもしろさは少ない。

要するに、フォークナーは、さまざまな登場人物について、あらかじめ細かな見取り図を作成し、状況に応じてそれを小出しにしながら作品をまとめていったようにおもわれるのだが、執筆しながら登場人物のキャラクターが膨らんでいくということは少ないようにおもわれる。

フォークナーの作品を読めば読むほど、私が理想とする小説作法からはほど遠い作家という気がしてくる。

フォークナー『サートリス』を読む

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フォークナー『サートリス』(全集第4巻)


順番は逆になったが、フォークナー(1897年~1962年)が1929年に発表した長編小説第3作『サートリス』(斎藤忠利訳<フォークナー全集第4巻>)を読んだ。ミシシッピー州の架空の土地ヨクナパトーファ郡を舞台とする小説群の最初の作品だ。

物語は、ジェファソンの町で銀行を経営する名門一家サートリス家の生き残りベイヤード老人とその孫で同名のベイヤードの死を核に展開する。老ベイヤードの死は若ベイヤードが運転する車に乗車中の心臓発作による突然死。第一次大戦から帰還した若ベイヤードの死は、双子の兄弟ジョンを死なせたことの後悔から抜け出すことができず、無謀な飛行機操縦を行ってのなかば自殺的なものだ。一族には、最後に老ベイヤードの叔母ミス・ジェニーとベイヤードと結婚し男児を孕んだナーシッサ・ベンボウが残される。

よく言えば、南北戦争第一次大戦という二つの戦争を経て精神的な傷を負ったアメリカ南部の人々の叙事詩だが、描写はやや平板で、読むのに意外と時間がかかった。

フォークナーは、次作『響きと怒り』で、同じヨクナパトーファ郡を舞台にしながら叙述方法をまったく変えてしまうのだが、自分でも、『サートリス』の方法論に不満があったということだろうか。フォークナーのその後の一連の作品に登場する人物が多数登場し、彼らの関係性や背後関係を知るという意味では重要な作品なのだが…。

プロイフィスが成長

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プロイフィス・アンボイネンシス


ヒガンバナ科の植物プロイフィス・アンボイネンシス(Proiphys amboinensis)の葉がぐんぐん成長している。この植物は、ヒガンバナ科としては珍しく、タイ・インドネシアなどの東南アジアからオーストラリア北部にかけて自生。種小名のアンボイネンシスは、インドネシアのアンボン島にちなむ。

他の多くのヒガンバナ科植物と同じように、乾季を球根のまま過ごし、雨季になると開花しその後に葉を伸ばすという成育サイクルのようだが、自生地の雨季と乾季のサイクルそのものがよく分からない。一般的なイメージとして、東南アジアでは一年中降雨があるのではないかという気がするのだが、それだとおそらくこの植物は生育できないのだろう。ウィキペディアで調べてみるとクリスマス頃に開花という情報が載っているのだが、現地と日本のクリスマスの気候がまったく違うので参考にならない。結局、ネットで他の情報を検索すると、日本では初夏に開花とあり、それがこの植物の栽培に合っているのだろう。

寓居では、鉢植えのままヴェランダに放置しておいたところ、梅雨の雨が文字通り呼び水となり、発芽がはじまった。花は咲かなかったが、今年は初めての栽培なので、開花サイクルが乱れているのかもしれない。

葉の形は多くのヒガンバナ科植物と異なり丸みを帯びているが、すべて球根の付けねから出るところは、ヒガンバナ科の特徴と合致している。

来年の開花を期待して、このまましばらく葉の成長を楽しむことにしよう。