本と植物と日常

本を読んだり、訳したり、植物に水をやったりの日々…。

キルタンサスが開花

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キルタンサス「パッショネイト・キング」


 

 

ヒガンバナ科の植物キルタンサス(Cyrtanthus)の一種が開花した。今回開花したのは「パッショネイト・キング」という園芸品種。朱色の花弁の外側に一筋白い線が入っていて、非常に美しい。

キルタンサスは南アフリカ原産の植物だが、夏に雨が降る地域(インド洋側)と冬に雨が降る地域(大西洋側)にまたがって自生しており、雨季に合わせて生育のタイミングが異なる。このパッショネイト・キングは夏に雨が降る地域のキルタンサスの系統をひくらしく、春に芽を出して、これまで少しずつ成長してきた。アフリカの大地をおもわせる華やかな色彩をしばし楽しむことにしよう。

なお、キルタンサスという学名は「曲がった花」を意味し、多くの品種が筒状の曲がった花をつけることに由来しているが、このパッショネイト・キングは、画像で分かるようにやや上向きのラッパ状の花。葉は細長く、少し肉厚。

フォークナー『八月の光』を読む

フォークナー(1897年~1962年)の長編小説『八月の光』(加島祥造訳<新潮文庫>)を読んだ。1932年に発表された小説だ。この時期のフォークナーは、1929年の『サートリス』に続いて、次々とミシシッピー州の架空の土地ヨクナパトーファ郡を舞台とする小説を発表しているが、個人的には、『八月の光』はその頂点に位置するものではないかとおもう。

物語は、アラバマ州に住んでいた未婚の若い妊婦リーナが、失踪した恋人ルーカス・バーチを追ってジェファソンにやってくるところから始まる。ジェファソン到着直前にリーナは近郊の家の火事を見るが、この火事と火災現場での殺人事件に、失踪したバーチとその相棒ジョー・クリスマスが絡んでいることが明らかになり、ここから、物語は過去にさかのぼってクリスマスという男の話になる。『八月の光』は、実質的にこの男クリスマスの物語といってもいい。

ジョーは赤ん坊の時に孤児院の前に捨てられていた父母未詳の孤児で、それがクリスマス直前だったために「クリスマス」と命名され、5歳の時にマッケカン家の里子になる。マッケカンは厳格な長老派(スコットランドを中心とするキリスト教カルヴァン派の分派)の信者で、ジョーを長老派流に教育しようとするが、自己の内部からおこる信仰ではなく、外部から押し付けられる信仰に、彼は強く反発する。このように、ジョーは、一本気ではあるが外からの強制に反発する若者として描かれる。そのままマッケカン家で少年時代を過ごしたジョーは、思春期に娼婦に惹かれ、養父母に乱暴を働いて家出をする。ぶらぶらするうちに30歳を過ぎてジェファソンに流れ着き、そこでバーデン家という一人暮らしの女性の敷地に住み込み、バーデンと関係を結ぶようになる。このバーデンも長老派の信者で、一族にはキャルヴィンという名の者が多い(「キャルヴィン」というのは「カルヴァン」を英語風に読んだもので、故に、この名前が付けられた人物は一般的にカルヴァン派だということを示唆するのではないだろうか?)。ここでも最後に、ジョーはバーデンによる信仰の押し付けに反発して彼女を殺害する(その後バーチが放火する)。

以上のような経緯から私は、この物語を、どうしてもカルヴァン派の分派である長老派の信仰と人間の魂の救済の問題として読みたくなる。

この短い感想文で、カルヴァン派の教義について論じたり、さらにはその分派である長老派について論じることは不可能だが、私が知っているかぎりでは、カルヴァン派カトリックルター派の違いは、神の絶対性が強調され、また個々の人間を救うかどうかは神が決定するものとされ、その決定に人間がかかわることが否定される。つまり人間がつくった組織である教会には人間を救済する力がないということだ。

フォークナーは、こうした簡略な要約以上に長老派の信者たちを身近でよく知り、それ故、多くの登場人物を長老派として描いたのだとおもうが、『八月の光』を読むかぎり、長老派の信仰を肯定的にとらえていたようにはおもえない。

それと、『八月の光』の大きな問題点は、フォークナーがクリスマスを罪人と考えているかだ。つまり、クリスマスが行った殺人を裁くのであれば、殺されたバーデンとの人間関係や葛藤を描くことで十分なはずだが、彼はそうしていない。むしろ、孤児として生まれ、養家で長老派の信仰を強要され、彷徨の果てにまたしても長老派信者の女性とめぐり逢うという、一種の宿命に導かれて罪を犯す人間としてクリスマスを描いている。これは、あたかも現代のオイディプス物語のようだ。

結局、クリスマスの救済や、出産後のリーナの今後の行動という問題についてはこれからじっくり考えるしかないのだが、これは、『八月の光』によってつきつけられた大きな課題だ。

 

追記 : 藤平育子のフォークナー『アブサロム、アブサロム!』訳注によれば、「『長老派教会的な臭気』とは、長老派の運命予定説的雰囲気が否応なしに漂っていることをいう」(岩波文庫アブサロム、アブサロム!』上巻331頁)とのこと。

「線香花火」が開花

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ヒガンバナ科の植物スカドクサス・ムルティフロルス(Scadoxus multiflorus)が開花した。和名は「線香花火」で、文字通り線香花火が周囲に飛び散っているような咲き方だ。こんもりした「花」の部分で目立っているのは、実は個々の小さな花の雄蕊で、花弁は小さくあまり目立たない。

自生地は南アフリカ東部からエスワティニ(旧名スワジランド)にかけての内陸部。この地域は冬に雨が少なく、夏に雨が降るので、現地でも夏に開花する。ケープバルブと呼ばれる植物の一種だ。

寓居では、6月初めに球根を3球植え、1カ月以上なんの変化も見られなかったのだが、7月中旬に2球開花し、今、遅れていた1球の開花がはじまった。画像の葉は先に咲いた2球のもので、日本のヒガンバナと同じように、花が咲いてから葉が伸び始める。とても華やかで、ヴェランダが一気ににぎやかになった。

彼岸花とはよく言ったもので、何もないところから突然強烈な花が開くのはまるで死者がよみがえったかのような印象がある。先月逝ったY君のことを思い出しながら、鮮やかな花をながめている。

フォークナー『サンクチュアリ』を読む

サンクチュアリ』は、フォークナー(1897年~1962年)が『死の床に横たわりて』に続いて1931年に発表した長編小説。タイトルには「聖域」「隠れ家」といった意味がある。私はこれを大橋健三郎訳(筑摩書房<世界文学全集所収>)で読んだ。

話は、アメリカ、ミシシッピー州の架空の土地ヨクナパトーファ郡のジェファソン近郊のフレンチマンズ・ベンドとして知られる古い屋敷を中心に展開する。物語では、この屋敷はリー・グッドマンを中心とする密造酒製造の一味の隠れ家(聖域)とされる。ここに、道に迷った弁護士ベンボウ、交通事故に遇った女子大生テンプルらが入り込む。テンプルをめぐって、男たちの欲望が動き出し、グッドマンの仲間ポパイは仲間のトミーを射殺する。グッドマンがそれを通報すると、密造酒製造でふだんからにらまれていた彼は、逆に殺人犯として拘束され、ベンボウがその弁護をかってでる。

と、ここまでは探偵小説風の設定だが、証人の偽証によってグッドマンは有罪とされ、処刑前にリンチで殺される。言わば、聖域崩壊の物語だ。

フォークナーの主眼は、物語そのものというより、ヨクナパトーファ郡に生きる人々の群像を描き出すことにあるといっていいだろう。そしてそれを描くとき、直前に執筆した『響きと怒り』『死の床に横たわりて』で試みた、さまざまな登場人物にそれぞれの主観をとおして見た出来事を語らせるという手法を大幅に変更し、通常の小説のように統一された第三者的な視点をとおして物語が進行していく。

さまざまな登場人物のなかでは、冷酷な殺人犯ポパイが、フォークナーがもっとも力を入れて描こうとした人物ではないだろうか。彼は、人を簡単に殺すだけでなく、自分が殺されるときにも平然としている。その一方で、性的不能というコンプレックスをかかえ(少なくとも私は、これを作品のなかの叙述から読み取ることはできず、解説を読んで納得した。この作品でもフォークナーの叙述はけして分かりやすくはない)、性をめぐっては複雑な行動をとる。

この文章を書いている時点で、私はフォークナーの次作『八月の光』をすでに読み終えているのだが、このポパイの人間像は、『八月の光』に登場するクリスマスの描写でさらに深められているようにおもう。『八月の光』を読んでしまうと、『サンクチュアリ』はそのための習作という気がしてくる。

 

追記:その後フォークナーの長編第3作『サートリス』を読み、ベンボウの過去や性格は『サートリス』で詳しく語られていることを知った。 

 

フォークナー『死の床に横たわりて』を読む

 

フォークナー(1897年~1962年)の『死の床に横たわりて』(佐伯彰一訳、筑摩書房<世界文学全集所収>)を読んだ。フォークナーが『響きと怒り』に続いて、1930年に発表した小説だ。

物語は、アメリカ、ミシシッピー州の架空の土地ヨクナパトーファ郡に住む貧しい白人一家バンドレン家の母親アディが亡くなり、その夫アンスが生前アディにした約束にしたがい、一家全員で近郊の都市ジェファソンに遺骸を運ぶ話。ただし、突然の大雨による増水でジェファソンに行くための橋がほとんど流され、難儀しながら棺をのせた馬車ごと川を渡ったりして、災厄に見舞われる。

ただし小説の眼目はその移動にはない。

フォークナーは、前作『響きと怒り』と同様、物語の展開をバンドレン一族をはじめとする様々な人々のナレーションに委ねるという手法をとっており、読みながら視点が混乱させられる。4人の男と1人の女からなるバンドレン家の兄弟構成一つをとってみても、読み終わってみれば彼らが兄弟だと分かるのだが、読んでいる最中は登場人物の人間関係がよく分からず、作品世界のなかに没入しにくい。またその兄弟も、次男ダールの独白はたびたび登場するのに対し、三男ジュエルの独白はほとんどなく、複雑な行動をするジュエルの心理状態は、ダールをはじめとする人々の内面をとおして想像するしかない。要するに、様々な人々のジュエル観が描かれているのにたいし、肝心のジュエルの独白はほとんどないので、結局、ジュエルの心の動きはよく分からないということになる。このジュエルのことはほんの一例だが、それ以外にも、父親をはじめ一家の行動はどこかちぐはぐで、登場人物たちの心理を追うことは不可能に近い。登場人物それぞれが自分の内面をさらけ出しているにも関わらず、結果としては各人それぞれに未解決の部分が残るという感じだ。よく言えば、彼らの心理に正解などなく、さまざまな読み手に、さまざまな解釈を可能にすると言ってもいい。

結局、『死の床に横たわりて』という作品が優れた小説かどうか、私はまたしても判断保留せざるを得ないのだが、独特の象徴主義的な作品だとは言える。つまり、前作『響きと怒り』と同様、作品全体をとおしてまだ語られていないなにかが作品のなかに秘められているのではないかという印象を受けるのだ。

Y君のこと

亡くなったY君のことも書いておこう。彼のために。そして自分のために…。

Y君は1982年生まれで、九州南端のK県出身。私が彼と知り合ったのは、彼が古都の美大に通っていたころのことなので、知り合ってから約18年経つ。いろいろ好奇心旺盛で、コミケに興味があるということで、冬と夏、たびたび一緒にコミケに行ったりして交友を深めた。あれはちょうど東浩紀が『存在論的、郵便的』でデビューした数年後の頃で、私もコミケに関心をもっていた。

大学を出て東京の会社に就職したのだが、1年ほどたってから体調不良を訴え、東京では生活できないということで会社を辞め、実家に戻った。それが2005年で、その時私は、たまたまある発表を控えており、東京を去る前に、その資料作成や読み合わせなどでヘルプしてくれたことをよく覚えている。

その後も体調は回復せず、簡単なアルバイトをしながら実家で生活していたが、通院の関係でK県を離れるのが難しいということで、2005年以降は、2度くらいしか会っていない。最後に会ったのも、もう5年以上前になる。しかし、メールと電話では、私の良い相談相手で、15年間ほとんど会っていないということが、自分でも信じられないくらいだ。それでも、あるいはそれだけに、いつも会っている人たち以上に濃厚な時間を共有できたような気がする。

最近は、自分のこれまでの生き方を振り返って、それから抜け出すためにも、それを小説にまとめるとがんばっていた。去年の11月には、彼からこんなメールを受け取っている。

「先程は急にお電話して失礼しました。電話の中でお話できなかったことを、メールでお伝えします。ここのところ体もメンタルも調子が悪く、かなり人生について捨て鉢な気分になっていたのですが、10月に『37歳になってニートみたいな生活して、全然お前は自分の書くものを正面から見ていない』と、ある方からこってり叱られて、前を向いて、先に進む事を考え始めています。ずっと温めていた書きたい話もあり、しっかりとした資料、取材をしたい話もあるので、行動を始めるだけです。今、僕はようやく前を見る勇気が持てています。普通の会社勤めが自分にはできないことがわかっているので、今年は大変気が滅入って居たのですが、何か、前に進みたいと今思って、このメールを書いています。考えをお聞かせください。よろしくお願い致します。」

それで、ともかく前に進むようにと返事をすると、しばらくして次のようなメールがきた。

「僕はどうしても、普通の人と違う部分があり、それはどうやら遺伝性の物だと知り、この10年、かなりふてくされて生きていました。10年という長い時間を、それで棒に振りました。あまりいい文章が書ける人間ではないですが、僕だけにしか書けないものを誰にでもわかる文章にしていく作業は、好きな作業です。それが、なにか、この先に続いて行かないか、と、今必死に文字を書き始めています。」

6月中旬に届いたメールは次のとおりで、元気に小説を書き続けているのが分かる。

「僕は、初稿を上げるために校正中です。ちょっとした言葉遣いで空気が全然変わっちゃうので、慎重に作業を進めています。また、全体の構成をちょっと変えたら、とも言われているので、お話を分解してリライトしてるところもあります。お互いがんばりましょう!!」

それが、7月に入り突然の死ということになる。実は数日前にお母さんからお手紙が届いたが、それにも

「新しいことへの挑戦がはじまり、はり切って執筆に取り組んでいるとばかり思っていました。なぜ? なぜ? という疑問ばかりが頭の中をめぐって、いまだに、受け止めることができずにおります。」

とあり、ご家族にとってもあまりにも突然だったことが分かる。最後の最後で、作品の完成に行き詰ってしまったのだろうか。コロナのせいで葬式にも行けず、遠くから死を受け止めるしかないのだが、それにしてもあまりにもあっけなくて、ただ茫然自失している。

フォークナー『響きと怒り』を読む

ウィリアム・フォークナー(1897年~1962年)の『響きと怒り』(高橋正雄訳、講談社文庫)を読み終えた。これまでフランスをはじめとするヨーロッパの作家の小説はいろいろ読んでいるが、アメリカの作家のものはあまり読んでいないことに気づき、最近は意図的にアメリカの作家の作品を読んでいる。フォークナーを読むのはその一環だ。

さて『響きと怒り』は1929年に発表されたフォークナー初期の代表作。タイトルは「響きと怒りたっぷりに白痴に語られた何も意味しない話」という『マクベス』の言葉からきているという。著者自身が「白痴の言葉」と言っているだけあって、分かりにくいし、だいいち読みづらい。

それはさておき、作品全体からは、それ自体で完結しているというより、ワーグナーの『ラインの黄金』のように、何か巨大な物語の始まりを感じさせるプロローグのような、あるいはさらに言えば黙示録的という印象を受けた。

文体というか書き方はかなり独自のもので、高橋正雄氏の訳者解説によれば、「この作品で重要なのは、内容よりも、その表現形式なのである」あるいは「第二章のクェンティンの場合は、意識の錯乱や、夢想とも回想ともつかない混沌とした意識下の意識を現わすために、センテンスは途中で途切れたり、文章の書き出しや固有名詞の大文字を小文字にしたり、コンマやピリオドを一切はぶいて単語を一様に羅列させたりして、可能なかぎりの技巧を用いている」となる。このため、読んでいる途中で何度か挫折しそうになった(笑)。『響きと怒り』を有名にしたのは、一つはこの文体なのだろうが、この文体以外の表現方法がなかったかどうかは、私にはよく分からない。

ただ、この作品から文体の問題を省いて整理すると、物語は比較的単純で、冒頭で書いたように、物語のなかで完結しているというより、作品の背後にもっと別の物語が隠されているのではないかという印象を受ける。このため私は「黙示録的」という表現を使ったのだが、それをもう少し普通の言葉で置き換えれば、象徴的と言っていいのかもしれない。そういう意味では、第一章の話者として登場するベンジャミンという白痴の若者も、他の登場人物のお荷物的な存在として最後まで登場するものの、他者とからんだり葛藤したりはできずにそこに存在するものとして描かれているだけで、やはり何かの象徴と考えたくなる(それが何かは分からないが…)。ただし、作品のタイトルの由来を考えると、彼はやはり重要な登場人物だ。

少し視点を変えて、フォークナーと同時代のヘミングウェイ(1899年~1961年)、スタインベック(1902年~1968年)らと比べると、彼らが第一次世界大戦後の社会状況を作品内容に反映させた「ロスト・ジェネレーション」とされるのに対して、フォークナーはそれとは少し違うと分類されることが多いようだが、にもかかわらず、フォークナーの作風は、第一次世界大戦第二次世界大戦の間の表現主義シュルレアリスムの運動と通底しているようにもおもえる。