フォークナー(1897年~1962年)の長編小説『八月の光』(加島祥造訳<新潮文庫>)を読んだ。1932年に発表された小説だ。この時期のフォークナーは、1929年の『サートリス』に続いて、次々とミシシッピー州の架空の土地ヨクナパトーファ郡を舞台とする小説を発表しているが、個人的には、『八月の光』はその頂点に位置するものではないかとおもう。
物語は、アラバマ州に住んでいた未婚の若い妊婦リーナが、失踪した恋人ルーカス・バーチを追ってジェファソンにやってくるところから始まる。ジェファソン到着直前にリーナは近郊の家の火事を見るが、この火事と火災現場での殺人事件に、失踪したバーチとその相棒ジョー・クリスマスが絡んでいることが明らかになり、ここから、物語は過去にさかのぼってクリスマスという男の話になる。『八月の光』は、実質的にこの男クリスマスの物語といってもいい。
ジョーは赤ん坊の時に孤児院の前に捨てられていた父母未詳の孤児で、それがクリスマス直前だったために「クリスマス」と命名され、5歳の時にマッケカン家の里子になる。マッケカンは厳格な長老派(スコットランドを中心とするキリスト教カルヴァン派の分派)の信者で、ジョーを長老派流に教育しようとするが、自己の内部からおこる信仰ではなく、外部から押し付けられる信仰に、彼は強く反発する。このように、ジョーは、一本気ではあるが外からの強制に反発する若者として描かれる。そのままマッケカン家で少年時代を過ごしたジョーは、思春期に娼婦に惹かれ、養父母に乱暴を働いて家出をする。ぶらぶらするうちに30歳を過ぎてジェファソンに流れ着き、そこでバーデン家という一人暮らしの女性の敷地に住み込み、バーデンと関係を結ぶようになる。このバーデンも長老派の信者で、一族にはキャルヴィンという名の者が多い(「キャルヴィン」というのは「カルヴァン」を英語風に読んだもので、故に、この名前が付けられた人物は一般的にカルヴァン派だということを示唆するのではないだろうか?)。ここでも最後に、ジョーはバーデンによる信仰の押し付けに反発して彼女を殺害する(その後バーチが放火する)。
以上のような経緯から私は、この物語を、どうしてもカルヴァン派の分派である長老派の信仰と人間の魂の救済の問題として読みたくなる。
この短い感想文で、カルヴァン派の教義について論じたり、さらにはその分派である長老派について論じることは不可能だが、私が知っているかぎりでは、カルヴァン派とカトリック、ルター派の違いは、神の絶対性が強調され、また個々の人間を救うかどうかは神が決定するものとされ、その決定に人間がかかわることが否定される。つまり人間がつくった組織である教会には人間を救済する力がないということだ。
フォークナーは、こうした簡略な要約以上に長老派の信者たちを身近でよく知り、それ故、多くの登場人物を長老派として描いたのだとおもうが、『八月の光』を読むかぎり、長老派の信仰を肯定的にとらえていたようにはおもえない。
それと、『八月の光』の大きな問題点は、フォークナーがクリスマスを罪人と考えているかだ。つまり、クリスマスが行った殺人を裁くのであれば、殺されたバーデンとの人間関係や葛藤を描くことで十分なはずだが、彼はそうしていない。むしろ、孤児として生まれ、養家で長老派の信仰を強要され、彷徨の果てにまたしても長老派信者の女性とめぐり逢うという、一種の宿命に導かれて罪を犯す人間としてクリスマスを描いている。これは、あたかも現代のオイディプス物語のようだ。
結局、クリスマスの救済や、出産後のリーナの今後の行動という問題についてはこれからじっくり考えるしかないのだが、これは、『八月の光』によってつきつけられた大きな課題だ。
追記 : 藤平育子のフォークナー『アブサロム、アブサロム!』訳注によれば、「『長老派教会的な臭気』とは、長老派の運命予定説的雰囲気が否応なしに漂っていることをいう」(岩波文庫『アブサロム、アブサロム!』上巻331頁)とのこと。