本と植物と日常

本を読んだり、訳したり、植物に水をやったりの日々…。

構成がすごい丸谷才一の『樹影譚』

丸谷才一の『樹影譚』(文春文庫、1991年)を読んだ。「鈍感な青年」「樹影譚」「夢を買ひます」の3篇からなる短編小説集だ。

最初の「鈍感な青年」は私が鈍感なせいか良さがよく分からなかったが、表題作「樹影譚」と「夢を買ひます」はとてもおもしろかった。

まず「夢を買ひます」について簡単に書くと、読者が人を食ったとりとめもない話じゃないかと感じるよう、意図的にとりとめもなく書いているところが、おもしろかった。登場人物の関係や状況は、分かるようでよく分からない。

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小説とは何かという問いかけに充ちた丸谷才一の『樹影譚』

また「樹影譚」は、それ以上におもしろいというか、ちょっと凄い構成だと感じた。この作品は、筋を要約することがほとんど不可能なのだが、断片的な素材をいろいろ組み合わせて、結局それをうまく構成するというより、うまく構成する前に放り出して、断片をどう組み合わせて物語を構成するかの判断は読者にゆだねているというような書き方が、スリリングだった。

それをもう少し具体的に書くと、「樹影譚」は三部構成で、最初に、主人公が壁に映った樹木の影になぜか心惹かれるという逸話から語り出される。次にその主人公が小説家であると紹介され、その小説家がそうした自分の嗜好について自作のなかで書こうか思い悩むという風に話は展開していく。しかしそこで、そういうエピソードはナボコフの作品にもあったじゃないかと、話題はナボコフ論に転換してしまう(ここまでは一人称)。

第二部は三人称で、その小説家・古屋について、客観的な描写が行われる。しかしそのなかでおもしろいのは、古屋の作風紹介という構造を借りた小説論。

「作者と作中人物の関係について、古屋は普通とは違う見方をしてゐるので、作中人物はしばしば、作者の意識に支配されずに自在に行動し、語り、思索して、そして彼らの生き方によつて作者の心の奥をあばくというのが、彼が若年のころに発見し、長い経験ののちいよいよ強固なものになつた小説論なのである。すなはち作中人物の人生は作者の見る夢であつて、夢ではありながら脈絡が必要なのは当然のことだが、それを解読することは読者にゆだれられてゐる。さう考へてゐる古屋は、小説を書きつづける都合からも、自分の過去を意識化したり、それについて図式を作つたりしないやうに努めてゐた。」(同書、87頁)

これは古屋についての描写というより、丸谷自身の登場人物論をここに挿入したと考えた方がいいのではないだろうか。ゆえに「樹影譚」は、第一部のナボコフ論と併せて、小説というより、小説の形式を借りた小説論になっているともいえる。

そして第三部。古屋の物語の続きであり、ここでは小説論的な書き方は鳴りを潜め、通常の物語風に進んで、最後にその物語そのもののどんでん返しがある。

非常に技巧的な作品なのだが、作品全体をとおして何かが解決するというのではなく、小説とは何なのかという問いかけが全体を貫いていて、その問いかけの鋭さが作品のおもしろさになっている。