本と植物と日常

本を読んだり、訳したり、植物に水をやったりの日々…。

自分の翻訳を再度校正

キケロの作品(『国家について』『法律について』『トゥスクルム荘対談集』)を読んだのをきっかけに、それを引用している自分の翻訳の見直しを始めた。私が翻訳しているのは、18世紀フランスの政治思想家の作品で、当時の政治や法律のあり方を論じており、その原点としてプラトンキケロがかなり引用されている。

自分の翻訳を読みなおしてみると、引用部分についての無知もさることながら、ところどころ、誤訳や不適切な訳も目につく。基本的に翻訳というのは正解も終わりもないと私はおもっているのだが、それでもやはり、原文のニュアンスをうまく日本語に置き換えたい。

翻訳に正解や終わりがないというのは、たとえば、

 Je suis japonais.

という表現を、「私は日本人です」と訳しても「俺は日本人だ」と訳しても間違いではなく、正しい訳文が一つとは限らないということ。それを、前後の文脈を考えながら、少しでも日本語として受け入れやすくするのが翻訳という作業だとおもっている。たとえばどういうところの表現を変えたかというと、

 Cette habitude qu’on a contractée, parce qu’on se croyait fort, subsiste.

という文章に、最初私は

「自分は強いと思い込んでいるので、人々が身につけたこの習慣は続きます。」

という日本語をあてていたのだが、自分で読んでみて「習慣が続く」という表現にちょっと違和感を感じたので、

「自分は強いと思い込んでいるので、人々が身につけたこの習慣は残り続けます。」

と変えることにした。Subsisterという動詞を辞書で引くと「続く」という訳語が出ているので、最初の訳でも完全な間違いとは、言えないのだが、あまりこなれているとはいえないような気がした。

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少しでも適切な訳文にしたい!

しかしそれとは別に、明らかな誤訳も見つかった。それはたとえば、

 Le législateur commencera à nous rapprocher beaucoup des vues de la nature, quand il aura contraint cette passion à n'être que conservatrice.

という文章で、最 初私は、

「この情念が保守的なものでしかないよう強制するとき、立法者は、われわれを自然の観点に非常に近づけることから始めるでしょう。」

と訳していたとのだが、この訳文には時間の前後関係について文法的な間違いがあり、

「この情念が保守的なものでないよう拘束したならば、立法者は、われわれを自然の観点に非常に近づけ始めたことになるでしょう。」

と訂正した。「情念を強制する」という言葉に引っかかり、原文を読み返したら時制に関して根本的な間違いがあると気がついた次第。

完璧は不可能だとしても、きちんと読み返して、すこしでも適切な翻訳にしていきたいとおもっている。