本と植物と日常

本を読んだり、訳したり、植物に水をやったりの日々…。

18世紀の冒険小説『セトス』を読む

今回は、いつもと少し趣向を変えて、18世紀フランスの冒険小説『セトス』に挑戦してみた。

この小説は、ジャン・テラソン師(1670年~1750年)の作品で、古代エジプトおよびアフリカ大陸を舞台にしている。ギリシア語で書かれた古代エジプトの歴史物語が見つかったのでそれをフランス語に翻訳し紹介するというふれこみで、1731年に出版された。大長編で、邦訳は、その一部である第8巻だけが、岩波書店ユートピア旅行記叢書」第10巻に収載されている(永見文雄訳、岩波書店、2000年)。この作品は出版当時大好評で、テラソンは、『セトス』刊行直後にアカデミー・フランセーズ会員に選ばれている。また彼は当時の文学論争に加わったことでも有名で、『セトス』執筆以前の1715年、近代文学支持者として『ホメロスイリアスに関する批判的論考』を書いている。

『セトス』がおさめられている「ユートピア旅行記叢書」第10巻

さて『セトス』の主人公は作品のタイトルになっているセトスで、彼は、古代エジプトにあった4王国のうち、メンフィスの王子という設定。テーベとの戦争で負傷するが一命をとりとめ、その後、アラビアから喜望峰を経てアフリカを一周し、その間さまざまな出来事に遭遇しながらエジプトに帰還する。奇想天外というしかない!

ユートピア旅行記叢書」に収載されているのは、このうち、アフリカの西海岸にあるアトランティス王国を訪問した際のエピソード。この国は、名前からはアトランティス伝説を想起させるが、『セトス』のなかでは現在のモロッコの南方あたりに設定されている。このアトランティスの国制紹介がユートピア物語に相当するということで、アトランティス訪問のエピソードだけが抜き出されて、「ユートピア旅行記叢書」におさめられている。

そこでこの叢書の編纂者の意図にしたがってテラソンが描くアトランティス(ユートピア)の国制を簡単にみてみると、まず、アトランティスでは宗教が非常に重んじられており、「宗教を維持するには、何人かの個人の現実に存在する内面的な信仰心を頼りにするだけではけっして十分ではない、国民全体を結びつけるある種の儀式の外面をそれに付与しなければならない」(本書36頁)と考えられている。政体は選挙王政で、近隣の他の国とはほとんど交わらず、戦争も放棄している。国民は、市民、商人、職人の三階層からなる。奴隷は存在しない。市民の収入はもっぱら所有地と家屋による。経済をになうのは商人の階層だが、外国との交易は家畜と果物の交換程度で、それは王に紹介された世話役が行う。商人は世話役からしか商品を受け取らず、市民にしか小売りしない。職人は他の国と共通だが、貧困に苦しまないよう、困ったときには国家が生活を埋め合わせる。

アトランティスでセトスは、カルタゴから亡命している旧知の王子ジスコンに出会い、ジスコンを助けるたるアトランティスを後にする。この国での一連のエピソードのなかでは、ジスコンの妻ザリトの婦徳の描写が読みどころと言えよう。

以上が、「ユートピア旅行記叢書」におさめられている『セトス』のあらすじだが、これだけでは、作品全体がおもしろいのかどうか、私にはよく分からなかった。ただし出版当時は、さまざまな苦難や冒険を重ねながらセトスが成長していく一種の教育小説として読まれたらしい。

『エジプト王ターモス』は『セトス』から派生した物語だ。

この作品の一種の後日譚として、ドイツの作家トビアス・フォン・ゲプラー(1726年頃~1786年)が英雄劇『エジプト王ターモス』を書いており、その劇には、若いモーツァルト(1756年~91年)が1773年に付随音楽を作曲している(K. 345)。また『セトス』の世界観は、『魔笛』(K. 620)にも影響を及ぼしているようだ。

 

ダーントン『猫の大虐殺』を読む

ロバート・ダーントンの『猫の大虐殺』(1984年、海保眞夫、鷲見洋一訳、岩波現代文庫<岩波書店>、2007年)を読んだ。本書は最初、岩波書店から単行本として1986年に刊行されたが、私が読んだ岩波現代文庫版は、そのなかから第3章、第5章を省略して編集した簡略版。この現代文庫版は、「農民は民話をとおして告げ口する――マザー・グースの意味」「労働者の叛乱――サン・セヴラン街の猫の大虐殺」「作家の身上書類を整理する一警部――フランス文壇の分析」「読者がルソーに応える――ロマンティックな多感性の形成」の4章で構成されている。各章は独立した歴史的論考。主として17世紀から18世紀の史料を独自の観点から読み込んだもので、それぞれの章に直接的なつながりはない。全体をとおし、ダーントンは歴史の表面にはなかなか浮かび上がってこない一般的な人々に焦点をあて、そこから歴史の見直しを促している。

これに関して、岩波現代文庫版のために寄稿した序文のなかで、ダーントン自身が自分の意図について語っているので、まずそれを紹介しておこう。

「(猫の)虐殺にはいろいろ意味づけができ、それらの意味をさまざまに構築したり、結合したりできるのです。そうした複数の意味を、ミステリー小説の結末みたいに、たった一つの結論に還元してしまうのは、人間の営み一般について、また、18世紀に労働者がいかに主人を愚弄できたかということについて、誤解することにほかなりません」(本書viii頁)。ダーントンがこだわるのは、たとえば猫の虐殺という象徴的なできことの「複合性や多様性」(本書vii頁)だ。

18世紀の猫の虐殺から民衆心理を探った『猫の大虐殺』

前置きはこのくらいにして、本書の内容を章ごとに追ってみよう。

「農民は民話をとおして告げ口する」は、いわゆるマザー・グースとして知られるヨーロッパ各地の民間に伝えられた童話の原型を模索し、それらを比較しながら、地域差やそうした違いを生じさせた民衆心理を明らかにしたもの。

「労働者の叛乱」は、18世紀前半にパリのサン・セヴラン街の印刷工場に徒弟奉公していたニコラ・コンタが残した猫の虐殺に関する手記から、当時の印刷工場の実態を探ったもの。ちなみに、印刷工は職業柄読み書きができ、したがって、機会があれば、自分の身の回りのことを書き残すことができた。本書全体の表題にもなっているので、猫の虐殺というできごとの顛末を簡単に紹介すれば、普段の待遇への不満から、雇い主の命令を口実に、印刷工が工場の周囲に棲んでいた猫や雇い主が大事にしていた猫を、まさに虐殺する話である。ダーントンによれば、「旧制度下のフランス人は、猫の唸り声を聞くと直ちに魔女、夜の饗宴、寝取られ男、嫌がらせの儀式、虐殺を連想した」(本書143~4頁)とのことで、この事件に限らず、18世紀当時、猫はカーニヴァルなどのさまざまな機会に殺されることが多かったようだ。18世紀は猫の受難の時代だったといえるかもしれない。

「作家の身上書類を整理する一警部」は、パリの警察に勤務し出版業を監視していた警部ジョゼフ・デムリが書き残した調査書類から、一流とはいえない名もない作家がどのような生活をしていたのかを拾い出したもの。

「読者がルソーに応える」は、フランス西部のラ・ロシェルに住んでいた商人ジャン・ランソンがヌーシャテル印刷協会(この協会の史料は、ダーントンのさまざまな研究にネタを供給する宝庫になっている)に宛てた書籍の注文書から、一般の読者がどのような書籍をどのように読んでいたかを探ったもの。注文書からはランソンがルソーの熱心な読者・崇拝者だったことが分かり、ルソーの何がランソンを魅了し、身銭を切って高価なルソーの書籍を購入させたのかに迫っていく。

個人的に一番おもしろく読めたのは「作家の身上書類を整理する一警部」の章。デムリは501人もの作家の身上調査書を残しており、さまざまな作家たちの外見的な特徴や彼らがどのように生活していたのかという実態が克明に分かるからだ。

まず風貌だが、ヴォルテールは「背が高く、冷ややかで、好色漢の風貌」(本書189頁)、ディドロは「中背、かなり品のいい人相」(本書234頁)などと、デムリは記している。

また作家たちの実態はといえば、「筆を執る者の尊厳とその使命の神聖さとは、既に作家の主目的として啓蒙思想家たちの著作に現れている。だが、デムリの調査書にはこうした観念は見当たらない。警察当局は作家の存在に気付くと分類し、その経歴を調査書類に記載はしたが、彼らを特定の専門職あるいは社会的地位の所有者とはみなしていない。作家たちはそれぞれ紳士、僧侶、法律家、あるいは従者なのであって、作家という独立した資格は存在しない」(本書209~10頁)のであり、また、「庇護者からの解放、文学市場の完全な自由化、著述への全面的献身といったものが作家のあいだにいまだ確立していない以上、伝統的な分類体系のなかに彼らを独立した存在として位置づけるのは不可能だった」(本書210頁)という。

さらに注目すべきなのは、次のような事実である。

「彼は作家を指すのにしばしば<少年(がルソン)>という語を用いている。この言葉は実年齢と葉無関係である。ディドロは当時37歳で、結婚して子供もいたが、それでも<少年>と言及されている」(本書210頁)。

目立つ仕事をしていても、一般的にみれば、作家は、世話の焼ける大きな子供に過ぎなかったのだろう。

こうした作家たちを日常的に監視しながらデムリは何を感じていたのだろうか。彼は、「革命を予見していたわけではない。だが、文芸共和国を検分して彼が感じたのは、高まる世論の敵意のまえに、王政が日毎弱体化していること」(本書224頁)であった。警察の力では、そうした弱体化を阻止することはできない。対症療法的に、目にあまる著作やその著者を摘発することだけだ。

しかし、「ディドロおよび彼と同臭の徒についてのデムリの調査書は、従来漠然としていた知識人の姿が次第に明確な輪郭を備えてきたことを示している。近世初期のフランスにおいて、知識人は無視し得ぬ力となりつつあった」(本書232頁)というのが、この章でのダーントンの結論である。

残念だった藤原歌劇団の『ファウスト』

昨日は東京文化会館藤原歌劇団によるグノーの歌劇『ファウスト』の公演を聴いた。オケは東京フィルハーモニー交響楽団、指揮は阿部加奈子。グノーの歌劇を実演で聴くのは、私にとって今回が初めて。手持ちの3種類のCD(クリュイタンス指揮、ボニング指揮、プラッソン指揮)を何度か聴いて、曲のだいたいのイメージをつかんで公演に臨んだ。

メフィストフェレス役のカッチャマーニ(中央)が圧倒的だった『ファウスト

原作はもちろんゲーテの『ファウスト』だが、この話は非常に入り組んでいて長いので、歌劇の台本は、細かな話は全部刈り込んで、メフィストフェレスの魔力で若返ったファウストがマルグリートと出会い、誘惑し、捨てる話と、それによって清純さを失ったマルグリートが救済される話に絞ってすすめられる。作品の構造としては、ファウストとマルグリートは、名目的には主人公でもどちらかと言えば受け身の存在で、メフィストフェレスが積極的な行動を行って、物語をひっぱっていく。

演奏が始まると、まず最初の1音で「あれっ」とびっくり。ベートーヴェンの『エグモント』序曲の出だしととてもよく似ているのだ。考えてみると『エグモント』もゲーテ原作で、ゲーテの戯曲のもつイメージがベートーヴェンとグノーに、同じようにたたきつけるような和音の強奏で始めさせたのだろうか。この相似は、CDを聴いていたときはまったく気がつかなかった。

歌劇全体としては、合唱の役割が非常に大きいという印象を受けた。要所要所に、それこそギリシア悲劇のコロスのように合唱が入り、いわば民の声を代弁しながら物語をすすめていく。また、19世紀のフランス・グランドオペラでバレエが重視されるということは知っていたのだが、それがどれほど重要なのかは、今回の公演を観て初めて分かった。

演奏としては、ともかく、メフィストフェレス役で初来日したアレッシオ・カッチャマーニが声、演技ともに圧倒的で素晴らしかった。彼は上背があるので、舞台に立っているだけでも迫力があった。逆に、主役のファウストを演じた村上敏明は大不調で、聴かせどころで声がかすれ、メフイストフェレスにやられっぱなしのような感じだった(本来の主役が降板して代役として抜擢されての歌唱だったらしい)。マルグリートの兄ヴァランタンを演じた岡昭宏も好演。

演出と装置は、舞台の上に巨大な可動スクリーンを3枚並べ、それに場面に会ったイメージを投影したり、位置をずらして出演者が登場する扉として使ったりという、よく言えば象徴的なタイプ。場面転換が多いので、それもやむなしというところだろうか。また決闘シーンが何か所かあるのだが、それは日本刀を使ったチャンバラのようで、違和感をおぼえた。

総合的に言って、めったに聴かない歌劇が聴けたという意味ではありがたかったが、ファウスト役の不調もあって、声の絡み合いからくる興奮が薄い、残念な公演だった。

訳者からのメッセージを出版社に送る

『精神について』の巻頭に入れる<訳者からのメッセージ>、水曜日にようやく書き終えて出版社に送った。ほんとうは先週末に書き終えたかったのだが、けっこう難産で、時間がかかった。材料不足とか原因はいろいろあるが、出版社から送られてきたサンプルが<である調>で、それだと気分がなかなか乗らなかったのだ。そこで文体を<です・ます調>に変えたら、比較的スムーズに書くことができ、3,400字ほどの小エッセーになった。

<訳者からのメッセージ>をようやく書き終えた

書き出しは、『<精神>という言葉から現代の読者は何を想像するでしょうか。そしてまた18世紀の読者は何を想像したのでしょうか』という感じだ。

続いて、『精神について』の題字の下にエピグラフとして引用されている古代ローマの哲学者ルクレティウスの言葉「精神の本性は何からできているか、知らねばならない云々」を入れておいたところ、出版社からすぐに、「その言葉はゲラに見当たらない。どこからとったのか」という質問がきた。要は、共訳者が翻訳原稿のなかにそれを入れていなかったのだ。今度は共訳者の意向を確認し、エピグラフを挿入することで一件落着。

ともかくメッセージの原稿を入れたので、2月早々には二次校正用のゲラが送られてきそうだ。

ということで、昨日は空いた時間に読み直そうと、メッセージの原稿をもってコンサートへ。

その会場で友人に、友人の友人であるR教大学名誉教授のKさんを紹介されたのだが、話してみると、Kさんの研究領域は18世紀フランスの経済思想ということで、私が関心をもっている分野ときわめて近い。さらに話してみたら共通の知り合いがいたりして、話がけっこう盛り上がった。

分かれるときに、挨拶代わりにと、たまたまもっていた<訳者からのメッセージ>の原稿をお渡ししたところ、家に帰ったら、「お礼に」と、彼の論文が送られていた。

これから何かと情報交換できそうで、良い方と知り合った。

『マルゼルブ フランス18世紀の一貴族の肖像』を読む③ーールイ16世の弁護人

大革命が始まったとき、マルゼルブは、すべての公職から退いていた。しかし国王裁判が決定し弁護人の引き受け手がなかったときに、マルゼルブはすすんで弁護人を引き受ける。

この行動にたいし、ルイ16世は次のようにこたえたという。

「親愛なるマルゼルブ殿 貴殿の至高の献身にたいするわたしの気持を表現することばもありません。貴殿はわたしの願望を先取りして下さり、70歳になった貴殿の手をさしのべて、わたしを処刑台から遠ざけようとされています。わたしがもしまだ玉座を占めているなら、それを貴殿とわかち、わたしに残されている半分の玉座にふさわしくなるでありましょうに」(本書337頁)。

ルイ16世は1793年1月12日に処刑され、翌年4月22日、マルゼルブも処刑される。木崎氏はこれを、次のようにまとめている。

「マルゼルブが身を捧げたのは、ルイ個人のためだけではなかったであろう。ルイはそれに値しなかった。マルゼルブが身を捧げたのは、かれの72年の全存在の大義のためであったようにわれわれには思われる」(本書341頁)。

そして本書は、次のように結ばれる。

「大革命のとき、かれは過去の人であった。かれは新しい時代を生むために、その72年の生涯を捧げた古い時代の人間であった。マルゼルブの死は、いま消えようとする古き時代に捧げられたもっとも美しい頌歌であった」(本書350頁)。

先に木崎氏の訳語について批判したが、全体として考えれば、本書は非常にすぐれたマルゼルブの伝記であり、旧体制下の出版事情もよく分かる。またマルゼルブの思想に対する木崎氏の共感が溢れており、それがストレートに伝わってくる。

『マルゼルブ フランス18世紀の一貴族の肖像』を読む②ーー租税法院長から大臣に

ここで、マルゼルブについてあらためて紹介しておくと、有力な法服貴族の家に生まれ、1750年、父ラモワニョンが大法官になったのにともない、同年租税法院院長およびDirecteur de la librairieに就任した。租税法院院長時代に行った建言は評判が高く、ルイ16世が即位すると宮内大臣に任命され、それは短期間で辞するが、フランス王国が危機の様相を高めた1787年、国王に請われて再度国務大臣となる。しかしこの時もマルゼルブの考えは国王や他の大臣には受け入れられず、88年に大臣を辞してなかば引退する。革命が起こり、ルイ16世の裁判が始まると、誰も引き受け手がなかったルイ16世の弁護人をすすんで引き受け、このため、ルイ16世の処刑後、自身も処刑される。

     *     *     *

木崎氏の『マルゼルブ』では、後半部分で、租税法院長、大臣、ルイ16世の弁護人としてマルゼルブの活動が紹介されるので、それを簡単にみておきたい。

さて、フランス旧体制下の租税法院という組織はあまりあまり知られていないのだが、高等法院(バルルマン)とならぶ最高諸法院の一つで、①租税に関する法令を承認し登記する、②租税に関する係争の最高裁判権をもつ、③租税問題に関する建言権をもつなどの権限を有し、国王権力からは独立していた。マルゼルブは、その院長として、たびたびの建言によってルイ15世時代の徴税に関する法律や徴税システムを批判した。木崎氏は、それは次のような内容のものであったとする。「かれはまず、人民の所有権の神聖さを強調し、これが、征服によっても侵しえない権利であると宣言する。したがって、王権もまた所有権を超えることはできないゆえに、人民にたいして恣意的な租税を課すことはできない。租税は、人民から国王への自発的貢納である」(本書252頁)。

こうした率直な建言を行ったため、国王側から疎まれると同時に市民のあいでは非常に人気が高く、ルイ16世時代には2度国務大臣に起用された。ただし、大臣としてのマルゼルブはほとんど実績を残していない。マルゼルブは、政治家として器用に立ち回るというタイプではなかったようだ。

「(二度目の大臣期間の)閣内におけるマルゼルブの立場は前回以上に空しいものであった。国王はかれを内閣に招いたにもかかわらず、ほとんどかれに発言の機会を与えなかった。かれが提出する意見書も国王のわずかの反応さえひきおこさなかった。ルイ16世は、おそらくマルゼルブが提出する事実の冷厳さと、かれがそれについて述べる議論の正当さに直面する勇気を持たなかったのであろう」(本書318頁)。

『マルゼルブ フランス18世紀の一貴族の肖像』を読む①ーー出版行政とのかかわり

木崎喜代治氏の『マルゼルブ フランス18世紀の一貴族の肖像』(岩波書店、1986年、以下『マルゼルブ』と略記)を読んだ。著作や建言などを交えながら、18世紀フランスの政治家クレチアン=ギヨーム・ド・ラモワニョン・ド・マルゼルブ(1721年~94年)の一生を追った研究書だ。今回も2回に分けて、その問題点や内容を紹介したい。

出版監督の視点から問題点を取り上げた『マルゼルブ』

さて、1750年代にマルゼルブはDirecteur de la librairie(出版行政の監督)を務めており、当時の出版システムの詳細や当事者の考え方を知るという意図から、この作品は、これまで何度も読んでいる。今回再度この本を読みなおしたのは、直前に読んだダーントンの『検閲官のお仕事』(みすず書房、2023年)と比較するためだ。すると驚いたことに、18世紀の出版や検閲に関する木崎氏の捉え方は、ダーントンとかなり異なっている。

まず<Directeur de la librairie>という役職だが、『検閲官のお仕事』の訳者は<出版監督局長>としているのに対し、木崎氏の訳語は<出版統制局長>だ。ようするにこの部局は出版を<監督>するのか<統制>するのか捉え方が違うので、それに応じて訳語が違うのだ。

そこで両作品を比較しながら18世紀フランスの出版行政、検閲、特認について考えてみたのだが、まず、出版者側がなぜ国に対して特認を求めるかというと、それによって自分たちの出版物を公的に認知してもらい、海賊版が出るのを防ぐ(排除してもらう)という事が大きな目的だったように思われる。つまり、18世紀フランスには著作権の制度がなく、著者は出版者から一定額の原稿料を受け取るというシステムだった。こうした原稿料はそのまま出版者の経費となるわけで、それに印刷費や流通経費を加えた投資を守るために、出版者は、出版物の公的認知を求めたのではないだろうか。

こうした観点からすると、<検閲>は、特認を与えるための国家側の条件(前提)であり、この検閲には、ダーントンが指摘しているように取締りという色彩は薄く、むしろ良書を公認するために作品に内容の齟齬はないか、文章の誤りはないかなどをチェック(検閲)したのだと思われる。

たとえば18世紀の代表的出版物『百科全書』を考えた場合、さまざまな分野の新しい知識を掲載するというこの本の性質上、その内容を詳細にチェックすることは執筆者でない限り不可能と考えられ、またページ数の多さを考えたときにも、厳密な内容点検は不可能だったのではないだろうか。

こうしたことから判断すると、<Directeur de la librairie>の訳語としては、<出版監督局長>の方が適切であるように思われる。

ただし木崎氏も、本の流通がもつこうした側面を看過しているわけではない。

「出版統制の歴史をふりかえるとき、そこには、しばしば思想統制とは別の考慮が働いていることがわかる。それは経済的考慮である。出版活動は文化活動であると同時に経済活動でもある。したがって、とくに産業活動一般が上級の権威の介入に服している場合、著者あるいは書店、あるいは印刷業者、あるいは国王、あるいは国民全体の経済的利益が、たしかに出版統制全体を左右することがあった。検閲の観点からみるとき当然に禁止されるべき書物が、営業規制の観点から許可されるという例は、のちに見るように数多く存在する」(本書19頁)。

この点に留意しながら読むと、木崎氏の著作には、ダーントンの著作にはない優れた点が数多くある。それは、librairieの歴史、機構、認可の種類、書店の営業規制など、出版行政の諸要素について、ダーントンとは違って体系的に詳しく触れているという点であり、また人物伝という著作の性格から、『百科全書』刊行、ルソーの出版活動とマルゼルブ個人の関係なども紹介されている。

マルゼルブの『出版論』と『出版自由論』をまとめたテクスト

またマルゼルブの出版理念を示すものとして、木崎氏はマルゼルブの『出版論』(1759年頃執筆)および『出版自由論』(1788年頃執筆)を取り上げ、次のように書いている。

「出版の自由が政治にたいしてもつ不可分の関連ーーとりわけ、絶対王政が動揺し、国民を代表する議会が要求されている時代においてーーを考えるとき、われわれは、マルゼルブの出版自由論を、その時代の政治的状況の変動のなかで、したがってまた、マルゼルブの政治理念の発展のなかで、理解すべくつとめなければならないであろう」(本書156~7頁)。

いずれにしても、出版に関するマルゼルブの基本的な考え方は、『百科全書』をはじめとするさまざまな本を自由に出版させるというもので、出版行政のトップという地位を利用して、統制というより、多数の本を出版させた。このためマルゼルブの監督時代は、いわゆる啓蒙思想を代表するさまざまな書籍が出版されたことで知られている。