本と植物と日常

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『マルゼルブ フランス18世紀の一貴族の肖像』を読む②ーー租税法院長から大臣に

ここで、マルゼルブについてあらためて紹介しておくと、有力な法服貴族の家に生まれ、1750年、父ラモワニョンが大法官になったのにともない、同年租税法院院長およびDirecteur de la librairieに就任した。租税法院院長時代に行った建言は評判が高く、ルイ16世が即位すると宮内大臣に任命され、それは短期間で辞するが、フランス王国が危機の様相を高めた1787年、国王に請われて再度国務大臣となる。しかしこの時もマルゼルブの考えは国王や他の大臣には受け入れられず、88年に大臣を辞してなかば引退する。革命が起こり、ルイ16世の裁判が始まると、誰も引き受け手がなかったルイ16世の弁護人をすすんで引き受け、このため、ルイ16世の処刑後、自身も処刑される。

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木崎氏の『マルゼルブ』では、後半部分で、租税法院長、大臣、ルイ16世の弁護人としてマルゼルブの活動が紹介されるので、それを簡単にみておきたい。

さて、フランス旧体制下の租税法院という組織はあまりあまり知られていないのだが、高等法院(バルルマン)とならぶ最高諸法院の一つで、①租税に関する法令を承認し登記する、②租税に関する係争の最高裁判権をもつ、③租税問題に関する建言権をもつなどの権限を有し、国王権力からは独立していた。マルゼルブは、その院長として、たびたびの建言によってルイ15世時代の徴税に関する法律や徴税システムを批判した。木崎氏は、それは次のような内容のものであったとする。「かれはまず、人民の所有権の神聖さを強調し、これが、征服によっても侵しえない権利であると宣言する。したがって、王権もまた所有権を超えることはできないゆえに、人民にたいして恣意的な租税を課すことはできない。租税は、人民から国王への自発的貢納である」(本書252頁)。

こうした率直な建言を行ったため、国王側から疎まれると同時に市民のあいでは非常に人気が高く、ルイ16世時代には2度国務大臣に起用された。ただし、大臣としてのマルゼルブはほとんど実績を残していない。マルゼルブは、政治家として器用に立ち回るというタイプではなかったようだ。

「(二度目の大臣期間の)閣内におけるマルゼルブの立場は前回以上に空しいものであった。国王はかれを内閣に招いたにもかかわらず、ほとんどかれに発言の機会を与えなかった。かれが提出する意見書も国王のわずかの反応さえひきおこさなかった。ルイ16世は、おそらくマルゼルブが提出する事実の冷厳さと、かれがそれについて述べる議論の正当さに直面する勇気を持たなかったのであろう」(本書318頁)。