ヘンリー・デイヴィッド・ソロー(1817年~62年)の『森の生活(ウォールデン)』(1854年、飯田実訳、岩波文庫)を読んだ。あらためて説明する必要もない19世紀アメリカ文学の古典だ。
ウォールデンは、マサチューセッツ州東部の小さな町コンコードにある面積250,000㎡、周囲2.7kmの小さな湖。周囲は森に囲まれている。28歳のソローは自力でその湖畔に小屋を建て、1845年7月から約2年2カ月、そこで生活した。『森の生活』は、その折に観たもの、感じたことなどをまとめたエセー風の作品だ。
といっても、ソローは周囲との縁を完全に断ち切って世捨て人のような生活をしていたわけではなく、家のまわりを耕して畑にし、その収穫を自家消費するだけでなく、一部はコンコードで販売し、生活資金にあてている。またさまざまな来訪者も受け入れている。
またこの作品では、ウォールデン湖と森の周辺の博物学的な細かい自然観察がおもしろいのだが、それ以上に、人間は何を求めて生きるべきかという問いかけの鋭さが光っている。そうした問いかけの端々で、ソローは『聖書』やギリシア・ローマの古典とならんで『論語』や『バカヴァッド・ギーター』などを引用し、東洋の英知を讃える。東洋思想と自然の中での生活が融合し、それが社会批判、文明批判につながっていくのだ。
(そもそも『論語』は、社会の中で人間がどのように生きるべきかという孔子の言葉をまとめた書物であり、厭世的な世界観からはほど遠い。)
なので、アメリカ文学の古典といっても、アメリカ的な価値観にのっとってそれを肯定しているのではなく、『森の生活』はむしろ、アメリカ的、あるいはより広くさまざまな物質に取り囲まれた文化的な生き方にたいして根本的な疑問を投げかけている。そこが、この作品の価値といえるだろう。そしてソローが生きていた時代以上に物質が氾濫し、さらにはそうした物質から生みだされたさまざまな情報の氾濫のなかで生きている現代のわれわれにとって、『森の生活』が提起する問題点の意味はますます大きくなっているのではないだろうか。
『森の生活』は季節の移り変わりを記し、湖全体が凍りつくほどの厳しい冬の描写のあとに春の訪れを語っている。そしてその自然観察は、すぐに人間観察に結びつく。
「たった一度のやさしい雨が、草の緑色をいっそう深めてくれる。同様に、よい思想が到来すると、われわれの前途は明るくなる。もしわれわれが、つねに現在に生き、天から降って来るわずかな露の感化をもありのままに表白する草のように、わが身に降りかかるあらゆる出来事をうまく活用できるならば、また、過去の好機を見のがしたことのつぐないに時間を費やして、それを義務の遂行と呼んだりしないならば、われわれは幸福になれるだろう。もう春は来ているというのに、われわれは冬をさまよっているのだ。」 (『森の生活』下巻、257~8頁)
作品全体の結びも、とても印象的だ。
「われわれの目をくらます光は、われわれにとっては暗闇である。われわれが目覚める日だけが夜明けを迎えるのだ、新たな夜明けが訪れようとしている。太陽は明けの明星にすぎない。」(『森の生活』下巻、294頁)