本と植物と日常

本を読んだり、訳したり、植物に水をやったりの日々…。

映画『12人の怒れる男』の作品構成に疑問

このところ、(18世紀)フランスの司法制度に関する本をたくさん読んだので、昨晩は、ちょっと視点をずらしてこの問題を考えてみようと、『12人の怒れる男』(1957年、シドニー・ルメット監督)のDVDを鑑賞した。いわずと知れた陪審員制度をテーマとしたアメリカの古典的な映画で、日本では1959年に公開され、同年のキネマ旬報外国映画ベスト1に選出されている。

陪審員

ただし結論から言うと、私はこの映画にあまり感心しなかった。この映画が作品として高く評価されたのは、裁判のドラマであるにもかかわらず、裁判シーンも犯行シーンもまったくなく、陪審員控室での討議だけで緊迫した状況を構成したという作劇法と、不当な裁判過程を追及する<民主主義>の精神をストレートにうたい上げているということによるのではないだろうか。しかし、被告を告発した検事側の非も、それを追求しきれなかった弁護側の非力も問われないまま、陪審員たちの議論で被告の無実が確立されて終わるという作品の構成は、議論そのものにいくら迫力があっても問題があるのではないだろうか。

要するに、作品全体の印象として、あいまいな状況証拠だけで殺人犯とされた若者が罪なしとされてよかった、鋭い判断力をもった良心的な陪審員がいてよかったというのではなく、それ以前の問題として、こんないい加減な裁判(審議)がまかり通っていいものか、もし良心的な陪審員がいなかったら結論(評決)はどうなったのかという気がしてくるのだが、その点を、映画はまったく素通りしているのだ。

結局、これはレジナルド・ローズの原作・脚本が抱えている根本的な問題ではないだろうか。

陪審員は名演技で、なかでも陪審員8を演じたヘンリー・フォンダが、この役を演じたくてプロデュースまでしたというのは、分かるような気がするが…。