本と植物と日常

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現実と非現実の境目に迫ったイラン映画『クローズ・アップ』

元旦は、自宅でイラン映画『クローズ・アップ』(1990年、アッバス・キアロスタミ監督)を鑑賞した。キアロスタミ作品もイラン映画も、鑑賞するのはこれが初めて。

現実の不透明さに迫った『クローズ・アップ』

この作品は、サブジアンという失業中の男が、実在するイランの映画監督マフマルバフになりすまし、だました家族から詐欺未遂で訴えられた実際の事件を追ったもの。映画は、サブジアンおよび司法関係者の許可を得て撮影した法廷シーン(黒白)と、サブジアンをはじめとする関係者たち本人によって事件の経緯を再現したシーン(カラー)で構成されている。また、この事件に興味をもったキアロスタミ監督が、公判開始前にサブジアンに撮影許可を求めるシーンも、ドキュメンタリーとして収録されている。

ともかく通常の映画とはまったく違うつくり方をしており、作品全体がどうなるかを見通して制作を開始したというより、おそらく、まずは裁判を撮影するということで企画が立案され、裁判の結果を待って他のシーンが構想され、編集されて、一つの作品になったのだろう。この作品にも、一応、物語としての流れ(ストーリー)はあるのだが、その流れはほとんど意味をもたない。映画の中のセリフにもあるのだが、観ていて、一つひとつの言葉が現実なのか演技なのか判断できない部分があり、その不透明さを不透明なまま映し出しているのがこの作品の不思議な魅力になっている。

不透明と言えば、映画の最後の場面(おそらくこれは、決められた設定にもとづく即興的なシーンだろう)は移動カメラと簡易的な録音機器を使って撮影されているのだが、このため画面に障害物が映りこんだり音声が途切れたりする。しかしそれがまた、映されているシーンの再現は不完全だが、撮影現場の混乱は事実という奇妙な現実感を生み出している。

結局、監督キアロスタミの「映画が映し出すものは現実なのか非現実なのか」という問題意識が非常に深く、またどのようにしたらそうした意識を作品に反映できるかという方法論的な模索がそれにともなっているので、普通の人ならなんとも思わないような三面記事的な出来事をきっかけにして見事な作品がつくれるのだろう。

ちょっと類例のない優れた作品だった。

https://www.youtube.com/watch?v=Gww8jC_4Xz0