本と植物と日常

本を読んだり、訳したり、植物に水をやったりの日々…。

西洋近代芸術の成立史をコンパクトにまとめた『近代美学入門』

井奥陽子の『近代美学入門』(ちくま新書、2023年)を読んだ。

内容は「芸術――技術から芸術へ」、「芸術家――職人から独創的な天才へ」「美――均整のとれたものから各人が感じるものへ」「崇高――恐ろしい大自然から心を高揚させる大自然へ」「ピクチャレスク――荒れ果てた自然から絵になる風景へ」の5章で構成され、近世ヨーロッパ世界で<芸術>等の概念が生み出されていく過程をコンパクトにまとめている。

コンパクトで分かりやすい『近代美学入門』

本書の冒頭で井奥は次のように問題提起する。「芸術とは、芸術家が自分の思いや考えを表現したものである。すでにある作品と似たような作品は価値が低い。オリジナリティがあり、作者の気持ちが発露した作品こそが優れている。この点で芸術家は職人とは異なる、等々。こうした考えは、近代美学に基づいたひとつの見解でしかありません」(本書16頁)。また、「私たちには知らず知らずのうちに、近代美学の考え方が刷り込まれているのです」(同17頁)。そして、「無意識のうちに内面化している価値観を客観視して相対化するために、近代美学を学ぶことは非常に重要」(同17頁)と指摘する。

本書の内容は、さまざまな引用や例を用いて、こうした著者の考え方を具体的に明らかにしたものである。また18世紀の中ごろが、こうした<芸術>等の概念が成立した画期と考えられるので、私にとっては、18世紀とはどのような時代かを考えるうえでもとても参考になった。

そのあたりをもう少し本書の内容に即して書けば、日本語の<芸術>も<技術>も、英語・フランス語では<art>になるが、近世以前、この言葉はもっぱら<技術>を意味し、いわゆる<芸術>という意味は、近世になってから遅れて派生したということだ。それを日本語で表現しようとすると、<芸術>なのか<技術>なのか、指し示す内容に応じて訳し分けなくてはならないが、逆に英仏の言語で考えると、どちらも同じ<art>なので、境目が難しいということになる。<技術>から<芸術>が分化したころに、英語であれば<fine arts>、フランス語であれば<beaux arts>という言葉が生まれ、それが従来考えられていた<art(技術)>とは異なる<art(芸術)>を指すようになったと、井奥は指摘している。

このことは同時に、フランス語の<beau>という言葉の概念(意味)にも変化を及ぼし、<beau>は、単に<素晴らしい(英語のfineに近い)>という概念だけでなく<美しい>という概念をも指すようになった。そこから今度は<美(beauté)>という概念が新たに生まれてくる。

それでは、それまでなぜartと<美>が直接結びつかなかったかというと、近世以前、人間がつくり出した作品(art)は、神の作品の模倣に過ぎず、不完全なものだと考えられていたからだと井奥は言う。逆に言えば、人間がつくり出したものに神の作品とは別の価値を認め出した瞬間に<芸術>という観念が生まれ、<芸術>を<芸術>たらしめる要素として自立的な<美>が誕生したということになるだろう。

このあたり、議論としての新しさは少ないかもしれないが、こうした変化の経緯が『近代美術入門』ではうまくまとめられている。

ちなみに、私が訳している『精神について』のなかには<beau>という言葉がかなり出てきて、それは現代的に<美しい>というより<素晴らしい>という意味をもつことが多いのだが、井奥が言うように<美>という概念が形成されるのが18世紀中ごろだとすると、その理由はすっきりする。逆に言えば、『精神について』という著作は、<beau>という言葉が<素晴らしい>という意味(概念)から<美しい>という意味(概念)に変わっていくちょうど境目あたりの時期に位置していて、<精神>が題材であるだけに、その変換の実例といえるのかもしれないという気がしてきた。

一方、本書の後半2章で取り上げられる<崇高>と<ピクチャレスク>の二つの概念は、<美>という概念が派生してから<美>のなかには収まらないもの、あるいは<美>を構成するものとして芸術をめぐる議論のなかに登場してくるとされるが、そこでの議論は、それらの概念は芸術家に内在的なものと考えられたのか対象のなかにある外在的なものと考えられたのかという問題に変わっていく。このあたりの議論の進め方は、やや図式的という印象も受けた。

いずれにしても、「美が主観的なものと考えられるようになるにしたがって、それまでの美の概念には当てはまらなかった不規則で無秩序なものに対して、独特の魅力が見いだされるようになります。(中略)なかでも、大自然が引き起こす恐怖と混じり合った高揚感は『崇高』と呼ばれるようになりました。さらに、崇高な自然ほど巨大ではない自然に対しては『ピクチャレスク』という概念が生まれました」(同297頁)という。

「こうして『美、崇高、ピクチャレスク』という3つが並び称されるようになり、近代の美意識として成立」(同297頁)というのが、井奥による西洋近代美学の総括である。

新書という制約があり、議論全体が概観的ではあるが、よくまとまった面白い著作だとおもった。