本と植物と日常

本を読んだり、訳したり、植物に水をやったりの日々…。

幻の作家・内田善美の『星の時計のLiddell』を読む

何年振りかで内田善美のコミック作品『星の時計のLiddell』(集英社、1985年~86年)を読んだ。

コミック・ファンでも内田善美を知る人は少なくなったのではないかとおもうが、1974年にデビューし、1986年『星の時計のLiddell』第三巻刊行を最後にコミック界から姿を消したいわば幻の作家だ。私が内田の作品を知ったのは、この作品第一巻刊行当時、たまたま六本木の書店に並べられていたのを見て。その表紙絵の美しさに、「まったく知らない作品だけど、これはきっと私好みの内容にちがいない」と購入したのがきっかけとなった。その後遡っていろいろな内田作品を読み、作者はいったいどんな人なんだろう、何を考えながら作品を書いているのだろうとおもっていたが、新作はまったく刊行されず、『星の時計のLiddell』第三巻刊行を最後に事実上引退したと知ったのは、それからだいぶたってからだ。『星の時計のLiddell』も、人に貸したら戻ってこなくなり、その後ネットで見つけて再購入した。

幻の作家・内田善美の『星の時計のLiddeell』

閑話休題

星の時計のLiddell』の舞台はアメリカ。起点はシカゴ。そこに住むヒューという若者にいつも同じ夢が訪れ、最後にヒューは、その夢に同化して現実の世界から忽然と消えてしまう。

これだけであれば、似たような物語はいくつかあるかもしれないが(特に小説の世界で。また『荘子』の「胡蝶の夢」にも何度か言及される)、この作品は、その視覚化がともかく半端でなく素晴らしい。細かい細部まで描きこんだ絵は、そのなかに吸いこまれそうだ。

ヒューの夢に登場する少女Liddell。背景の細かい描きこみがすごい


また、専門用語でなんというのか知らないが大胆なカット割りがすごい。それと言葉(ネーム)。「訪れる時間のなんという美しさ」という言葉に<かなしさ>というルビをふるといったあたり、おもわずゾクゾクしてしまう。要するに、この作品に関しては作品の構成要素すべてがあまりにも素晴らしく、作者がこれ以上の作品は描けないと姿を消したのも納得できてしまう。

今回読み返してみて特に素晴らしかったのは、第三巻の終わり、作品の結末部分のカット割りや言葉の選択。何度も夢にでてくる家をようやく探し当て、きっとヒューはその家のなかで夢の世界に入ってしまうのだろうと結末は予測できるのだが、そこでそれまでの部分と表現方法を変えることで、内田は、非現実的な物語を説得力をもって視覚化することに成功したのではないだろうか。

結末はよく知っていたのだが、それでもまさに「言葉にならない」余韻を感じた。