本と植物と日常

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ダーントン『検閲官のお仕事』を読む⑤ーー活字文化について考えさせられる

さて、以上の三部をまとめるとどういうことになるだろうか。

ダーントンは自問する。「検閲とは何なのか」(本書261頁)と。しかし、「この問いは正当なものだが、フランス人が『立て方の悪い問い(questions mal posées)』と呼ぶ概念上の落とし穴の一つ」(本書261頁)と、すぐに身をひるがえす。それは、「もし検閲があまりに厳格に定義されてしまうと、検閲は文脈にかかわらずにどこでも同じように作用する自律的現象のように理解されていまいかねない」(本書261頁)からだという。

それがどういうことなのか、私なりに言い換えると、<検閲>をあまり厳格にとらえると、実質的に検閲が行われていても<それは検閲の定義にあてはまらない>と検討対象からはずされ、<検閲>の実態を見過ごしてしまう可能性があるからではないだろうか。

本書で語られているように、<検閲>の実態は、時代、地域、そして書籍の流通システムによって変わり、さまざまな形態をとる。したがってこの問いにかわってダーントンが提示するのが、柔軟性のある「民族誌的な視点」だ。本書がブルボン朝フランス、英領インド、東ドイツと、あえて時代や社会背景、制度を異にし、容易に単純化することができない3つの事例を紹介した狙いもそこにあるといえるだろう。

この視点からは、検閲は総合的なものとして扱われる。「すなわち、統制のシステムとして、諸制度に浸透し、人間関係を彩り、魂の隠された働きにまで及ぶものとして扱うことになる。このような広い視野をもつことで、民族誌的歴史は、異なる社会で検閲が機能していたさまざまな方法を正当に評価することができる。民族誌的な歴史は検閲を物象化することも、[合衆国憲法修正条項の]権利宣言に対する違反さえも含む、なんでもありの公式に還元することも避けることができる」(本書279頁)とダーントンは言う。

ではなぜ、<検閲>を単純化することがないそうした視点が必要とダーントンは考えるのだろうか。本書は次のように結ばれる。

サイバースペースなどで、「国家が我々の一挙手一投足を監視しているかもしれない今日には、自らの立場を決めなければならない」(本書279頁)。

本書は、だいいちに、詳細なデータを読み込んだ検閲をめぐる歴史書と優れているが、歴史的事実をきちんとおさえているがゆえに、検閲論としても説得力がある。書籍を中心とする<活字文化>と社会のあり方について考えさせられる迫力のある研究書だ。