思ひ出づる折りたく柴の夕煙 むせぶもうれし忘れがたみに
昨日は、38歳で自ら命を断った友人Y君の命日だった。彼が自分で選んだことは仕方がないとあきらめつつ、話し相手がいない寂しさはどうしようもない。しかしそれは、Y君を悼んでいるというより自分自身のエゴかなとおもったりもしている…。
さて60歳を過ぎると、Y君だけでなくいろいろな親しい人の訃報を聞く。5月に亡くなった歌人・小説家のSさんについてもいろいろ思い出があり悲しいのだが、彼に関しては、文芸誌Eが特集を組むことになったという。で、先日からその特集に掲載してもらう追悼エッセーを書いているのだが、そのためにY君の思い出にずっとひたっていられないというもなんだか矛盾しているようにおもう。
まあ、いろいろな親しい人たちが亡くなってはいるが、私自身はまだとうぶん生き続けそうなので、これから先、生き続けて何をやるのか、少しずつ考えている(それは結局翻訳ということになるのだけれど)。
冒頭に引用した和歌は後鳥羽院が詠んだ哀傷歌で、柴の夕煙のせいにしながら亡くなった尾張更衣を思いだしてむせび泣いているといった意味。すなおにむせび泣けば思いはすっきりするかもしれないが、人生なかなかそうもいかない。私の好きな古歌の一つだ。