本と植物と日常

本を読んだり、訳したり、植物に水をやったりの日々…。

カポーティ『冷血』を読む

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トルーマン・カポーティ(1924年~84年)の『冷血』(佐々田雅子訳、新潮文庫)を読んだ。1959年にアメリカ・カンザス州で起こった一家4人殺害事件とその顛末や背景を描いたノンフィクション小説だ。

カポーティが意図したものかどうかは別にして、私がこの小説を読みながら感じたのは、いわば無常観。第三者による意図せざる突然のものか、裁判という制度によって決定されたものかというプロセスは別にして、すべての人間がいつしか束の間の生を終えて消え去るというはかなさだ。

そうした印象を受けるのはまず、小説の冒頭で、殺害されるクラッター一家4人の日常生活が細かく描かれることによる。

事件は金を奪うことを目的にまったく縁のない一家4人を殺害するというものなので、その事実を描くだけならば被害者一家(やそのまわりの人々)の日常の描写は不要とおもわれるのだが、カポーティはそれを事細かに描写する。そしてその日常はほんらいであればほとんどなんの変化もなく続いていくはずだっのだが、悪意をもった2人の侵入によって突然中断される。

その犯人2人についても、過去や家族関係、性格が細かく描写され、果たして強盗殺人という犯罪は必然だったのか、また事件そのものが必然だとしても死刑という判決に情状酌量の余地はなかったのか、暗々裏に問いかけられる。そこに、善人の死は哀れで、悪人の死(処刑)は当然といった勧善懲悪的な考え方ははいってこない。

また処刑という最期の問題は別にして、2人の犯人はどうしようもないならず者、強盗殺人事件を犯さなかったとしても何か社会的事件を起こさざるをえない欠陥をもった人間として描かれるのだが、もしかするとカポーティは、社会生活に適応できないならず者の生い立ちに、最初から強い関心を抱いていたのではないだろうか。というのは、彼の中編『ティファニーで朝食を』(1958年)の主人公ホリー・ゴライトリーも、やはり社会生活を拒否した女性だからだ。

映画『ティファニーで朝食を』では、オードリー・ヘプバーン扮するホリーは最後に小説家ポールとつき合うことを選ぶのだが、原作の小説では、ホリーはブラジルに逃避し、そこからまたアフリカを彷徨うことになっており、普通の社会生活をおくれるようにはおもえない(こころみに映画の続きを考えてみても、ホリーとポールの恋愛生活はすぐに破局を迎えるのではないだろうか)。

フィクションとノンフィクションの違いはあるが、女性であればまだ許される自分を社会に適応させることの拒否も、男がやると犯罪になってしまう。そして、そうした社会に適合できない人間に、ゲイのカポーティは共感を抱いていたのではないだろうか。

こうしたテーマの問題は別にして、カポーティの全体構成は非常に巧みだ。

つまり、『冷血』はノンフィクションだからといって取材した事実をそのまま並べたような作品ではなく、作品にするために、カポーティはいろいろ取捨選択したり、事実の配置に工夫している。

その幾つかをあげれば、まず、冒頭、時間どおりに描写をすすめながら、殺害の詳細を省いている。その悲惨な現場の描写を入れれば、作品はよりセンセーショナルなものにはなったかもしれないが、事件の背景を考えさせるという展開にはならなかっただろう。

同様に、殺害の詳細は後に犯人の自白として説明されるのだが、この点も、描写を第三者化していないために、できごとの心理性あるいは主観性が強まっているようにおもわれる。

結果として、『冷血』は、ノンフィクションだから迫力があるといったレベルを超えた、優れた作品になっているとおもう。