本と植物と日常

本を読んだり、訳したり、植物に水をやったりの日々…。

孤独な心のおののきが伝わる高井有一の『北の河』

高井有一(1932年<昭和7年>~2016年<平成28年>)の小説集『北の河』(文春文庫、1976年<昭和51年>)を読んだ。表題作『北の河』のほか、『夏の日の影』『霧の湧く谷』『浅い眠りの夜』の4篇の作品を収めている。

このうち『夏の日の影』と『北の河』は1965年に同人誌<犀>に続けて発表した中編小説で、高井はこの『北の河』で同年の芥川賞を受賞した。また『霧の湧く谷』と『浅い眠りの夜』はその翌年に発表されている。比較的短い時期に集中して書かれた小説集といえる。

作者の心のおののきが伝わる『北の河

4篇のなかで最初に書かれた『夏の日の影』については、自身の評伝『立原正秋』のなかに、立原がこの作品の価値を認め助言してくれたと、執筆時のいきさつを書いているので引用しておく。

「彼(立原正秋)は『ぼくはこの作品を採ります。地味ではあるが作者の眼は確かです』と認めた上で、それにしても百二十枚は長過ぎるから三分の二以下に縮めなくてはいけない、『暮色』という題は古くさいから取替えるように、と指示が付いていた。(中略)三分の二に縮めるのは到底不可能のような気がしたが、いざ手をつけてみると意外に筆が捗って、一週間余りで八十枚の、それまでとはまるで相貌の異る作品が仕上がった」(『立原正秋』23頁)

「彼が、三分の二以下に縮めろ、と乱暴とも思える忠告をして呉れなかったら、私は短編小説の骨法を把むのにまだまだ時間を要して、次に書いた『北の河』で芥川賞を受賞する幸運に恵まれる事はなかったに違いない」(同書24頁)

作家としての出発点でのこの助言に、高井は大きな恩義を感じ続けていたのだろう。そのことは『立原正秋』の随所にうかがえる。また立原が親身になって高井を成功させようとした背景には、幼くして父を失ったという高井の生い立ちに、自己と同じようなものをみていたからではないだろうか。

さて各作品の内容だが、『夏の日の影』は、第二次大戦中の父の病死を、続く『北の河』は、母子二人暮らしになったなかで空襲のために家を失い、東北に疎開したときの思い出を書いている。北国の寒さがつのるなかで母は精神のバランスを崩し、川に投身自殺してしまう。いずれも高井自身の生い立ちにもとづく話で、それを当時の少年の視点からではなく、成人した作者の眼から描いている。出来事が生じてから時間を経た現在の視点から描くことで、亡くなった父母だけでなく、それを目撃した自分自身も突き放されているのが、両作品の特徴といえるだろう。さらっと書かれた次のような文章にも、その特徴が出ている。

「母が去って独り遺された十五歳の私には、周囲の人の関心が集まり、彼等は口々に同情し、またあれこれと指図したが、それ等一切は私の外側を通り過ぎて行った」(『北の河』10頁)

この突き放した感じが、両作品の良さでもあり、また作品のなかになかなか入れないというもどかしさを感じさせる原因でもある。しかしもしかするとそれは、幼くして両親を失った高井の心性のなかに深く根付いてしまった一種自閉的な語り口なのかもしれず、それが自動筆記のように吐露されているという点では、両作品の構造や文体は、内容以上によく高井の孤独な心のおののきを語っているともいえる。

続く『霧の湧く谷』は、現在進行形で伯父を弔う話。『浅い眠りの夜』は学生時代のエピソードに基づく話。『浅い眠りの夜』の真船湘一という主人公の視線は、高井の視線に近いように感じられる。ただその一方で高井は真船の学友で小説家志望の寒河洪太を登場させ、小説を書くことへのこだわりをこの寒河に代弁させる。作品集『北の河』に収載された4作品のなかで、私はこの『浅い眠りの夜』がもっともバランスがとれていて小説としてうまくまとまっているように思われた。

いずれにしても、自分のなかに沈潜しようとする心的傾向と、自分の内面を文学作品として表出しようとする意識のせめぎあいが、小説集『北の河』の特徴であり、また魅力といえるのではないだろうか。