本と植物と日常

本を読んだり、訳したり、植物に水をやったりの日々…。

プルーストの映画化『スワンの恋』ーー主人公たちの疎外感を浮き彫りに

今日はDVDでフォルカー・シュレンドルフ監督の仏独合作映画『スワンの恋』(1984年)を鑑賞した。マルセル・プルーストの大長篇小説『失われた時を求めて』の第一篇「スワン家のほうへ」の第二部「スワンの恋」の映画化作品だ。

主人公たちの疎外感を浮き彫りにした『スワンの恋

私は原作小説を読んだばかりなので、映画と原作の違いがよく分かるのだが、映画は原作をなぞったというより、原作をかなり大胆に組み替え、それに『失われた時を求めて』の他の部分のエピソードをはめ込んで、独自の作品としてうまくまとめている。

また原作は主人公シャルル・スワンの心理を微に入り細に入り書き込んでおり、その説明の繊細さがこの小説の特徴の一つでもあるのだが、映画は言語による細かな説明が不可能なので、スワンという人物を突き放して、彼の行動を中心に、ある意味で原作よりも客観的に<スワンの恋>を描いている。

そうしたなかで、映画を観て気づかされたのは、映画の主要登場人物であるスワン(ジェレミー・アイアンズ)、その愛人オデット(オルネラ・ムーティ)、スワンの友人シャルリュス男爵(アラン・ドロン)がともに社会のなかで少数派の異端児的存在であるという事実。スワンはユダヤ人であり、オデットは高級娼婦であり、シャルリュス男爵は同性愛者であるということで、いくら社交界に出入りしても、自分は社会からほんとうには受け入れられていないという意識をもって生きていたのではないだろうか。

実は、プルーストの原作は人間心理や感情を細かく書いているようで、そのあたりの疎外感にはあまり触れていない。たとえば、スワンとシャルリュスは、原作では、芸術に対する審美眼の鋭さをとおした古くからの親友としか説明されていないのだが、映画を観ていると、どちらも社会から浮いた存在で、その疎外感が二人の友情を強めているのではないかという気がしてくる。

またスワンとオデットの恋愛感情も、映画の冒頭でこそ恋人同士という描き方だが、その後は、スワンの猜疑心とオデットの浮気心のせめぎ合いの連続で、相思相愛からはほど遠い。そのうえ、スワンは周囲の人物たちからオデットと結婚したら縁を切ると何度も警告され、オデットにのめり込むことは社会的には自分のためにならないと自覚しながら、オデットから離れることができない。この心理をもう少し突き詰めていくと、ユダヤ人であるスワンは財産や社会的地位によって社交界に受け入れられているものの、みなから歓迎されて全面的に受け容れられている訳ではないことを自覚しており、それゆえオデットとの恋愛や結婚によって社交的な付き合いから排除されても、結局そのダメージはそれほど大きくないと考えていたのではないかという気がしてくる。

これをオデットの側から逆に考えると、いくら自分のことを愛してくれても、貴族や単なる金持ちの男と付き合ったり結婚したりすると、いつか自分は捨てられるのではないかという不安があるが、ユダヤ人というコンプレックスをもっているスワンは自分を捨てることができないだろうという計算がどこかにあって、最終的にスワンを選んだのではないだろうか。

いずれにしても、映画は、原作には書かれていない人間関係を新たに浮き彫りにしている。

作品の設定は、1870年(明治3年)に始まったフランス第三共和政初期のパリで、時代の雰囲気がよく出ており、小説世界を具体的に理解するのにとても役に立った。

撮影は、イングマル・ベルイマンの撮影監督を数多くつとめたスヴェン・ニクヴィストで、社交界を映していても、華やかというよりはかなりクール。

原作では、ヴァントゥイユのソナタという楽曲が重要な役割を果たすのだが、映画はヴェルナー・ヘンツェらが音楽を担当し、プルーストが言語だけで表現した架空の曲をそれらしくうまく聴かせてくれる。

俳優陣では、主役の3人の好演に加え、ゲルマント侯爵夫人役のファニー・アルダンが光っている。

『失われた時を求めて』~「スワン家のほうへ」を読む

ドライなミシェル・ウエルベック作品『闘争領域の拡大』『素粒子』を読んだ反動で、急にウェットな文学の極致ともいえるマルセル・プルースト(1871年~1922年)の『失われた時を求めて』が読みたくなった。20世紀文学の最高峰の一つとされながら、あまりの長さに多くの人が途中で投げ出し、知名度のわりに完読した人が少ないという手ごわい作品だ。私もかつて途中までは読んだのだが、多くの人の例にもれず途中で投げ出している。今回もはたして完読できるかは分からないが、それならばそれで、ともかく途中まで読んで続きは持ち越しにすればよいという気持ちで読み始めた。翻訳はいくつかあるのだが、私が選んだのは高遠弘美氏訳の光文社文庫版。

プルーストの大長編『失われた時を求めて』を読み始めた

ウィキなどで簡単に分かることではあるが、自分のためのメモを兼ねて、まずはこの作品の基本データを記しておく。

失われた時を求めて』は全7篇で構成されており、各篇のタイトルは「スワン家のほうへ」「花咲く乙女たちのかげに」「ゲルマントのほう」「ソドムとゴモラ」「囚われの女」「消え去ったアルベルチーヌ(逃げ去る女)」「見出された時」。

最初の「スワン家のほうへ」は1913年に出版され、その時点の構想では、続篇は「ゲルマントのほう」「見出された時」のみの三部作だったが、「スワン家のほうへ」刊行直後にはじまった男性アゴスティネリとの恋愛感情とその突然の死、第一次世界大戦(1914年~18年)のはじまりによって、構想は大きくふくらんでいった。

第二篇「花咲く乙女たちのかげに」の出版は、戦後の1919年。その後、第三篇「ゲルマントのほう」、第四篇「ソドムとゴモラ」が次々に刊行されたが、すでに健康を害していたプルーストは、残る「囚われの女」以降の原稿を書き終えたものの推敲や加筆することができずに亡くなり、第五篇以降は、プルーストの最終的な確認を経ないまま、遺作として刊行された。第七編「見出された時」が出版され、作品全体が姿をあらわしたのは、1927年。

この記事を書いている時点で、私は第二篇「花咲く乙女たちのかげに」を読んでいる途中なので、今全篇のテーマを要約することはできないのだが、第二篇の最初の方までで描かれているのは、19世紀末のフランス第三共和政時代のかなり裕福な一族の社交関係。

第一篇「スワン家のほうへ」では、主人公である<私(名前は明かされない)>の幼年期の思い出、父の故郷である田舎町コンブレーでの隣人スワンにまつわるエピソード(第一部「コンブレー」)、そこから遡って主人公誕生以前のスワンの恋愛問題(第二部「スワンの恋」)、やや成長した主人公がパリのシャンゼリゼで出会いほのかな恋心を抱いたスワンの娘ジルベルトとのやり取り(第三部「土地の名・名」)が描かれる。ただし第一篇は全篇の導入部分なので、これだけでは、長い作品全体がこのあとどう展開していくのか、ほとんど分からない。

さて、物語は次のようにはじまる。この部分は、「スワン家のほうへ」だけでなく長篇『失われた時を求めて』全体のはじまりでもあり、プルーストとしても深く考えた表現になっている。とても有名な文章で、どのように翻訳するか、訳者の腕の見せどころでもある。高遠氏の訳は次のとおり。

「長い間、私はまだ早い時間から床に就いた。ときどき、蠟燭が消えたか消えぬうちに「ああこれで眠るんだ」と思う間もなく急に瞼がふさがってしまうこともあった。そして、半時もすると今度は、眠らなければという考えが私の目を覚まさせる。私はまだ手に持っていると思っていた書物を置き、蝋燭を吹き消そうとする。眠りながらも私はいましがた読んだばかりの書物のテーマについてあれこれ思いをめぐらすことは続けていたのだ。」(「スワン家のほうへ」Ⅰ、23頁)

主人公は病弱で神経過敏気味であり、夜、なかなか寝付けない。そんなときに母がそばにいてくれたらといつも期待しているのだが、厳格な父親は、そうした行為は子供を甘やかしますます病弱にしてしまうと、入眠時に母が見守ることやキスをすることを認めない。しかしある晩、どうした気まぐれか父は母の添い寝を認める。主人公はそのことを喜ぶと同時に、こうした喜びはもう訪れないだろうという自覚に苦しむ。

そうした記憶のほとんどを忘れて成長した冬のある日、寒いからといって母がたまたますすめてくれた紅茶を一口飲み、菓子マドレーヌを食べた瞬間に、その味覚が、無意識のうちに幼い頃にコンブレーの叔母の部屋で飲んだ紅茶とマドレーヌの味覚につながり、過去の膨大な記憶がよみがえる。それを、プルーストは次のように美しく表現している。『失われた時を求めて』のなかでも、非常に有名な一節だ。

陶磁器のお椀に水を満たし、そこに小さな紙片をいくつか浸すと、「紙片はたちまち伸び広がり、ねじれて、色がつき、互いに異なって、誰も見てもわかるしっかりしたかたちの花や家や人物になる」(「スワン家のほうへ」Ⅰ、122頁)という遊び(プルーストによれば、それは日本風の遊び)のようで、主人公の家や「スワンの家の庭に咲くあらゆる花が、ヴィヴォンヌ川の睡蓮が、善良な村人たちが、彼らの小さな住まいが、教会が、コンブレー全体とその周辺がーーそうしたすべてが形をなし、鞏固なものとなって、町も庭もともに、私の一杯の紅茶から出てきた。」(「スワン家のほうへ」Ⅰ、122頁)

このあとの筋の紹介は省略するが、今回読んでみて、強く印象に残ったのは、第一篇「スワン家のほうへ」の結びだ。

「かつて知っていた場所を私たちはいとも簡単に空間世界に位置づけるが、そこだけに属しているわけではない。それは当時の私たちの生活を形作っていた、互いに隣り合うあまたの印象の中の薄い一片にすぎないのだ。何かのイメージを回想するとは、何らかの瞬間を愛惜することにほかならない。家々も、道路も、通りもみな、はかなく逃れ去ってゆく。そう、悲しいことに歳月もまた。」(「スワン家のほうへ」Ⅱ、579頁)。

プルーストを読みながら、読んでいる私も、自分なりに<失われた時>を回顧し、その意味を考えることになりそうだ。

現代の精神的・性的病根を抉り出したウエルベックの『素粒子』

フランスの作家ミシェル・ウエルベック(1958年生)の小説『素粒子』(1998年、野崎歓訳、ちくま文庫<2006年>)は、異なった環境で互いに面識もなく育った異父兄弟を中心にした物語。恋愛や性の面で<闘争領域>が拡大し、それによって、結果的に恋愛や性からはじきだされてしまった人間の行動を冷徹に描き、それに生物としての人類の未来をからめている。

素粒子

この作品、主役となる兄弟それぞれに関して家系や幼年期の生活についての説明はあるが、言ってみればそれは端的な<説明>であって、普通の意味での性格描写からはほど遠い。というか、ウエルベックは、物語である以上登場人物の生い立ちについての最低限の説明は必要だが、彼らの性格描写や心理的な絡み合いは作品に不要と考えているのではないだろうか。このため、読んでいてとてもドライな印象を受ける。

さて作品を少し具体的にみてみよう。

1928年に生まれたジャニーヌは、美貌と知性に恵まれ奔放な生活と男性関係に生きるが、その関係から生まれた二人の子供を育てることにはまったく関心を示さない。異なる父親から生まれた子供たちは、母親の愛情を知らないまま、それぞれの祖父母に育てられて成長する。弟ミシェルは天才的な生化学者になり、兄ブリュノは高校教師になる。彼らは性格も社会的な地位もほとんど正反対の人物として描かれる。

作品の冒頭で紹介され、普通に考えれば物語の主人公であるミシェルは国立研究所に勤め社会的にはめぐまれているが、性的なことには関心がなく、孤独な生活を送って、それを厭わない。

「本書は何よりもまず一人の男の物語である。男は人生の大部分を、二十世紀後半の西欧で生きた。ほとんどいつも孤独だったが、ときには他の人間と関係を持つこともあった。男の生きた時代は不幸で、混乱した時代だった。男を生んだ国はゆっくりと、しかしあらがいがたく中貧国の経済レベルに転落していった。彼の世代の人間は、たえず貧困に脅かされ、そのうえ孤独と苦々しさを抱えて人生を過ごさねばならなかった。」(本書9頁<プロローグ>)。

――なので、主人公といっても、彼のまわりでは、波乱を呼ぶような出来事はほとんど起こらない。

一方、異父兄ブリュノは、前作『闘争領域の拡大』のティスランのイメージを引きずった性格設定で、結婚歴はあるが、その結婚と性生活に満足できず離婚して、フリーセックスに救いを求めている。しかし強い短小コンプレックスをもち、相手に嫌われるという強迫観念を抱いているため、フリーセックスといってもほとんどうまくいかない。

登場人物の性格描写が希薄なかわりに目立つのは、ブリュノがかかわるヌーディストの集団や見知らぬ相手との行きずりのセックスの詳細な描写で、『素粒子』出版後の大評判も、通常の小説では描かれないフリーセックスの極致のようなさまざまな男女の出会いを描いたことによるところが大きかったのではないだろうか。

さてブリュノは、「変革の場」という社会のしがらみから解放されて、思い切りセックスできるキャンプ場でクリスチヤーヌという理想的なセックス・パートナーと出会い、共同生活を始めようとするが、それもつかの間、彼女は半身不随になり死んでしまう(おそらく自殺)。葬儀の後、ブリュノが向かう先は精神クリニックしかない。

このブリュノの話の後に、言わばエピローグとして、研究所を退所したミシェルの短いエピソードが続く。

そして作品そのものは、現代を一気に飛び越えて、遺伝子操作による人類の未来(新人類の誕生)を見通して終わる。

まとまりの良い作品とは少しも言えないが、現代社会がかかえる精神的・性的な深い病根を鋭くえぐり出している。

性の敗残者を描いたウエルベックの『闘争領域の拡大』

フランスの現代作家ミシェル・ウエルベック(1958年生)の小説『闘争領域の拡大』(1994年、中村佳子訳、河出文庫<2018年>)と『素粒子』(1998年、野崎歓訳、ちくま文庫<2006年>)を続けて読んだ。ウエルベックは、次々と刊行される作品が、フランスのみならず、各国で注目されている話題の作家。現代フランス社会を、単に表層から見るのではなく、性の解放が進み、逆に、愛や人格といったものが希薄になってしまった現実を冷酷にとらえ、その未来までも見通しているのが、彼が高く評価されている理由だろうか。

<闘争領域の拡大>は、敗残者を生み出す

こちらは、ウエルベックの長篇処女作『存在領域の拡大』。実は、『素粒子』を読んでから、振り返りのためにこの作品を読んだのだが、個人的には、こちらの方が話がコンパクトにまとまっていて、完成度が高いようにおもった。

主人公兼物語の語り手は、コンピューター・ソフト開発会社の若い職員。新ソフトを農務省に売り込み、その利用方法の研修のために、同僚ティスランと共に地方都市に出張する。その出張前後のエピソードが物語の内容になる。

この作品、タイトルが変わっているが、ウエルベックによれば次のような事態をさす。

「完全に自由な経済システムになると、何割かの人間は大きな富を蓄積し、何割かの人間は失業と貧困から抜け出せない。完全に自由なセックスシステムになると、何割かの人間は変化に富んだ刺激的な性生活を送り、何割かの人間はマスターベーションと孤独だけの日を送る。経済の自由化とは、すなわち闘争領域が拡大することである。それはあらゆる世代、あらゆる社会階層へと拡大していく。同様に、セックスの自由化とは、すなわちその闘争領域が拡大することである。それはあらゆる世代、あらゆる社会階層へと拡大していく」(本書126~7頁)。

作品は、性の自由化によって想像力のみが肥大し、実際にはすべてのセックスを拒否されるブ男・ティスランの悲喜劇を、主人公の視点から描いている。

そして主人公はというと、性的な意味では必ずしも敗残者ではないのだが、仕事(経済領域)に生きがいを見出すことができず、自ら崩壊への道をたどっていく。

<闘争領域の拡大>という現代社会の問題に鋭く切り込んだ佳作だとおもった。

自治会の仕事を引き受ける

先日、近くの小学校で自治会の引継ぎのための打ち合わせがあり、隣家の方から、「順番なので1年間自治会の役員を務めて欲しい」と言われて出かけところ、自治会の事務局を引き受けさせられた。

近隣は閑静な住宅街

現住所に引っ越してから約3年半経つが、これまでは、向かいの音楽一家、ゴミを出し合う近隣の方ぐらいとしか付き合いがなかったので、ほんとうのところ、自治会と言われてもイメージがさっぱりわいてこない。この地域は閑静な住宅街で、大半の自治会員は庭付き一戸建ての住宅に住んでおり、全部で200世帯ほどだという。

『精神について』の校正がほぼ終わり、しばらくのんびりできると思っていたのだが、これから1年間、またまた大変そうだ。

翻訳の二次校正が終わる

『精神について』の二次校正が本日ようやく終わった。最後に残ったのは、自分が書いた<訳者からのメッセージ>の校正だったが、知人からもらったアドバイスを反映させて、自分なりに分かりやすさを意識した。

翻訳の二次校正がようやく終わった

また、すでに校正して共訳者に送付した分についていろいろ問い合わせが入っており、それへの対応がまだ残っているが、とりあえずは一安心。

今後の手順としては、二次校正の内容を出版社の方でもう一度ゲラに反映させ、それをもう一度チェックする(三次校正)という作業があるが、ともかくこれで、だいぶ刊行に近づいた。

喉の炎症で病院に行く

金沢から戻ってからずっと喉が痛くて、一時はほとんど声が出せないほどだった。熱はほとんどないのだが、空咳がひどくて、けっこう消耗する。このためアルバイトを数日休んだほどだ。ここ数日、症状はだいぶ軽くなってきてはいるものの、いつまでたっても軽い痛みがおさまらない。私はもともと喉が弱い方で、喉の炎症をおこしやすいのだが、今回の炎症はいつもとちょっと違っていて、やっかいだ。それに、目も充血している。

痛みを感じてすぐに、喉の炎症用の市販薬を買ってきてのんでみたが、症状はほとんど改善しない。最初の一般的な薬を全部服用し終わって、次に買ってきた漢方薬も、あまり効果がないままのみ尽くしてしまった(夜中に咳が止まらなくなったとき、龍角散がよく利いて、それにはとても助けられた)。こうなると、次の薬はどうしたらいいか、どうしたら治るのか、しろうとにはまったく見当がつかない。

喉の炎症で病院に

ともかく、今日はアルバイトが休みなので、近くの総合病院に行って、症状をみてもらった。診察の結果は、ウイルス性の感染症ではないかということだった(コロナではない!)。炎症の原因が分かり、喉はまだ少し腫れているが、治りかけているという診断結果だったので、ちょっと安心した。また、心配の種の薬についても、ウイルス対策の薬はないものの、目薬を含めて4種類出してもらって、これまた安心した。