本と植物と日常

本を読んだり、訳したり、植物に水をやったりの日々…。

友人からの古い年賀状

今日は一日中DMの宛名書き。埼玉の美術館から9月23日にはじまる展覧会の宣伝を依頼されており、バンフや招待券をたくさん預かっているので、私の知人のなかから関心がありそうな人や埼玉に住んでいる人を抜き出して、せっせとDMを書いた。さて、DMを書いているうちに、転居して住所が変わってしまった人が何人かいたので、古い年賀状を取り出して、それらの人の住所を確認した。

 

閑話休題

去年もらった年賀状をチェックしていたら、去年の7月に亡くなったY君からの年賀状が出てきたので、少しどっきりした。Y君が亡くなって1年以上たち、気持ちを切り替えたつもりでも、何かの拍子に遺品がでてくると、またやりきれない気持ちになる。

私のまわりでは、歌人のSさんが今年の5月に亡くなったが、Sさんの場合は、『ユリイカ』から追悼特集が出てたくさんの人に遺業をしのんでもらうことができる。Y君の場合は、私とご両親や家族くらいしか彼をしのぶ人がいないので、せめてこのブログでY君の年賀状を紹介し、あらためてY君を追悼したい。

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亡くなった友人からもらった年賀状が出てきた

今日でてきた年賀状は、次のような文面だ。

 

   あけましておめでとうございます。

 昨年は大変辛く、苦しく、何度も何度も消えて無くなってしまいたいと、

 強く思う年でした。10月末くらいから少し先が見え、如月さんの

 お力添えあって、今があります。ありがとうございます。

 ITのメディア系の方が、プロットや技術の指導をしてくださっている

 ので、しっかり的を見据え、書き進む2020年になります。

 今年もよろしくおねがいします。 Y

 

年賀状をもらった時にはうかつにもまったく気がつかなかったのだが、改めて読みなおして、Y君はこの年賀状で既に死にたいというサインを出していることに気がついた。

しかしその一方で、「しっかり的を見据え、書き進む」とも書いているので、作品の完成を目の前にしてなぜ彼が死を選んだのか、やはりよくはわからない。作品を書き終えて、自分のなかでなにか解決したような気になったのだろうか。それとも、書き終えてもなにも解決しないとおもったのだろうか。私につきつけられた永遠の謎だろう。