本と植物と日常

本を読んだり、訳したり、植物に水をやったりの日々…。

愛の本質を問うリラダンの『未来のイヴ』

ヴィリエ・ド・リラダン(1838年~89年)の小説『未来のイヴ』(1886年刊、高野優氏訳、光文社古典新訳文庫)を読んだ。「アンドロイド(人造人間)」という言葉を最初に使ったとされる作品だ (作品のなかで実際に使われている言葉は<アンドレイド(andréide)>)。このため人形や人造人間に関心をもっている人には有名で、以前から気になってはいたのだが、読む前から結論が分かっているような気がして、これまでずっと敬遠してきた。しかし実際に作品を読んでみて、私の事前予測は、良い意味で裏切られた。

人造人間が登場する最初の小説『未来のイヴ

読む前に私が予想していた内容は、うまくできた人造人間に、人間が恋をするというおとぎ話。しかし実際には、作品に登場する人間・エウォルド卿は、アダリーと命名されたアンドロイドがつくられる過程をこれでもかというほど知らされており、アンドロイドを人間と取り違えるのではない。つまり物語は、ミス・アリシアという実在の女性に失望したエウォルド卿に、発明王エジソンが、科学の粋をつかってアンドロイドを提供することを約束し、そのアンドロイドをつくるプロセスを細かく説明していくというかたちで進んでいく(作品の叙述の多くは、その製造過程にかかわっており、その細かな説明そのものも作品の魅力の一つ)。エウォルド卿は、アンドロイドを人間と取り違えるのではなく、アンドロイドを人造物と知りつつ惚れ込んでいくのだ。ただし、完成したアンドロイド・ハダリーとエウォルド卿が二人だけになる場面では、製作者エジソンの思惑を超えてハダリーに独自の<人格>が生まれてしまったのではないかと思わせる描写があるのだが、そこは解決されず曖昧なままになっている。

作品の結末も、解説を読むと、何度か書きかえられているうちに現在の結末になったとのことで、この<恋>をどのように終わらせるのか、リラダンは相当悩んだようだ。

いずれにしてもこれは、幻想的なおとぎ話というより、人間の愛は何に向かうのかという愛の本質を問う人間論というべき作品だとおもう。

そしてこの人間論に、次のような特権的な微睡(まどろみ)論が加わる。

「わたくしたちは<無限の世界>が存在して、いつかはそこに行くと無条件で認めているのに、<無限の世界>を予感したり、またその世界のことを思って足がすくんだり、早く<無限の世界>に行きたいと願望することでしか、それを想像することができないのです。ただし、これは<理性>や<感覚>がはっきりしている時のことで、さっきお話ししたような眠りに入りかけた時、精神が<理性>や<感覚>の重みから解放されて、夢と現(うつつ)の中間にいるような時はちがいます。」(本書674頁)

こうした微睡(まどろみ)論は、プルースト(1871年~1922年)の世界にもつながっていくのではないだろうか。リラダンが『未来のイヴ』を書いたのが1878年から1886にかけて。プルーストが『失われた時を求めて』を書き始めたのは1910年頃であり、そこに共通する世界観があってもおかしくはない。

なお、この作品の「訳者あとがき」は、作品解説というより翻訳論になっており、そちらも私はおもしろく読めた。

簡単にいうと、訳者・高野氏は長い間「原文と訳文の関係は、楽譜と演奏の関係に近いと思ってきた」(本書814頁)とのことだが、最近その考えをあらため、「翻訳とは<編曲>である」(同)と思うようになったという。そして、<編曲>と知りつつ、どのように誤訳を防ぐかという方法論にも、共感を覚えた。

ちなみに、リラダンは零落した貴族の御曹司で、フルネームはジャン・マリ・マティアス・フィリップ・オーギュスト・ヴィリエ・ド・リラダン。その出自と実生活の落差が、人間(実質)よりもアンドロイド(理想)を選ぶという作品の主題と深いかかわりをもっているようだ。

なお日本では、彼の名前は<リラダン>と呼びならわされているが、彼の名前をあえて短縮するならば、リラダンではなくヴィリエとすべきとのこと。なおリラダンの綴りは「l’Isle-Adam」で、「アダムの島」ということになる。